おっさん、ケツを追って世界記録
クソプライベート
チェイス
田中誠、42歳、係長。腹は緩やかに主張をはじめ、髪は後退の兆しを見せている。趣味は駅前の喫煙所で紫煙をくゆらせながら、過ぎ去る女子高生を眺めること。そんな彼の日々に、突如として一条の光が差し込んだ。いや、光というよりは、プリッと引き締まった、芸術的な一対の曲線だった。
毎朝7時15分、彼の目の前を、風のように走り去っていく女性がいる。ポニーテールが心地よく揺れ、しなやかな脚がアスファルトを蹴る。だが、田中の視線は、その中心で完璧な軌道を描く臀部に釘付けだった。ぜい肉の一切ない、彫刻のような筋肉の躍動。それはもはや、神の創造物としか思えなかった。
「……拝みてぇ。もっと近くで、あのケツを」
動機は、百分の一の純粋さも含まない、百パーセントの煩悩だった。翌日から、田中は走り始めた。クローゼットの奥で眠っていた、学生時代のジャージを引っ張り出して。
初日、50メートルで脇腹が悲鳴を上げた。心臓が喉から飛び出そうになり、肺は錆びついた鉄の塊のようだった。彼女の姿はあっという間に豆粒になり、消えた。しかし、田中の心には、あの残像が焼き付いている。諦めるわけにはいかなかった。
二日目、100メートル。一週間後、300メートル。一ヶ月後、ようやく1キロ。来る日も来る日も、田中は彼女の背中……いや、ケツを追いかけた。雨の日も風の日も、二日酔いの朝も。目的はただ一つ。彼女が角を曲がるまでの数秒間、あの完璧なフォルムを目に焼き付けるため。その執念は、我ながら恐ろしかった。
変化は、少しずつ体に現れた。まず、腹がへこんだ。ベルトの穴が二つ縮み、スーツのシルエットが変わった。同僚から「田中さん、なんかシュッとしました?」と言われ、得意げに鼻を鳴らした。喫煙所に行く回数が減り、代わりにプロテインの情報をスマホで検索する時間が増えた。
半年が過ぎた頃には、彼は毎朝5キロを余裕で走れるようになっていた。そして、ついにその日が来た。彼女との距離が、今までで最も縮まったのだ。あと少し。あと少しで声がかけられる。「す、素敵な走りですね!フォームが綺麗で……特に、その、殿筋が!」完璧な台詞も用意してある。
田中が最後のスパートをかけようとした、その時だった。彼女がふと足を止め、電柱の陰に隠れた。チャンス!田中は息を整え、意を決して近づく。
「あのっ!」
彼女はビクッと肩を震わせ、振り返った。しかし、その手にはストップウォッチが握られており、その表情は真剣そのものだった。
「……すみません、今、インターバル中なんで」
凛とした声。化粧気のない顔には、玉の汗が光っている。彼女のウェアには、地元の実業団チームのロゴが入っていた。
トップアスリート。まぎれもない、本物のアスリートだったのだ。自分のスケベな下心と、彼女の純粋な競技への情熱。その圧倒的な落差に、田中は頭を殴られたような衝撃を受けた。穴があったら入りたい。いや、今すぐこの場から走り去って、地球の裏側まで行きたかった。
「……す、すみませんでした!」
田中は脱兎のごとく逃げ出した。情けなさと恥ずかしさで、涙が出そうだった。もう、走るのはやめよう。明日からはまた、喫煙所で紫煙をくゆらす日々に逆戻りだ。
しかし、翌朝。アラームが鳴るより先に、田中の体は目を覚ました。足が、走りたくてうずうずしている。血が、全身を駆け巡る感覚を欲している。
「……なんだよ、俺」
気づいてしまったのだ。いつの間にか、彼にとって走ることは、彼女を追いかけるための手段ではなく、目的そのものになっていたことに。汗をかく心地よさ。昨日より一歩でも長く走れた時の達成感。煩悩から始まった習慣は、彼の体と心に、本物の喜びを刻み付けていた。
田中は、新しいランニングシューズを買った。彼女のいないコースを選び、黙々と走り込みを続けた。目標は、自己ベストの更新。ただそれだけだった。
一年後、田中は「ノリで」応募した市民マラソンで、大会記録を大幅に更新して優勝した。無名の、中年ランナーの快挙。それは小さなニュースになり、ある男の目に留まった。かつてオリンピック選手を育てた、老トレーナーだった。
「君の走りは面白い。無駄がないのに、どこか野性的だ。まるで、何か獲物を追いかけているような……」
トレーナーのもとで、田中の才能は爆発的に開花した。科学的なトレーニングと、ケツを追いかけた日々で培われた驚異的な心肺機能が融合し、彼のタイムは面白いように伸びていった。国内大会を次々と制覇し、ついに彼は、45歳で世界陸上の日本代表に選ばれた。
決勝のスタートライン。世界の名だたる猛者たちが並ぶ中、田中は静かに息を吐いた。緊張で張り詰めたスタジアムの空気。その中で、彼は観客席に、見覚えのあるポニーテールを見つけた。
彼女だった。
数年の時を経て、少し大人びた彼女が、そこにいた。彼女も田中に気づき、小さく目を見開いた後、ふっと柔らかく微笑んだ。その笑顔は、田中にすべてを理解させた。
号砲が鳴り響く。田中は、力強く第一歩を踏み出した。
もう、彼の視線の先に、特定の誰かの背中はない。彼が追いかけているのは、ただひたすらに前へ、自分自身の限界の、その先へ。ゴールテープの向こう側にある、まだ見ぬ景色だった。
スタンドからの声援を浴びながら、田中は思った。
(きっかけをくれた、あの日の美しいケツに、心から感謝を)
不純な動機は、時として人間をどこまでも遠くへ、世界の頂点へと運んでくれるのかもしれない。田中誠、45歳。彼の伝説は、まだ始まったばかりだった。
おっさん、ケツを追って世界記録 クソプライベート @1232INMN
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