第16話
怖い夢を見た。
ミノスの山で暢気に羊飼いをしていた自分が、奴隷商人に捕まり隣国に売られてしまう夢だった。
大人たちの様々な思惑に踊らされながら自分はやがて体制への反抗軍のトップとなり、人殺しの指揮を執ることになるのだ。
妻のある者も、子のある者も、皆血を流し死んでいく。それでも仲間に向かって進めと、死ねと指示を出し、反抗軍を進軍させていく――
「――ァ、起きなさい。……ヨシュアってば!」
「ん……」
若い娘の声。ヨシュアは身じろぎして目を覚ます。
泥のように沈んでいた意識が、ゆっくりと晴れていく。ヨシュアは乾いた口で、自分を揺り起している人物の名を呼ぶ。
「フィー姉……?」
「誰だフィーねえって! 起きろ!」
ごつん。
「――ッ!?」
数日ぶりの拳骨が頭蓋を直撃する。その瞬間、ようやくヨシュアの意識ははっきりと覚醒した。
首を振りながら飛び起き、大きく息を吸う。
薄明りの中、両手を腰に当てて眼前に立っていたのは、姉ではなく物騒なナイフを提げた褐色の肌をした娘だった。
「……リリ」
「やっと、名前を呼んでくれた……じゃなかった、起きたか」
「ごめん、寝ぼけてたみたいだ」
そして、ヨシュアは周囲を見渡した。夜半に娼館の一部屋にて眠りについたのだが、まだ夜明け前のようで、窓の外にもほんの少しの明るさしかない。リリを判別できたのは、ひとえに腰のナイフのおかげだった。
リリは身を屈め、ヨシュアに耳打ちをする。
「カイルが、動いた」
「……どういうことだ」
「あたしもさっきまで知らなかった。建国祭の日に蜂起するって聞いてたから。でも、あれはどこにいるか分からない内通者への嘘で、本当は今日、まず信頼できる仲間達でパレ・シュクレで騒ぎを起こして、そこから皆を巻き込みながら王城を制圧するって」
「な……っ」
今日は建国祭の二日前。昨晩ようやく各地区の代表と護衛が王都を出て戻って行ったところだった。
慌てて立ち上がるヨシュア。どたどたと歩き出すヨシュアの腕を掴み、リリは制止する。
「落ち着いて。静かにして。あいつら、あたし達を置いていく気だ。いま騒いだら捕まってどこかに閉じ込められかねない」
「何で今更、置いて行くようなことを……」
「こどもだから」
「……」
大人たちに混じって行動するうち、ヨシュアは自分の力不足を幾度となく痛感することがあった。リリの端的な言葉は、改めて自分に足りていないものを露わにするようだった。
年齢も足りないし、経験も、知識も、何もかもが足りていない。おそらくは、そんな子供たちを死の危険に遭わせるには忍びないとでも思われたのだろう。
だが――
「それでも……行かなきゃいけない。おれは、王城に助けたい人がいるんだ」
為したいことがある。その一心で、ヨシュアはここまで来たのだ。
リリは同意するように小さく頷き、窓の方を指した。
「結構前に皆で出て行ったから、もう王城では始まっているかもしれない。ここに残ってるのはあたしとあんたのための見張りだけ。窓から出て、行こう」
「……分かった」
ヨシュアは覚悟を決め、拳を握りしめた。
最初に逗留していた外壁近くのパピヨンに比べれば、東側の今のアジトは王城に向かうにはそこそこ近い距離にあった。ある意味国王の公認なのでひた隠しにする必要がないというのが実情だった。
先に王城の南にあるパレ・シュクレを襲うのならば、今から走れば間に合う可能性も高かった。
護身のナイフだけを持ち、白み始めた空の下、リリとヨシュアは小走りで王都の奥、白亜の王城へと向かう。
静まり返った王都の通り。かつては開いていたであろう店の閉まった跡。そして密やかにその中に忍び込んで休息を取る、住む家を無くした者達。
潰れたパン屋の壊れたドア、そこの隙間から横たわる薄汚れた人影が垣間見える。まるで、死んでいるかのような佇まいだった。
