第9話
連絡先が八件増えた。全部クラスメイトのものだ。
スマホが持ち込める高校を選んでよかった。自転車を漕ぐ足が軽い。親と陽葵以外の連絡先があるなんて、実に不思議だ。赤信号になるたびに、ポケットからスマホを取り出して、何度も連絡先を見返した。無性に嬉しかった。
自分の部屋に戻ってくる。陽葵はいない。なんとなく寂しくなって、ベッドに倒れ込んだ。するとスマホが震えた。着信だろうか。
『おいすおいす』
高木からだった。こんな適当な文面を送るなんて、よほど暇なのだろう。礼儀として返信しようとするが、なんて返せばいいか分からない。下手に馴れ馴れしくはできない。かといって敬語まみれだと、距離を感じる。
迷っているうちに、またバイブが鳴る。
『今から映画行こう』
指が止まった。陽葵さえ除けば、誰かから遊びに誘われるのは初めてだ。すぐに「行こう」と打つが、送信する直前のところで留まった。冷静に文字を消して、今度は違う文面を作成する。
『ウイルスは大丈夫なの?』
『心配すんな』すぐに返信が来た。『休校期間が終わったから、緩くなった』
厚生労働省のホームページのURLが送られてきた。確かに、規制が緩和されるといった趣旨の内容が書いてある。
『デートだぞ松坂』
まだ大人数での行動は控えるべきらしいが、二人なら問題ないだろう。一度消したはずの「行こう」を、今度は自信をもって送った。
本日二度目の「行ってきます」を告げて、自転車のスタンドを蹴った。グリップを握り、走る勢いのまま、道路に飛び出した。
目的地は駅前の映画館。偶然にも、お互いの家から一番近かったのだ。というのも、高木も僕と同じ北斗市在住らしい。こんな小さな町だ。どこかですれ違っていても、さほどおかしくない。高木みたいな陽気なやつなら、一度見たら忘れられないはずだけど。
誰もいないのを見計らって、ちょっとだけマスクを下げる。隙間から入ってくる新鮮な空気を、鼻と口を使って吸い込む。再びマスクを着けると、口の周りがびしょりと濡れた。汗をかいていたらしい。なにせ炎天下でのサイクリングだ。北の大地といえども、焼けるような季節が容赦してくれない。
ニ十分ほどで駅前に着いた。近くの駐輪場に自転車を停めて、スマホを確認する。通知はない。高木も移動中なのだろうか。のんびり歩きながら目的地に向かう。
少しすると、コンテナみたいに四角い外観の建物が見えてくる。気分が上がって早足になる。入口に到着すると、ワイシャツとスラックスの見慣れた男が待っていた。
「早かったな」高木が駆け寄ってくる。「何を観ようか、まだ決めてなかったぜ」
「ずるいなあ。僕も決めたいのに」
二人で映画館に入って、上映中の作品を確認する。特に目星を付けていたわけではないので、高木に任せることにした。
「そういえばさ」僕は思い出したかのように言った。
「ん」高木はポスターを眺めている。「どした」
「他の人は来なかったんだ」
「宿題が終わってないらしい。明日までに出さないと、磯田にボコられるんだってさ」
裏を返せば、遊びながら宿題も終わらせる高木は、結構器用なやつだ。どれをとっても中途半端な僕とは全然違う。
「ただ、門馬は塾だ。あいつの名誉のために言わねばならん」
「真面目なんだね」
「真面目っつーか……」僕を一瞥する。「合唱ができないから、勉強に力入れるしかないみたいだぞ」
そのとき頭に浮かんだのは、門馬じゃなくて、陽葵の顔だった。
――残されたもので何ができるか、一生懸命考えた。それがゲーム作りだった。
「必死なんだろうなあ。あいつ、ずっと何かになろうとしてんだ」
そう呟く高木の横顔が、妙に凛々しい。その一方で、どこか寂しさをまとっているようにも感じられた。今はまだ、彼に寄り添ってやることはできない。
数多くの映画から高木が選んだのは、何の変哲もない学園恋愛ものだった。
「どうしてそれに?」僕が問う。
「なんか、アホみたいにCMで流れてたから」
チケットを購入して、念のために用を足す。お互いに金欠だったから、ポップコーンは買わなかった。
シアタールームに入って、最も後ろの席に座る。高木曰く、前だと首が疲れてしまうらしい。あまり映画館に行かない僕には、その感覚が理解できなかった。
