つま先に春
@tsubu_tsubu_buntan
第1話
私は自分が30歳になる事を想像できない子供だった。
朝起きたらとりあえずベッドを出る。私の部屋は1階の西向きの部屋で、和室だ。スマートフォンとメガネくらいしか置けないようなヘッドボードの、古いマットレスは寝返りのたびにギッと音を立てる。いつかマットレスを買い替えねばと思いつつもう15年も使っている。
ベッドを出たら薄暗い廊下を歩いてリビングに滑り込む。
昨夜は少し冷えたようだ。10月も末ならもう秋というより初冬だろう。キッチンの隅で小さな音を立てる450lの冷蔵庫の上から2番目、冷凍庫の引出しからお目当ての食パンを引き摺り出してこれまた15年もののトースターに放り込む。適当なマヨネーズと近くにあったマスタードをどっさり乗せて指が知っているトースト時間を指定させている間に洗面台に向かった。
髪を括り、泡で出てくる洗顔フォームを顔に塗りたくって適当に洗い流す。時間を気にしないとバイトに遅れる。カサカサしたタオルでぞんざいに顔を拭けば、眠気は少し薄らいだ。外は朝よりもまだ夜に近い空の色をしている。
キーンとキッチンでトースターが仕事を終えた合図を上げるのが聞こえた。洗面台の引き出しから化粧道具一式を引っ張り出して夜の間に溜まったメールやSNSを見ながらキッチンに戻り、キッチンペーパーを2枚出し1枚はトーストの下に、もう一枚は膝の上に広げる。
コーヒーを飲みたいところだが、今からそれを淹れている暇はない。バイトの出勤時間まであと20分。自転車を大急ぎで漕いだって15分以内には家の鍵を閉めねばならない。
マスタードとマヨネーズの酸味を味わいながら程よい焼き加減になったトーストを齧る。そして化粧下地を顔に塗りたくる。また齧る。次はルースパウダー。齧る。チーク。齧る。アイシャドウ。齧る。面倒になって予定していたアイライナーはしまい、ビューラーでまつ毛を上げる。齧る。マスカラをおざなりに塗る。齧る。そろそろトーストも後一口だ。眉毛を簡単に書いて膝に乗せたキッチンペーパーで使った道具と手を拭う。
時計を見ると後2分のうちには家を出ねばならない。大慌てで白いブラウスと黒いスキニー、へんてこな紫のクマの靴下を履いて、自転車やら車やら、家の鍵やら晶穂がくれた魚のラバーキーホルダーのついた鍵の束をカバンに押し込む。中には他にたばこのにおいが染み付いた黒いバイト先の用語ではサロンというエプロンが入っている。
妹はまだ夢の中だろう。父は帰っているのか。いつも車の鍵を入れている引き出しには鍵があるが、玄関に靴は見当たらない。
家を出て玄関の鍵を閉めて黒い自転車に跨って大きく踏み込む。あと8分でタイムカードを押せるか。
なだらかな丘を降り、一つ目の青信号を越え、二つ目の赤信号で停車した時、後ろから明るいヘッドライトと、少しくすんだ黄色いフォグライトを備えた車が近づいた。振り返るといたずらっぽいどんぐりのような目をした副店長が運転席から手を振っていた。
慌てて私も手を振りかえしたところで、薄い灰色の空に浮かぶ信号機が鮮やかな青に変わった。
冬の初めの少し乾いた空気を吸い込んで、また大きくペダルを踏み込んだ。
大学3年の10月末だった。
つま先に春 @tsubu_tsubu_buntan
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