薄暮の王国、砂の冠と一番星
もしくろ
プロローグ
春の木漏れ日の中を、風がゆるやかに通り抜けていく。
羊たちのベルも、木の葉のそよぐ音も、牧草を撫でて山を越えていく風の音も、何もかもが優しく響いている。
ただひたすら、柔らかく穏やかな時間だった。
「――ァ、起きなさい。……ヨシュアってば!」
オークの樹上で転寝していた少年――ヨシュアは、不意に自分を呼ぶ声で目を覚ました。
「ん……?」
慌てて起き上がってはかえって危険なので、身近の枝を掴みながらゆっくりと起き上がり、周囲を見渡す。
「こら、ヨシュア!」
「わっ」
声は予想以上に近かった。危うくずり落ちそうになるのを何とかこらえ、ヨシュアは真下を見下ろした。
そこには17のヨシュアよりも少し年かさの、はつらつとした娘が立っていた。
「フィー姉……」
「こらー、寝てたでしょう」
フィー姉――フィオナだった。教会学校から帰ってきたところなのだろう、いつもの牧童服よりも少しだけ余所行きのワンピースを纏い、片手には本が携えられている。
手足の長いすらりとした肢体に、しなやかな栗毛、そして太陽のよく似合う容姿。
「羊番を任せたらいつもこうなるんだから……ちゃんと見てなかったでしょう」
「あいつらは賢いから大丈夫だよ、ちゃんと皆いるだろ」
雪を頂いた山の合間。日の当たる山肌一面に牧草がそよいでいる。羊たちはベルをつけ、からころとのどかな音を立てながらめいめいの場所で草を食んでいた。
ヨシュアの寝ていたオークは、羊たちの見張りに最適な場所にぽつんと立っているものだが、昼寝に最適な枝の股もあるため、ヨシュアはついついそこに体を預けて、そして眠気に負けてしまうのだった。
「やっぱり覚えてない!」
フィオナの怒りが本物だとようやく察したヨシュアは、ようやく薄ら笑いを引っ込める。
「え……?」
「ララの子よ! 先週から一緒に放牧に出してるって言ったじゃない。今見たけど居なくなってるわ」
「あ!! …………うわッ――」
完全に失念していたことを突きつけられ、慌てて身を乗り出すヨシュア。勢い余ってバランスを崩し、足だけ枝に引っかけた状態でぐるりと滑り落ちてしまった。
「あぶないっ」
フィオナが本を投げ出し、幹をつかむ。それからあっという間にヨシュアのいる高さまで登ってきてしまった。
「もう……」
フィオナの手を借り、ヨシュアはゆっくりと枝の上に戻る。
逆さづりで血が上った頭をふらふらと揺らしながら、向かい合っていることに気まずくなったヨシュアは目で羊たちを追うふりをする。
「……フィー姉、木登りできるんだな」
「当たり前でしょ、わたしもいつもここから見てるわよ。ほら、降りて。探しに行くわよ。沢の方に行ってたらいけないし」
言うなりフィオナは慣れた手つきで枝を支えにしながらあっという間に地上まで降りていった。
ヨシュアもそれに続く。いつもなら昼寝の後でしばらくぶりに踏む地面の、柔らかく不思議な感触が好きなのだが、今はそんなことに浸っていられる場合ではなかった。
あたりを見回してみると、一見いつも通りの放牧風景ではあったが、確かに一組の羊の親子が足りない。
「まだ沢の水は冷たいから、子羊が落ちたら大変だわ」
「う、うん」
フィオナは先ほど投げ出した本の土を払い、オークのふもとにそっと立てかけた。
「フィー姉、帰らないでいいのか?」