照明が落ちて、スクリーンが表示される。ベタな広告と注意喚起のあとに、映画は始まった。長いような短いような二時間が過ぎて、再び照明が点いた。
結論だけ言ってしまおう。映画の感想は、ノーコメントだ。
だけど、これは結論に過ぎない。ノーコメントに至った理由ならごまんとある。
最初は腰を据えて観ていた。いや、最初から最後まで真剣であろうとした。だがツッコミどころ満載なのだ。それだけなら、まあ、コメディとして鑑賞すればいい。
でも、黙って見過ごすわけにはいかない箇所がいくつもあった。
主人公は女子高生。親友や転校生の美少女と、学年一のイケメンを奪い合う話だ。設定云々は置いといても、酷かったという感想が先走る。
たとえば、主人公の味方だった親友が、あまりに突然、動線も伏線もなしに敵対する。その理由も恋心だけ。何年も付き添っていた親友が、突然主人公に包丁を向けるなんて、あまりに非現実的すぎる。しかも「恋の邪魔」とだけ叫んで。
思春期、青年期。恋の時期。子供を舐めている脚本家の態度がありありと伝わってくる。
結末だってそうだ。イケメンが親友と転校生を屋上に呼び出して、突き落とす。そして主人公と付き合う。しかし主人公は余命半年。イケメンは主人公と一緒に、崖から飛び降りる。
意味が分からない。悲しそうな音楽と共に、スタッフロールが流れたときには、笑いをこらえるのに精一杯だった。
陽葵の小説の方が面白かった。絵も役者も音楽もない『ナンバーワン』の方が、映画よりずっと良かったのだ。
首をかしげたくなる。この映画は、小説と比べても全然面白くない。なぜこの映画を撮ろうと思ったのかが疑問だ。序盤の時点で寝ればよかった、とさえ思ってしまう。
――序盤で投げた。つまらない。面白くない。なぜ作ろうと思ったのか。
ふいに浮かんだのは、僕のゲームに寄せられたコメントだった。
知らず知らずのうちに、このコメントを寄せた人物と、同じような感想を抱いてしまったらしい。
いや、同じではない。それよりタチが悪いのだ。作品一つを取って、脚本家の人格まで否定したのだから。
作品から作者を攻撃するなんて、絶対にいけない。健全な批判とは真逆だ。たとえ作品が酷かったとしても、次回作に期待すると言えるだけの気概を持つべきだった。
だから、結論はノーコメントなのだ。
映画が終わったあと、高木が「近くのカフェに寄ろう」と提案した。感想を言い合いたいらしい。少々困惑した。本音で話せるはずがない。誰が見ようと、面白くはない映画だったことには違いない。だけど直接的な表現で罵るわけにもいかない。あまりにまくし立てると、高木が引いてしまうだろう。
映画館から出る最中は、当たり障りのない言葉を探すので精一杯だった。高木と雑談を交わしながらも、大半のリソースは思考に割いていた。高木のように器用なら、このマルチタスクを完璧にこなせたのに。彼のことが羨ましくなる。
チリンとドアベルを鳴らしながら、近場のカフェに入る。結構空いていたからか、端っこの二人席に案内された。木製の椅子と机で、親しみやすさがある。
奥の席にどっぷりと座りながら、高木は顔を上げた。「いやあ……」
僕はというと、やっと万人受けする感想が思いついたところだった。椅子に座って、頭の中で何度も復唱する。悪くなかった。良い出来だった。評判通りだった。
机に肘を置いた高木は、ゆっくりと目線を合わせてくる。
「結構面白かったね」
「えっ」声が漏れる。
「あれ、面白くなかった?」
素っ頓狂な顔をする高木。予想外の感想が飛んできて、僕は驚きを隠せない。
「正直な感想でいいよ」
「正直、か」仕方がないので、本音で話す。「面白くは、なかった」
高木が理由を聞きたがってきた。その澄んだ瞳からして、揚げ足を取る目的ではないだろう。たとえるなら、自分と違う価値観を取り入れたい、好奇心の塊みたいな。
彼を信じて、思ったことを全部ぶちまけた。もちろん、監督や脚本家の悪口は抜きで。思わぬ形で、健全な批判のリベンジができた。内心、安堵する。
「言われてみれば、そうだなあ」高木が何度も頷く。「よく気付くよ、そんな細かいこと。松坂って、なんか詳しいんだな」
「詳しいっていうか……」陽葵の顔を思い浮かべる。「知り合いにさ、とんでもない物書きがいて。そいつに影響されたのかも」
