第5話「芽吹く信頼、色づく大地」

 カイからの告白は、僕の心に甘く、温かい波紋を広げた。

 それ以来、僕たちは言葉を交わさずとも、互いの想いを確かめ合うように、穏やかな時間を過ごしていた。畑仕事の合間に交わす視線、ふとした瞬間に触れ合う指先、その全てが愛おしくて、僕の日常をきらきらと輝かせてくれた。

 辺境領は、僕の力がもたらした豊穣によって、目覚ましい発展を遂げていた。有り余るほどの収穫物は、保存食に加工されたり、近隣の村との交易に使われたりした。カイは領主として優れた手腕を発揮し、僕がもたらした「恵み」を、領地の未来を築くための確かな「礎」へと変えていった。

 新しい家が建ち、水路が整備され、子供たちのための小さな学校もできた。かつては絶望の色しかなかったこの土地に、希望の光が満ち溢れている。そして、その中心にはいつも、領民たちの笑顔があった。


「エリアス様のおかげで、今年の冬は暖かい服が買えそうだ」


「病気だった母さんも、薬草のおかげですっかり元気になってね」


 人々から寄せられる感謝の言葉は、僕にとって何よりの報酬だった。王宮で求められていたのは、公爵家という家柄と、人形のような美しさだけ。誰かの役に立っているという実感を得られたのは、ここに来て初めてのことだった。


「無理はするなよ」


 僕が一人で畑に残って作業をしていると、いつの間にか隣に来たカイが、僕の額の汗を無骨な指で拭ってくれた。その自然な仕草に、心臓がとくんと跳ねる。


「大丈夫です。この子たちが、もっと力を欲しがっているから」


 僕は足元で元気に育つ小麦の穂を、愛おしげに撫でた。僕の力に応えるように、穂がさわさわと揺れる。まるで、喜んでいるみたいに。


「そうか。だが、お前が倒れたら元も子もない」


 カイはそう言うと、僕の手から水の入った皮袋を取り、無理やり僕の口元へと運んだ。


「ほら、飲め」


「……自分で飲めます」


 少し拗ねたように言うと、カイは楽しそうに喉の奥で笑った。


「意地っ張りなところも、可愛いけどな」


「……っ!」

 突然の言葉に、僕はむせてしまった。慌てて背中をさすってくれるカイの大きな手のひらが、やけに熱く感じる。この人は、時々こうして、何の気なしに僕の心臓を鷲掴みにしてくるから困る。


「カイの、いじわる」


「はは、悪い悪い」


 悪びれもせずに笑う彼を、僕は軽く睨みつけた。けれど、その視線に怒りの色など全くないことを、きっと彼も分かっているのだろう。

 そんな穏やかな日々が続くと思っていた。

 しかし、ある知らせが、僕たちの平穏に小さな影を落とす。

 行商人がもたらした王都の噂。それは、僕の耳を疑うような内容だった。


「王都じゃ、ひどい凶作が続いてるらしいですよ。なんでも、リオル様の聖オメガとしての力が、ここ最近、全く発揮されなくなったとかで」


 行商人の言葉に、僕は思わずカイと顔を見合わせた。


「凶作……?あんなに豊かな土地が?」


「ええ。原因は分からないそうですが、作物は枯れ、家畜は病気で倒れ、民は飢えに苦しんでいると。王宮は、原因究明に躍起になっているそうですが、全く見当もつかないらしいです」


 行商人は、辺境で採れた見事な野菜を荷馬車に積み込みながら、溜息交じりに言った。


「それに引き換え、この土地は素晴らしい。一体どんな魔法を使ったら、こんな不毛の地がこれほどの穀倉地帯になるんですかねぇ」


『リオルの力が、発揮されなくなった……?』

 いや、違う。きっと、最初からリオルにそんな力はなかったのだ。

 僕が王宮にいた頃、国の豊作は当たり前のように続いていた。それは、僕の【緑の手】の力が、僕自身も気づかないうちに、王宮の庭園を通じて国全体に微弱ながらも影響を及ぼしていたからなのかもしれない。僕という力の供給源を失った王都が、本来の痩せた土地に戻りつつある。それが、真相なのではないだろうか。

 僕が追放されたのは、収穫期が終わった直後の秋だった。だから、その影響がすぐには現れなかった。しかし、冬を越し、春の作付けの時期になっても、豊穣をもたらす力は戻らない。そして今、夏を迎えても、状況は悪化する一方なのだろう。

 もし、僕の推測が正しいとすれば……。


「エリアス?」


 僕が黙り込んでいると、カイが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。


「……いえ、何でもありません」


 僕は無理に笑顔を作った。王都のことなど、もう僕には関係ない。アランやリオルがどうなろうと、自業自得だ。そう、頭では分かっている。なのに、胸の奥がちくりと痛んだ。飢えに苦しんでいるという、名も知らぬ王都の民たちのことを思うと、どうしても心がざわめく。

 その日の夜、僕は一人、考え込んでいた。

 僕の力のことは、この辺境領だけの秘密にしておくべきだ。もし王都に知られたら、アランが僕を力ずくで連れ戻しに来るかもしれない。もう、あの場所には戻りたくない。この穏やかな日々を、失いたくない。

 けれど、このまま王都の民を見殺しにしていいのだろうか。彼らに罪はない。愚かな為政者のせいで、苦しんでいるだけだ。


「眠れないのか」


 部屋のドアが静かに開いて、カイが入ってきた。僕が悩んでいるのを、察してくれたのかもしれない。彼は僕の隣に腰を下ろすと、何も言わずに、窓の外の月を眺めていた。その沈黙が、今はありがたかった。


「……僕が、王都にいたから、国は豊かだったのかもしれません」


 耐えきれず、僕は胸の内の推測を口にした。


「僕がいなくなったから、凶作に……」


「……そうかもしれんな」


 カイは、静かにうなずいた。彼は、僕の言葉を少しも疑っていないようだった。


「だとしたら、あんたは気に病む必要はない。それは、あんたのせいじゃない。あんたの価値を見抜けなかった、王都の連中が愚かだっただけだ」


「でも、民に罪は……」


「エリアス」


 カイは僕の肩を抱き寄せた。


「お前は、優しすぎる。だがな、お前が一人で全てを背負う必要はないんだ。お前が救いたいと願うなら、俺も一緒に考える。お前が戦うと決めるなら、俺も隣で剣を取る。だが、お前がここにとどまりたいと望むなら、俺はどんな敵が来ようとも、全力でお前を守る」


 彼の言葉は、迷っていた僕の心に、一本の強い芯を通してくれたようだった。

 そうだ。僕はもう、一人じゃない。


「……ありがとうございます、カイ。もう少し、考えてみます」


「ああ、そうしろ」


 カイは僕の髪を優しく撫でた。その手つきは、まるで宝物に触れるかのようだ。


「俺は、お前が笑ってさえいてくれれば、それでいい」


 その言葉に、僕は顔を上げて、彼を見つめた。月明かりが、彼の真剣な横顔を照らしている。僕のために、全てを懸けてくれると言ってくれている。この人への愛しさが、胸いっぱいに広がっていく。

『この人となら、どんな困難も乗り越えられる』

 そう、確信した。

 王都の未来がどうなるかは分からない。けれど、僕の未来は、この人の隣にある。それだけは、確かだった。

 色づいた大地の上で、僕とカイの信頼は、黄金の小麦のように、確かな実りを結び始めていた。

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