第1章はキッカケのこと
第2話
「行ってきます」が嫌いだ。まだベッドの温もりが愛おしいからだ。
息苦しい不織布マスクを着けて、自転車にまたがった。見慣れた町を、慣れない手段で駆け抜ける。自転車通学は高校生の特権だ。動きにくい制服でペダルを漕ぐ。入学して一週間が経った今でも、まだ下半身が満足に動かない。
小一時間かけて、学校に辿り着く。偏差値七十の函館南高校。道行く人々の視線と尊敬を集めるために、わざと速度を緩めてから校門をくぐった。
自転車を停める。玄関を抜けて、教室に入った。心なしか、空気が暖かい気がする。春という季節だけの仕業じゃない。
隣の席の、髪の長い男子が「おはよう」と手を振ってくれた。僕も手を振り返して、荷物を机に置く。そして窓越しの桜を眺めた。北海道の桜は、四月のこの時期に開花するらしい。
これこそ、僕が待ち焦がれた高校生活だ。全員がマスクを着用していることを除けば、何もかも理想通りだ。マスクの奥でにやけてしまった。
チャイムが鳴る。席に着くと同時に、磯田先生が入ってきた。やけに険しい顔つきだ。体格が良いのもあって、なんだか威圧感がある。
何かあったんだろうか。
「みなさん、おはようございます」
先生の低い声が響く。
「息子の学校でクラスターがあったようです。どうやら、大人数で遊んでいた連中がいたようで」
クラスター。テレビでもよく聞く単語だ。本来は「集団」といった意味だけど、現在は新型ウイルスの大規模感染を表すために使われている。こういった経緯で転義が発生するんだな、と勉強になる。
「今は全員が我慢する時代です。誰か一人でも自分勝手に行動すれば、全員の頑張りが無駄になります」
ホームルームの話題も、もっぱら新型ウイルスだ。先生は保健体育が専門だから、気張っているのだろう。もちろん、良い意味で。
「マスク着用はもちろんのこと、大人数での集まり、外出にはくれぐれも――」
話を遮るように、放送のチャイム音が鳴った。
「緊急の職員会議を行います」凛々しい放送委員の声。「先生方は、至急職員室までお願いします」
放送終了後、慌ただしく廊下に飛び出す先生。ただごとじゃない。緊張が走る。
足音が遠ざかってから、教室は少しずつ喧騒を取り戻していった。話題はもちろん、新型ウイルスのこと。根も葉もない噂が飛び交う。高校でもクラスターが発生したとか、学校独自の対策を講じるとか、教員の中に濃厚接触者が現れたとか。
「濃厚接触者。なんかな、卑猥だよなあ」
そう声を上げたのは、髪の短い高木という男子だ。一気に注目を集める。
「濃厚接触って言われて、感染者との接触状況の目安だなんて分かるか? 無理無理。もうね、俺はアッチのことしか考えられないね」
次の瞬間、教室は爆笑と悲鳴の入り混じった空間になった。「キモい」だとか「最悪だ」とか、年相応の文句が飛び交っている。偏差値と人間性なんて、実はあまり関係ないのかもしれない。
とはいっても、高木が冗談を言ってから、張り詰めていた雰囲気が柔らかくなった。後ろ向きなことばかりだった噂話も、いつしか大喜利に変わっている。
場を掌握するだなんて、凄いことをするものだ。少しだけ高木という男が気になった。
一時間目を知らせるチャイムが鳴る。先生は帰ってこない。空気が次第に重くなる。なにせ緊急の職員会議だ。僕たちよりよっぽど賢い大人が集まって、頭を抱えているに違いない。簡単には終わらない会議なのだろう。
最初は快活に振る舞っていた高木も「遅いなあ」と声を洩らし、段々と口数を減らす。やがて口を閉ざせば、教室は沈黙に包まれてしまった。
磯田先生が帰ってきたのは、それから十数分経ってからのことだった。
「こんなこと、初めてです」
先生は声を震わせて、目を伏せた。
良い知らせではないのだろう。それは予測できていた。だが、初めてとは何事だろう。先生にとって初めてなのか、学校が始まって以来初めてなのか。
確実なのは、それほどの事態が起きてしまったこと。
唾を呑んで、先生の言葉を待つ。
「みなさん。帰る支度をしてください」
先生は、教室を一度見渡してから、窓の外に目を遣った。
「一ヶ月間、休校になります」
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