見てはいけないもののようだった。形容しがたい靄のような気持ちを抱えたまま、ヨシュアは足を止めずに走り続けた。
王都は、ついに陽光を完全に失い、腐り始めてしまったのだ。
東の大通りに出ると、視界にちらほらと人影が見えるようになる。どうやら叛乱軍の誰かが声かけをして回っているらしく、王城に近づくにつれ、その人数は増していった。
やがて自由に走ることができなくなるほど、人の密度が高くなってくる。パレ・シュクレにほど近い、王都の目抜き通りまで来ると、もはやかき分けながらでないと進めないほどになっていた。
「……もう、始まってるのか」
ヨシュアは、遠くから聞こえてくる人々のどよめきを聞き、思わず足を止める。声の方向を見やると、パレ・シュクレのあると思しき方向から煙が立ち上っているのが見えた。
現在最も権力と放蕩の象徴たるパレ・シュクレを制圧し、そこで武器をばらまき、王城へと向かう。それは、元より計画してあったものだった。
人でごった返しているのは、武器を持った者と貰いに行く者がうまく流れを作れていないためだろう。
「王城へ。ここでのんびりしていたら憲兵が来るかもしれない」
リリに促され、ヨシュアは頷き、何とか人をかき分けながら王城へと向かう。
そこらに満ちている者の多くは、普通の民に見えた。だが、皆どこか疲れ切ったような目の中にギラギラとした強い光があった。
ヨシュアはマリオンレニエ劇場にて王を虐げる意図の仮面劇を見たときのことを思い出す。あのときの観客達も仮面の下でこのような顔をしていたのだろう。
この人々のうち、いったい何人が命を落とすことになるのか。
考えると足が止まってしまいそうだった。ヨシュアはただ、姉を救い出すことだけを考え、リリの小柄な後ろ姿を必死で追いかけた。
「フィー姉……どうか、無事で」
呟いた言葉は、蜂起した民衆のざわめきにかき消された。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
王城は、叛乱軍の予想より早い蜂起の報を受けてにわかに騒がしくなっていた。
憲兵団がパレ・シュクレの制圧に向かい、近衛が場内の守りを固めていく。すでに城門前では小競り合いが起きており、どの怒号が城内までかすかに聞こえてくる。
そんな中。叛乱軍の最たる標的たる放蕩王ラウドは、フィオナの手を引き、王城の地下へと向かっていた。
「どこへ、行くの……?」
「もう少しで着く」
端的にそう答えた後、ラウドはいささかこわばった顔をしたままひたすら地下を進む。
鍵で施錠された、日頃は使用されない薄暗い通路だった。石畳も荒く、フィオナは何度か転びそうになりながらもラウドに支えられ、何とかその奥へと到達する。
そこには、再び扉。金枠で縁取られた重厚なものだった。
ラウドは手にしていた鍵を差し入れ、重い扉を引き開けた。
その先は、さらに暗かった。ランプを持たされていたフィオナは中を照らしてみる。果ての見えない長い長い廊下のようだった。
「道なりに進めば市中の離宮跡に出る」
ラウドはそう言うと、フィオナを暗闇の奥へと突き飛ばした。
「ひゃ……っ!?」
数歩たたらを踏んだ後、結局均衡を保ちきれなかったフィオナはその隠し通路の中へと倒れ込む。
「ちょっと!」
フィオナが突然の暴挙に抗議の声を上げようとした、その瞬間――
扉が、閉ざされた。
重厚な扉がゆっくりと締まり、ガチャリと施錠の音が聞こえてきた。
「な……」
愕然とするフィオナ。急いで立ち上がり、拳で扉をたたく。
「どうして、こんなことをするの!」
「さっさと行け」
扉越しの、くぐもった声。フィオナは食いつくように扉に迫り、叫ぶ。
「あなたも、一緒に来なさいよ!!」