ともかく、自分の感想は伝えた。すると今度は、高木の意見が聞きたくて仕方がなくなった。あの映画を面白いと思った感性に、皮肉でもなんでもなく、触れてみたいと思ったのだ。
その旨を伝えると、高木は鼻を掻いた。感想を渋っているようにも見える。
「松坂にとっちゃ、矛盾があるかもしれないけど、それでいいなら」
「それがいい」僕は身を乗り出す。「高木の感想が聞きたい」
まず高木は、なんでも加点方式で考える性格だと打ち明けた。そっちの方が楽しいからだとか。なんとも彼らしいと思う。
その上で高木が褒めたのは、役者の演技力だ。ほとんどの役者が新人らしいが、新人とは思えないほどの熱量で、演技だけでも映画に惹き込まれたのだという。なるほど、役者と演技。僕にはない視点だった。
あとは音楽だ。無名の作曲家が作ったというが、曲一つ一つに繊細さがあって、しっかりと物語に適応したものだったらしい。その物語がどうしようもない、とは思ってしまうけど。
「でもさ、やっぱ、楽しいわ。放課後に遊ぶの」高木が笑みを浮かべる。「勇気出して、松坂のこと誘って良かったよ」
これには面食らった。僕への誘い文句といい、クラスでの立ち振る舞いといい、勇気というか、元から社交的なやつかと思っていたからだ。
ともかく、高木が満足できたなら良かった。なんだか僕まで嬉しくなった。
帰るには早かったので、小一時間ほど雑談を交わした。彼がミルクレープを食べるためにマスクを外したとき、ようやく素顔を見ることができた。意外なことに、唇の血色が良い。
「やめろよお」高木が恥ずかしそうに笑う。「あんまり見られたら、照れるだろ」
「高木も見てくるじゃん」僕がコーヒーを啜る。
「俺はいいんだよ。俺は」
格好つけてコーヒーを頼んだのはいいが、思ったより苦い。感情のままに顔をしかめると、高木に爆笑された。僕もミルクレープを頼むべきだったかもしれない。
カフェから出たら、空が赤みがかっていた。六時は回っているだろう。僕たちは同じ町に住んでいるが、家は反対方向だった。現地解散の流れになった。
「また明日な」高木が颯爽と走っていく。「休校中の宿題、ちゃんとやれよ」
「僕は終わってるんだって」
夕映えに反響するほど、大きな声を出した。高木が目を細めて笑った。
彼が見えなくなるまで手を振った。ふわふわとした幸福感が、心臓を伝って、体全体に行き渡るのを感じた。ため息をついて、ここからは一人なのだと悟る。プラスの感情がゼロに戻っただけなのに、どうして喪失感が襲ってくるんだろう。
ひとまず、駐輪場に向かおう。自分の影を追いかけるように、太陽と真逆の方向に歩みを進める。夕日に背中を押されているようで、なんだか足取りが軽い。
「面白くなかったなあ」
足を止める。それとなく、声の方向に顔を向けてしまう。男性と女性の二人だ。どちらも五十代前後に見える。夫婦だろうか。
「どこもかしこも、見たことある感じ」男性が言う。「あんなにCMで流れてたから来たのに、拍子抜けだよな」
きっと、僕と同じ映画を観たのだろう。盗み聞きはよくないが、勝手に聞こえてくるのだから仕方がない。問題は、話の内容が気になってしまうことだ。
「お金の無駄って感じ?」皮肉っぽく、女性が笑う。
「無駄じゃないけどさ。雑な仕事するなあって思って」
男性が僕を一瞥する。些細な動作だというのに、まるでメデューサに睨まれたみたいに、動けなくなってしまう。
あれほど足取りが軽かったのに、今では踏み出すことすらままならない。
「俺でも撮れるよ、あんな映画。ちゃんと考えて作ったのかなあ」
二人が遠ざかり、やがて視界から消える。夕日が沈み、影の背が高くなる。
男性の口を覆う、あの不織布マスクを恨んだ。あの男性が、どういう意図を持って発言したかが、どうしても知りたかったのだ。
映画への失望か、妻を笑わせるための冗談か。あるいは、明確な悪意を持った罵倒か。
口元さえ見れば、大体の予想がついた。その口がマスクに覆われていた。予想は証拠のない憶測に成り下がった。求めた回答が得られぬまま、僕は帰路についた。
ペダルを漕ぎながら、自転車を停めながら、家の階段を上りながら。へばりついたガムみたいに離れない憶測を、どうにか剥がそうと試行錯誤した。
――お金の無駄って感じ?