「仕方ないでしょ。他の子たちは涼しくなったらちゃんと厩舎に帰れるはずよ。とにかくララを探しましょう。きっと子羊について行ったんだわ」
「分かった」
速足で木陰を抜けて進むフィオナを、ヨシュアは慌てて追いかける。
ざわざわと一陣の強い風が抜けていった。
変わらず優しい空気で満ちているそこは、しかし日が傾き始め、少しの冷たさも孕み始めていた。
結局ララとその子羊が見つかったのは、日が沈み完全に暗くなってからのことだった。
空気がどんどん冷え込んで、風が容赦なく熱を奪っていく中、二人は東の沢を一通り見回し、南端の崖を覗き込み、西の森をさんざんぐるぐると捜し歩き――、結局最後まで見つかることなく途方に暮れていたとき、当の親子はひょこひょこと自主的に森から出てきたのだ。
その白い姿を見て安堵と疲労で崩れ落ちてしまった二人だが、何とか足を奮起させ、羊たちを確保した。
季節によっては峰を挟んだ隣国エスレーヤの方からエサを求めて狼が出張ってくる森だったが、親子は足の汚れと木の葉や実などのおみやげをいくつも体に引っかけている以外は怪我もなく無事だった。
放牧に慣れていない上に好奇心旺盛な子羊が冒険するのを、母のララが止めきれずについて行ったのだと思われた。
「ごめん、フィー姉……」
からころとララの首のベルがのんきに鳴っている。
厩舎までの帰り道、遊び疲れて渋る羊たちを即席の棒で何とか追いやりながら、ヨシュアは嘆息するかのように言った。
「ララも子羊も無事だったんだもの、もういいわよ」
疲れが色濃く反映されてはいたが、それでも彼女の笑った横顔は綺麗だった。ヨシュアは思わず見とれてしまう。
月と星の明かりで、あたりはほのかに明るい。二人は目印のオークをたよりに帰路についていた。
オークからまっすぐ山頂の方向に登れば、丘の上すぐに夏季の牧童小屋があるはずだった。
だが――
「ヨシュア!」
「!」
フィオナに言われるまでもなく、ヨシュアも異変に気づき足を止めた。
「なに、あれ……」
フィオナが呆然と呟く。
制御を失った羊たちがふらふらとよそへ行こうとするが、それを止めることもできず、ヨシュアも立ち尽くした。
二人の、視線の先では――何者かが武器を振り上げ、ヨシュア達の羊を屠っていた。
「何だこれ、クッソ不味いぞ」
「馬鹿かお前、それ血抜きしてねえだろ」
「仕方ねぇよ、腹が減って死にそうだったんだからよ」
「吊るすくらいも出来ねえのかよ。じゃあ外で振り回してこいや」
「ああ、そうすりゃいいのか」
男共の下卑た声がヨシュア達の上を通り抜けていく。
まるで別の家のようだった。
夕餉の香りの代わりに満ちているのは、羊の血と臓物、そしてすえた人間の汗が混じり合った怖気のする悪臭。薪の弾ける音の代わりに響くのは、薄汚れた男達のがなり声。
暖炉の明かりが作り出す無数の影が、魔物のように壁面を蠢いている。
両親を亡くし、親族の力を借りつつも何とか二人でやってきた羊飼いの少年ヨシュアとその姉フィオナの穏やかな日常は、もはや最初からそんなものは無かったかのように霧散した。
二人を迎え入れたのは、血潮の滴る凶器を携えた男達だった。
危険を認識してからでは遅かった。惨状を目の当たりにして硬直してしまったフィオナがまず捕らわれ、助けようとしたヨシュアも頭を強打されて前後不覚に陥り、なすすべなく縛られ、牧童小屋に連れ込まれたのだった。
今、二人は後ろ手に縛られて部屋の隅に転がされている。
