偽りの罪で追放された俺の【緑の手】は伝説級の力だった。不毛の地で運命の番に溺愛され、世界一の穀倉地帯を作って幸せになります

藤宮かすみ

第1話「偽りの断罪、凍てつく心」

 磨き上げられた大理石の床が、シャンデリアの光を冷たく反射していた。

 その中央に、僕は一人、立たされていた。

 周囲を取り囲むのは、嘲笑と侮蔑、そして好奇の視線。昨日まで僕を「次期王妃」と持ち上げていた貴族たちの、残酷なまでの手のひら返しだった。


「エリアス・フォン・アルフレッド。お前との婚約を、これより破棄する」


 目の前に立つ婚約者、アラン王子の声は、まるで冬の湖のように凍てついていた。彼の隣には、僕の異母弟であるリオルが、か弱い小動物のように寄り添っている。その潤んだ瞳が、ちらりと僕を捉えて勝ち誇ったように細められたのを、見逃さなかった。

『ああ、またその顔だ』

 いつもそうだ。僕が父に褒められるたび、アランに贈り物をされるたび、リオルは物陰でそんな顔をしていた。純粋無垢な仮面の下に隠された、どす黒い嫉妬の色。


「リオルを虐げ、その清らかな心を踏みにじった罪、万死に値する。だが父王の温情により、死罪は免じてやる。代わりに、お前を北の辺境領地へ追放する」


「お待ちください、アラン殿下。私は、そのようなことは……」


「黙れ!」


 弁明しようとした僕の言葉は、鋭い怒声に遮られた。アランの美しい碧眼には、かつて僕に向けられた熱の色などひとかけらも残っていない。ただ、憎悪だけが渦巻いていた。


「リオルが証言している!お前が夜な夜な彼を呼び出し、罵声を浴びせ、時には手を上げることさえあったと!このか弱く、心優しい聖オメガに対して!」


 聖オメガ。

 それは、数百年ぶりに現れたとされる、国に豊穣と繁栄をもたらす特別なオメガ。リオルがそう診断されてから、王宮の空気は一変した。僕のような、ただ顔が良いだけの男性オメガなど、もはや誰も見向きもしなくなった。

 リオルがアランの腕の中で、びくりと肩を震わせる。


「エリアス兄様……もう、やめてください。僕は大丈夫ですから。兄様が僕を疎ましく思うお気持ちも、分かります。兄様のように美しく、完璧な方と比べられたら、僕なんて……」


 そのか細い声は、聞く者の同情を誘うのに十分だった。周囲からは「なんて健気な」「公爵家の嫡男は、見かけによらず陰湿なのだな」という囁きが聞こえてくる。

 違う。何もかもが、この弟が仕組んだ茶番だ。

 けれど、その叫びは声にならなかった。誰一人として、僕の言葉を信じはしないだろう。僕の味方は、この広間には一人もいなかった。


「それにしても、お前のその能力も、随分と地味なものだったな。【緑の手】とか言ったか?植物の成長を少し早めるだけとは、聖オメガの奇跡の力とは比べるまでもない」


 アランは吐き捨てるように言った。

 僕の【緑の手】は、確かに地味な能力だ。王宮の庭師の手伝いをして、薔薇の開花を少しだけ早める。それが、僕にできる精一杯のことだった。リオルのように、祈るだけで国の作物が豊かになるという奇跡とは、あまりにも違う。


「北の辺境は、冬には雪に閉ざされる不毛の地だ。お前の役立たずな能力が、少しは役に立つかもしれんな。まあ、せいぜい頑張るんだな」


 最後の嘲笑を浴びせられ、僕は衛兵に両腕を掴まれた。引きずられるようにして、慣れ親しんだ王宮を後にする。振り返った先で見たのは、アランに抱きしめられながら、僕にだけ見えるように歪んだ笑みを浮かべるリオルの顔だった。

 公爵家である実家に戻ることも許されず、僕は最低限の荷物と共に、一台の粗末な馬車に乗せられた。ガタガタと揺れる車内で、僕はただ窓の外を流れる景色を眺めていた。涙は出なかった。あまりの絶望に、感情が凍りついてしまったようだった。

 愛されることを諦めていた。期待することもやめていた。それでも、心のどこかで信じていたものが、音を立てて崩れ落ちていく。婚約者、家族、地位、名誉。僕が持っていたはずの全てが、一夜にして奪い去られた。

 北へ、北へ。馬車は進む。

 華やかな王都の街並みは次第に姿を消し、豊かな緑が広がる田園地帯も、やがては荒涼とした大地へと変わっていった。道は険しくなり、空気は肌を刺すように冷たくなっていく。

 追放の地。不毛の地。

 これから僕が生きていく場所。

『もう、どうなってもいい』

 窓ガラスに映る自分の顔は、生気がなく、まるで人形のようだった。すみれ色の瞳から、光が消え失せている。

 長い、長い旅の果て。


「着きましたよ」


 御者のぶっきらぼうな声で、僕は馬車から降ろされた。目の前に広がっていたのは、想像を絶するほど寂れた風景だった。低く垂れ込めた灰色の雲。枯れ木のように痩せた木々。粗末な木造の家が数軒、身を寄せ合うように建っているだけ。風がひゅう、と僕の頬を撫で、どこか遠くで獣の遠吠えが聞こえた。

 絶望が、今度こそ僕の心を完全に覆い尽くそうとした、その時だった。


「……あんたが、エリアス様か」


 不意に、低い声がした。

 見上げると、そこに立っていたのは、熊と見間違えるほどの大男だった。逆立った黒髪に、日に焼けた肌。着ている服は貴族が着るような華美なものではなく、丈夫そうな革と麻でできた、質素なものだ。けれど、その体躯は屈強で、厳しい自然の中で生き抜いてきた者の力強さに満ちていた。

 この男が、この地の領主、カイ・ウルリッヒ。

 彼は僕の前に立つと、何も言わずにじっと僕を見つめた。その鋭い金色の瞳が、僕のやつれた姿を上から下まで、ゆっくりと検分する。貴族社会の作法などまるでない、無遠慮な視線。

 僕は思わず身を固くした。これから、この男にどんな扱いを受けるのだろう。罵倒されるのか、それとも奴隷のように働かされるのか。どちらにせよ、もうどうでもよかった。

 だが、男の口から発せられたのは、予想とは全く違う言葉だった。


「……ひでぇ顔色だな。飯は、ちゃんと食ってきたのか?」


 ぶっきらぼうだが、その声には微かな、本当に微かな気遣いの色が滲んでいた。彼は僕の荷物をひょいと軽々しく担ぎ上げると、顎で一つの方向をしゃくった。


「家はこっちだ。とりあえず、中に入れ。外は冷える」


 それだけ言うと、男は大きな背中を向けて、さっさと歩き出してしまった。

 僕は、その場に立ち尽くしたまま、彼の後ろ姿をただ、呆然と見送ることしかできなかった。凍てついた僕の心に、ほんの小さな、小さな波紋が広がったような気がした。

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