「私は、ここで死ぬことに意義があるのだ。すべての膿を引き連れ、冥府へと渡る義務がある。私のために無為の死を受ける者達の恨みを受け取る義務がある」
「そんなことない、一緒に……!」
「フィオナ」
「――っ」
初めて、名を呼ばれた。心を通い合わせてすら呼ばれたことのなかった、名を。思わず固まってしまったフィオナに、扉の向こうから低く優しい声が届く。
「もう、行け。私は、これから王としての道を征く」
「……行かないで」
「お前は、弟の元に戻れ」
「行かないで!」
「……お前と過ごした日々は、悪くなかった」
「ねえ。開けてよ。開けてこっちに一緒に行けばいいじゃない。ねえったら!」
だが、もはやそれに応える声はなかった。
彼が王として最大限効果的に死ぬつもりだということ分かっているはずのことだった。
それでも、やはり、どこか心のそこで夢を見ていた。共に手を携え、ミノスあたりの田舎で、誰も知らない、誰にも憎まれないところで、笑顔で暮らすことを。
「行かないでよ……」
扉に縋ったまま、フィオナはゆっくりと崩れ落ちる。
こぼれた涙が頬を伝って落ちていく。
涙の作った道に冷たい風があたり、頬を冷やす。
「――!?」
フィオナは、弾かれたように顔を上げる。
――冷たい風が、当たったのだ。
この果てしなく閉鎖されたような空間に、どこからか風が入ってきている。
「……」
袖で乱暴に顔を拭い、ランプをひっつかみ、フィオナは立ち上がった。
泣いて嘆いているだけでは、何も為すことなどできない。
「田舎娘を、なめんな!」
誰にともなく喚いてから、フィオナは駆け出した。
民が死ぬことに誰よりも心を痛めているひと。妻の居る者、幼子の居る者。そんな騎士が死んでいくことに本当に悩んでいるひと。
この前赤子が生まれたばかりだという若い騎士にわざとらしい難癖をつけ、妻子ごと城から遠ざけ辺境へ飛ばしたひと。
そして――フィオナのことを、想ってくれたひと。
そのことを想うだけで、心が強くなる。フィオナは涙の代わりに強い光を瞳に宿し、脱出口を求め、走った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ラウドが地下から出ると、階段の先に大柄な騎士が待ち構えていた。
儀仗用ではなく実戦用の剣を提げたその男は、近衛騎士の隊長だった。地下の脱出経路を知っているのは、今やラウドとこの男だけだった。
大柄な騎士は、近づいてくるラウドにお手本のような敬礼を示す。
「お待ちしておりました。お戻りになると信じておりました。天守へいらっしゃるのでしょう。先導いたします」
「あの数では劣勢だろう。この城はいずれ落ちる。他の奴らとともに逃げても構わんのだぞ」
「騎士として最後まで貴方をお護りするのが、近衛の努めです」
生真面目で木訥な騎士だった。日頃あまり言葉を交わしたことのない男だったが、その精悍な顔には心の底からの尊敬があり、黒い瞳はまっすぐにラウドを見つめていた。
泣きたくなるほどの、愚直さ。ラウドは思わず唇を噛む。
大臣連中とばかり遊んでいたため、よく知らないままの男だった。だが、その鋭い目にはラウドの本性、国を憂う王としての姿が映っているようだった。
こんなところにも、殺すには惜しい人材が居たのだ。
「……済まぬ」
「そんなお言葉はいりません。我ら近衛には、ただ命じてくださればよいのです。護れ、と」
二人の眼差しが交錯する。やがて、根負けしたラウドが、王として朗々と命じた。
「……我を護れ」
そうして、気高い騎士は決意を秘めた笑顔で跪き、最後の王命を拝命した。
すでに城門は暴かれたようだった。民衆と騎士がぶつかっているのだろう、雄叫びとも断末魔ともつかない声が遠くから響いている。