その前で、数人の男達が食糧の貯えを食い荒らし、あろうことか食用ではない羊毛種の羊まで屠って貪っていた。
男達を一言で表すならば、野蛮。人を殺すための武器を携え、人を殺すことも、もちろんその家を荒らすことにも何の罪悪感も抱かない類の人間であることが見て取れる風貌だった。
一人は中途半端にさばいた羊肉をそのまま火箸に刺して暖炉に突っ込み、一人は祝い事があったときにだけ飲む特別な酒をラッパ飲みし、一人は棚から棚へ手を突っ込み、金目の物を探している。
どれも見るに堪えない状況だった。
ヨシュアは痛みの抜けないぼんやりとした頭で、先月老衰で死んでしまった犬のことを思い出していた。
かれが生きていたならば、きっと主を守って果敢に戦ってくれたことだろう。だがこの多勢相手では、いつかは縊られてしまうことも確かだ。そうならないうちに、家族に見守られながら生を全うしたのは幸いだったのかもしれない――
不意に、近くで床を擦る音が聞こえた。
「!」
ヨシュアはすぐに現実に引き戻され、脈に合わせてごうごうと揺れるように痛む頭をなんとかもたげて、音の源を見上げる。
「嬢ちゃん、坊主。先に謝っとく。すまんな」
一人の男が、椅子を引きずってきて二人の前に座った。
「……っ」
歯を食いしばるのが精いっぱいで、怨嗟の声すら漏らせなかった。
男は三十台の半ばだろうか、彫りの深い要望に、意志の強そうなぎらぎらと光る黒い瞳。これまでの周りの反応からすると男たちのリーダーであることが窺い知れた。
とっさにフィオナを後ろにして身を起こしたヨシュアを見下ろしながら、男は薄ら笑いで言った。
「これからどうなるんだろうって怖がってんだろうが、殺しはしねえ。大人しく言うこと聞いてくれりゃあ痛い目にも合わせねえよ」
「あ、あなたがたは何者なんですか……!」
ヨシュアが一瞬返事をためらった隙に、フィオナが震える声を上げた。とたんに向こうからヒュウと口笛の音がする。
「おう、可愛い声だなァ。一晩中叫ばせてみてえ」
「黙ってろ、ガイ」
「……へいへい」
リーダーの男が一瞥すると、後ろで野次を飛ばしてきたガイという男は肩をすくめて口を閉ざした。
「手短に言おうか。君らはこれからシュレーフェンの奴隷市場に行って売られてもらう。以上だ」
背後のフィオナが息を呑む音が聞こえた気がした。
ヨシュアは自身の将来よりもむしろ、彼女にこの先降りかかるであろう醜悪な未来を予想して、歯噛みする。
「あんたたち、奴隷狩りか……」
「お、こんな田舎でも分かってるやつはいるもんだ」
ヨシュアの言葉でリーダーの男は一瞬目を丸くした後、再び笑い顔に戻った。
「ただし成績で言うなら可って程度だ。正確には、バーテムの傭兵さね。
分かってくれてるなら話は早い。俺達は、君らと、シュレーフェンまでの途中でもう何人か捕まえて、売った金でバーテムに帰りたいってわけさ、こんななりでも家族が待ってるんでね」
ヨシュア達が暮らすこの国が、ミノス。その西にはエスレーヤという国があり、海を挟んだバーテムと幾度となく戦争をしている。時折、この男のように戦争が終わっても取り残され、なりふり構わない商売をし始める輩がいることを、ヨシュアはふもとの村で聞いたことがあった。
「家族……」
ヨシュアが血を吐くように呟いたその言葉を、男は拾い上げて嗤った。
「自分の家族のために他人の家族を殺していいのかって?
