短編小説|初雪予報は傍で

Popon

冒頭

ある楽曲をもとに広がった物語。

旋律に導かれるように、ページをめくるたび新しい景色が立ち上がる――それが「香味文学」です。



***



「では続いて、今朝の街角から。上野さん、そちらの様子はいかがですか?」


モニターの中で、マイクを握る浩介が笑顔をつくった。

まだ朝日が低く、吐く息が淡く浮かんでいる。

背後の商店街には通勤前の人影がぽつぽつと行き交い、手袋の色までくっきり見えるほど空気が澄んでいた。


「はい、こちら街角は、冷たい風が吹いていますが、空気は気持ちいいくらいに澄んでいます。気象台によりますと、今週中にも初雪の便りが届くかもしれません」


いつもより少し張った声が、スタジオの照明の中に届く。

真白は原稿の角を指で押さえながら、ふっと口元をゆるめた。


「いよいよ冬の気配ですね。上野さん、手が真っ赤ですよ。風邪をひかないように気をつけてくださいね」


「ありがとうございます。あたためて、がんばります!」


軽く頭を下げるような仕草のあと、画面が切り替わる。

音声が途切れた瞬間、スタジオの空気が少しだけ静まった。

真白はモニターに残った彼の姿をもう一度だけ見つめる。

マイクを下ろすと、吐息が画面の端にふわりとほどけて消えた。


照明の熱で少し暑いはずのスタジオで、真白は自分の指先がひやりとしているのに気づいた。

彼のいる街角には、もう冬が訪れている。

そしてそのひやりとした感触が、なぜか少しだけ愛おしかった。






鏡の向こうで、浩介は歯ブラシをくわえたまま小さく背伸びをした。

白い泡を口に含んだまま、口の端が少し上がる。


「今日は……降るかな」


と、声にならないつぶやきが曇った鏡にうっすら映る。

いつもより少し長めに歯を磨き、顔を洗う。

洗面所のタイルは冷たく、蛇口から出る水が指先に刺さった。


玄関に向かいながら、スマホを耳に当てる。

コール音のあと、眠たげな声が出る。


「……もしもし」


分厚い毛布にくるまったままの三輪真白は、片目だけ開けた。

カーテンの隙間から射す薄明かりが、まぶたにうっすら透けている。


「おはよう。起きてます?」


「起きてません」


「だと思いました」


電話の向こうで、彼が少し笑った。

玄関のドアが閉まる小さな音と、コートの裾が風を払う気配が続く。

その音の合間に、息を白く吐く気配がほんの一瞬混ざった。


「寒いですか?」と尋ねると、少し間をおいて「寒いです」と返ってきた。

その言葉が、なぜか嬉しく響いた。

布団の中にもう一度潜り込みながら、真白はスマホを耳元に置いた。


通話が切れても、かすかな笑い声が耳の奥に残る。

そのまま目を閉じると、毛布の内側の温もりが、外の空気より少しだけ勝っていた。






街角の気温は五度を下回っていた。

薄曇りの空の下、浩介は中継車のそばでマイクを握り、リハーサル用の台本をめくる。

吐く息が、原稿の紙の上でかすかに白く散る。


「上野くん、聞こえてますか?」


イヤモニから、真白の声がふっと届いた。

スタジオの明るい空気が、そのまま線でつながってくるようだった。


「はい! 聞こえてます」


「……あれ、顔赤くないですか? お酒飲んでないですよね?」


浩介は思わず笑って、マイクを口元から少し離した。

「お酒なんて飲むわけないじゃないですか!」

声の端に小さな笑いが混じる。

インカムの向こうで、真白の柔らかな息づかいが重なった。


風が少し強くなり、フードの端が揺れる。

スタッフの声が響く。


「本番、三十秒前!」


浩介は息を整え、マイクを持ち直した。

スタジオでは真白が原稿をめくり、声を整える。

カメラの上の小さな赤いランプが灯る。






夜の駅は、昼間より少し暖かい。

人の声とアナウンスが入り混じり、床には照明の光が滲んでいた。

真白はマフラーを整えながら、改札の前で立ち止まる。


「今日もお疲れさまでした」


隣に並んだ浩介が、肩をすくめて微笑んだ。

「寒いですね。朝よりずっと冷えてきました」


「本当に。風も強いですし」


それだけ言って、真白は手袋を外した。

改札を抜ける人の波の合間に、小さな静けさが生まれる。

浩介がICカードをかざし、控えめな電子音が静けさに混じった。


その音のあと、どちらからともなく視線が重なる。

けれど、言葉は出てこない。

駅のざわめきが、二人の間の空気をやわらかく押し流していく。


「では、また明日」


真白が穏やかに言う。


「はい。また明日」


それだけの会話だった。

人の流れに押されるように、真白は足を踏み出す。

改札を抜けたあと、振り返ろうとしてやめた。


ホームに向かう途中、背後から吹いた風がコートの裾を揺らした。

あの人も、今ちょうど同じ風を感じているだろうか――

そんなことを考えながら、真白は足早に階段を上った。






灰色の雲の切れ間が、街の上にゆっくりと広がっていた。

その下で、浩介はマイクを握り、空を仰ぐように見上げていた。


「こちら街角です。今朝は気温が低く、昼間も一桁台のままになりそうです。気象台によりますと、今夜にも初雪が観測されるかもしれません」


風がマイクに触れ、音声がわずかに揺れた。

マフラーの端が頬に触れ、浩介は短く息を吐いた。

その白さが、灰色の空にすぐ溶けていく。


スタジオのモニターの中、真白は彼の声を静かに聞いていた。

照明の白さの奥で、画面の風だけが季節を早めていた。


「——寒そうですね」


真白が小さく笑みを添えて言うと、浩介はうなずいた。


「はい。指先が少し痛いです」


短い会話のあと、映像が次のニュースに切り替わる。

スタジオの中には、紙をめくる音とキーボードの打鍵音だけが残った。


真白は原稿を閉じ、デスクの隅に置かれた窓のほうへ視線をやった。

厚いガラスの向こう、空の色はすっかり冬のそれになっていた。


ほんの少し、室内の明るさが少し刺さるようだった。

窓に映る自分の姿の奥で、曇り空が静かに流れていく。

彼が見上げた空と、きっと同じ色をしている——

そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。






「今日は早く帰れそうなので、一緒に帰りませんか?」

そうメッセージを送ったのは、夕方のニュースが終わったあとだった。

いつもは時間がずれてしまうけれど、今日はうまく合いそうだ。


真白は原稿を片づけ、ロビーへ向かう。

ガラスの向こうに夜の通りがぼんやりと滲んでいる。

足を止めた先に、自販機の灯りがやさしく揺れていた。



***



※この作品は冒頭部分のみを掲載しています。

続きはnoteにて公開中です。

👉 noteで続きを読む:https://note.com/poponfurukata/n/n6e1ba0353ea1

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