近衛隊長を伴い天守の最上階までたどり着いたラウドは、謁見の間へとたどり着く。
「では、下にて虫を払って参ります。後ほど、またお目にかかりましょう」
どこで、と聞き返すのはきっと無粋だった。ラウドは祈りを込めて勇壮な騎士の背を見送り、謁見の間を進み、玉座へと腰掛けようとした。
――そのときだった。
視界の端に、刃が煌めいた。
「……っ」
気づいたときには、遅かった。
腹部に一瞬の冷たさを覚えた後、それは一瞬で熱さに裏返り、おぞましい痛みが全身に広がる。
――ラウドの脇腹に、剣が突き立てられていた。
ラウドは膝をつき、やがてビロードの床に崩れ落ちる。
「もう、おしまいだ。どうして、こんなことに」
わななきながらそう言ったのは、国庫の金を誰よりも使い、私腹を肥やし我欲を叶え続けた太った男――大臣ギュスターヴだった。
「叛乱軍なんて、もっと早く潰すべきだった。なんで、なんで」
そう言いながら、ギュスターヴは突き刺さっていた剣を引き抜く。
とたん、血があふれ出し、服を染めていく。
「あんたの首を、持って行こう。パストーレに渡したら、きっと、私の手柄にしてくれるだろう」
その目にもはや正気の光はなかった。
ギュスターヴは剣を高く掲げ――やがて、ラウドの首に向かって振り下ろす。
思っていた形とは違うが、仕方あるまい。そんなことを考えながら、ラウドが死を従容として受け入れようとした、そのとき。
突如、人影が飛び込んで、振り下ろされた剣とラウドの間に立ちはだかった。
「――!!」
袈裟懸けに切りつけられたその人物は、ぐらりと傾き、やがて倒れる。
「フィオナ……!!」
瞬間、自己に満ちていた痛みが消失する。身を起こしたラウドは懐剣を抜き、なおもたどたどしく剣を向けてくる大臣の間合いに入り、容赦なくその首を切り裂いた。
「あ……がっ……」
一瞬の出来事だった。状況を飲み込めぬまま、ギュスターヴは自分の首に手をやり、そして、目を見開く。
フィオナがその穢れた血を浴びぬよう奥に突き飛ばした後、ラウドはフィオナににじり寄り、勇敢な娘を抱き起こす。
「フィオナ」
名を呼ばれた娘は、ゆっくりと目を開ける。
顔は蒼白だった。肩から胸にかけて大きく斬られており、血が止めどなく流れていく。それは生命そのものが流れ落ちているようだった。
「どうやってここに……」
何かを喋ろうとするフィオナだったが、咳き込みかなわなかった。口の端から血が滑り落ちていく。
そして、震える手で、謁見の間の奥を指さすフィオナ。そこには割れて開け放たれた窓があった。奥には大きな木があるのも見える。
「……あそこを抜けだし、わざわざここまで上ってきたのか」
小さく頷くフィオナの額に、ラウドは自身のそれを重ねる。
「馬鹿者め。生きていて欲しかったのに」
ラウドが泣きそうな声でそう言うと、フィオナは血の気を失って、それでも太陽のように美しい顔で、微笑んだ。
やがて、フィオナの力が抜けていく。目の光が衰えていく。
いま意地を張ってこの瞬間を逃せば、この娘とは二度と言葉を交わすこともできなくなる――ラウドは、すべての後悔を振り切って、フィオナに囁いた。
「私と共に征ってくれるか」
蕾がほころぶように。大輪の花が咲くかのように。彼の思い人は微笑みながら、頷き――そして、眠るように、息絶えた。
「…………ありがとう」
少しの間そのままフィオナを抱いていたラウドだったが、やがて叛乱軍の喧騒が近づいてくるのを察し、娘の軽い体を抱え、立ち上がる。
すでに痛みは感じない。視界が白く染まっていく。死は確実に迫りつつある。だが、これだけは為さなければならない。
ラウドはフィオナを抱え、謁見の間の奥へと静かに足を進めた。
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