――そうだよ、そういう人間なんだ、あきらめてくれや。こっちも、いろいろあったんでな」
ヨシュアが息を呑む前で、男は唸るように続ける。
「好きなだけ俺を恨んでくれてもいいが……ま、これからの人生を有意義に生きるよう心がけた方がいいとは思うぜ」
男のやけに強い眼差しの奥に、戦争での屈辱と絶望の記憶が垣間見えた気がした。
正論で反論することもできるし、単に感情のままになじることもできるはずだったのに、それでもヨシュアは黙っていることしかできなかった。
シュレーフェンは、ミノスの北、エスレーヤの東に位置する国だ。相当の愚王がいいように統治しているらしく、あまりいい噂は聞かない。バーテム傭兵の彼らが敵国エスレーヤを経由せずに海を渡るには、シュレーフェンまで回り込むしかないことは地理に疎いヨシュアでも把握できた。
そして背後を仰ぎ、いまだ蛮行を続ける男達に呼びかけた。
「食い物もあるし何日か休みたいところだが……お前等、自警団が鍬もって来る前に次行くぞ。馬はちゃんと確保してんだろうな」
「うーっす」
返事をして手を止めたのは二人だけだった。残る一人、先ほどフィオナの声で悦んでいた薄汚い痩せた男は――
「その前に、なあ、いいだろ」
ぎし、と床を鳴らしながら、ヨシュア達に近づいてきた。
その濁った眼は、ヨシュアを飛び越えてまっすぐに、フィオナの肢体を見つめていた。
「――――っ」
息を呑むフィオナ。ヨシュアは這いずりながら彼女を背後に庇った。
背中越しにフィオナの震えが伝わってきた。ヨシュアは立ちはだかる無法者を睨む。
「ガイ、商品価値を下げるな」
「下げないようにするさ」
リーダー格が窘めるように言うが、ガイという男の歩みは止まらなかった。まるで、死刑執行の秒読みのように、一歩一歩、床を踏みにじりながら近づいてくる。
そして腰の剣帯を緩めながら、片手を伸ばし、フィオナの足を掴もうとする。
「な、味見くらい――
「触るなっ!!」
その瞬間、ヨシュアは飛び上がって男の腹に体当たりした。
油断していたのか、ガイという男は呆気なく倒れる。
「ぐっ……」
もつれ合って転ぶ二人だったが、痩せ細ってはいてもさすがに戦闘の熟練者相手にヨシュアができることはそこまでだった。あっという間に馬乗りにされ、髪を掴まれ頭をたたきつけられる。
「餓鬼…殺すぞてめえ」
二度目の強打だった。視界が真っ白になり、全身が痺れてしまったかのように動けなくなる。
「うぁ……」
痛みはもはや臨界点を超えて遮断されたようだが、それでも二度三度と殴られている感覚はあった。殴られ蹴られ、喉を満たした血の味だけは、不思議とはっきりと知覚できた。
「ヨシュア、ヨシュア……!!」
フィオナの苦しそうな悲鳴が遠ざかっていく。
最後に、薄れるヨシュアの意識に男の声がねじ込まれてきた。
「勇敢な坊や。それだけ根性がありゃきっとどこでも生き延びるさ。
姉さんを助けて俺にやり返すことでも夢見て頑張りな――」
ぽたり、ぽたり。
朦朧とした中で、フィオナが泣きながら自分を覗き込んでいた記憶がある。幾度も温かい滴が頬に当たり、するりと滑り落ちて、それがとても悔しかった。
フィオナの泣き顔の後ろで、空は昼へ夜へと何度も移ろっていった。何度太陽が廻っても、フィオナはずっと泣いていた。
泣きながら、ひんやりした手で手当てをしてくれた。腫れて自分のものではないような皮膚の疼きを、優しく拭ってくれた。
身体の痛みより頭の痛みより、将来への恐怖より。
あの涙を止めてあげられないことが、悔しくなった。
たった一人の大事な大事な姉。もう泣かせたくないのに――
だが、いつしか頭上に彼女が現れることはなくなった。
彼女のいないからっぽの空の下、いくつかの昼と夜を経て、ヨシュアはようやくはっきりと目を覚ました。
澄み渡る広い空と、見渡す限りの耕作地。
乾いた風に乗って聞こえてくるのは、ところどころ発音の違うシュレーフェンの言葉。
見渡す限り広がっている未開の草原――シュレーフェンの辺境、河南地域。
両親、姉、育った土地――何もかもに別れを惜しむこともできず、ヨシュアは農奴として遠い開拓地へ連れてこられていた。
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