そのヴィオラ弾きは恋をしていた

須田釉子

第1章:周知と羞恥

第1章:周知と羞恥(1)

 通学路から少し外れたところにある細い路地には、「例のアパート」と呼ばれている物件があるらしい。昼休みに誰かが自慢気に話しているのを思い出した。しかし、クラスメイトとの交流が少ない駿にはそこに何があるのかはわからない。ええと、その例のアパート、どこにあるって言ってたっけ。


「ハ……オカ」


 遠くから自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。でも大丈夫、きっと空耳だ。こういう時はだいたい何も起こらないものだから。確か例のアパートは少し遠くにあったはず。窓から見えるあの国道を西に進んで、それから橋を渡った先のコンビニで曲がって……。


「おーい、聞いてるか?」


 視界の三割を占める山の緑色にまだらな影がかかる。遠くの空では夏特有の陰影の濃い雲が有機的な形を描いて浮かんでいる。夏至と比べればいくらか日没は早くなった。それでもホームルームの時間帯の空はまだ青く、気温は暑い。


 駿の席は窓際の前から三番目、夏休み明けの席替えくじで勝ち取った特等席だ。座りにくい椅子と腰痛を引き起こす机はまるで拷問器具のようだが、この景色を見られるのだからそう悪くはないだろう。


「花岡ぁ!」


 頭に軽い振動が走り、口から声が漏れ出る。副担任の日吉先生がプリントの束をハリセン代わりにして駿の頭を叩いたようだ。静かに怒っている彼の目がこちらを睨む。


「ホームルームでも寝るのか、お前は。ほら、立て」


 駿はふてぶてしい表情を維持したまま立ち上がった。周りの人間が駿に面倒くさそうな顔を向けているのが見える。ほとんど名前も知らないクラスメイト達の顔。前の方に座る連中も何があったのかと心配そうにこちらを振り返っている。背中に一筋の汗が流れる。こんなにも注目を集める場面、まっぴらごめんだ。


「お前だけだよ、実力テストの最中に寝てたのは」


 日吉先生の威圧的な物言いに、駿はすみませんと反射的につぶやいた。その返事が彼の耳にはやる気のない挑発に聞こえたのだろう。教室にはもう一度雷が落ちた。確かにテストの最中に居眠りをかましたことに関して、駿は何の弁明もできない。先生からの叱咤とクラスメイトからの無言の視線。それから自分の不甲斐なさに堪えて、肩をすくめるので精一杯だった。


「そんなに寝るのならお絵描きなんて辞めちまえ。どうせ美大なんて受からないんだから」


 毎日手が真っ黒になるほど鉛筆を握っているのに、彼はなんてことを言ってくれたのだろう。確かに自分は美大に進学したい。でも、そのための努力をお気楽な道楽だなんて思われる筋合いなんてない。駿は静かな怒りを拳に力を込めた。


「お絵描きじゃないです。デッサンです」


 駿が反論したのが面白くなかったのだろう。日吉先生は上から生えたばかりの芽を押しつぶすかのように強い苛立ちの感情を浴びせた。どうせお前も共通テストを受けるんだから、と言われてしまっては反論もできない。駿は日吉先生の説教を素直に受けることを選択した。


「いいか、学校は勉強するところだ。寝るところじゃない。アタオ……ああ、すまん。ハナオカ」


 本意なのか口が絡まったからなのか推測もできない言い間違い。思いがけないブラックユーモアに、冷めた笑いが教室を包んだ。日吉先生はどこか呆れたように紙の束を教壇に叩きつけた。今度は全体に対して怒声が響く。


「もう座っていいぞ。えー……花岡。ん、何だ、まさか立ちながら寝ているのか?」


 沈黙の中、駿は慌てて席に着いた。 


 こんな辱めを受けたからには、もう教室にはいられない。一日の締めとなる挨拶がなされると、駿は逃げるように教室を飛び出した。駆け込むアテは決まっている。管理棟三階にある美術室だ。

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