自分の部屋に戻った。ワイシャツを脱ぎ捨てながら、パソコンを起動した。
――ちゃんと考えて作ったのかなあ。
窓から差し込む光が鬱陶しくて、カーテンを乱暴に閉めた。倒れるように椅子に座って、ホーム画面が映し出されるのを、ただただ無心で待った。
起動音がした。すぐにブラウザを立ち上げて、あの映画のタイトルを打ち込む。検索結果が出た。公式ホームページをクリックする。
高木の話によると、役者はほとんどが新人で、作曲家は無名。だけどCMは、高木の表現を用いるなら「アホみたいに」流れている。
では、どこから広告費が出ているのか。この映画のどれが武器で、どの要素から広告費を回収するつもりなのか。
それが、ホームページにはちゃんと書いてあった。
映画の脚本を担当したのは、僕でも知っているような、大御所芸能人だったのだ。
ため息をついて、背もたれに寄りかかる。ホームページでは、大御所芸能人の名前を押し出すCMが、絶え間なく流れ続けている。
まさか、作品の質じゃなくて、作者の知名度で収益を得ようだなんて。
あの男性の肩を持ちたくなる。ちゃんと考えて作ったのなら、こんな完成度になるはずがない。自分の名前さえあれば、どれほど破綻した物語でもいいと思いながら書いたに違いない。腹が立つ。歯ぎしりをする。叫びたくなる。
ふざけんなよ。真面目にやってくれよ。
知名度が創作物の全てなら、技術も努力も報われないじゃないか。芸術家の才能の輝ける場所が、一体どこにあるっていうんだ。地位と名誉で金が稼げるなら、どうぞ稼いでくれ。だけどそれを創作と呼ぶなよ。冒涜じゃないか。
――序盤で投げた。つまらない。面白くない。なぜ作ろうと思ったのか。
椅子から崩れ落ちる。這って、ベッドによじ登る。仰向けに倒れ込む。
――絵が下手。落書きを素材にするなら、最初からフリー素材にしてほしい。
腕を額に当てて、口で空気を吸い込む。吐き出す。繰り返す。
――展開が単純で、すぐに先が読めてしまう。面白くない。
うるせえ。黙れ。僕は自分の力だけで勝負したんだ。
――キャラが多い割に軽薄。表現しきれないキャラを抱え込みすぎ。
僕が大物作家なら、そんなこと言えるのかよ。
――今作は酷かったですが、次回作に期待しています。
一言余計なんだよ。タコ野郎。くたばれ。死ね。死んじまえ。
――二人でゲームを作ろうよ。
なんで、ゲームなんか。
情けなくなって、目をぎゅっと閉じる。冷たいものが目尻を伝って、顔を濡らす。
陽葵。僕の幼馴染。勉強はからっきしダメで、運動音痴。だけど中学二年生で、全国中学生小説コンクール最優秀賞受賞。
羨ましかった。町の誰もが振り向くような知名度が。頭の中身をぶちまけるだけで、拍手喝采を浴びる才能が。それに見合った力量が。愛嬌が。笑顔が。仕草が。
ただ一度だけ、何かになりたいと願った。若年ながらに才能を開花させて、横断幕まで作られる、陽葵のような神童になりたいと願った。
だからゲームを作った。特別な何かになりたかった。
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