第31話
執務室の扉を閉めようとしたその時──
衛兵の手が、空中で止まった。
扉の前に影が立ったからだ。
「……執事長様!」
二人は慌てて敬礼する。
片眼鏡に、背の高い細身の体。
長い髪を艶やかに束ね、落ち着いた色合いの衣服は一切の乱れがない。
ケイナン・ミルシュ。
アルケイン王国執事長にして、“王の影”。
初代国王の私的な相談にのった、執事長の故事に習い、
王の秘書は執事長と呼ばれた。
「入室を希望します。王の許可を」
穏やかな声だった。
なのに、衛兵の背中は、冷たい汗で濡れた。
相棒の衛兵が慌てて部屋へ確認に走り、残った衛兵は、
ケイナンの前に立つしかなかった。
王に許可を求めに行った相棒を羨ましく思った。
ケイナンは退屈そうに、髪先を指で遊ばせているだけ。
それなのに、周囲の空気が静かに削られていくようだった。
(王の影と呼ばれる男……そして、お気に入りか)
衛兵は顔には出さず、そう思った。
お気に入りと言われる理由は単純。
ケイナンが“本気で有能”だからだ。
名門でもないミルシュ家が大貴族へ伸し上がったのは、
若き日の王──ハリオス十三世と共に貴族達の教育機関で学び、
彼に天性の才を認められたから。
“王が信じる唯一の頭脳”
そう噂されている男。
慈悲深いはずがない。温情深いはずがない。
あの王が信頼するのだ、むしろ──王以上に冷たく、容赦がないに決まっている。
衛兵は呼吸音すら漏らさぬよう、ひたすら姿勢を正し続けた。
「王の許可がおりました。どうぞ、ご入室を」
衛兵が扉を開き、深く頭を下げる。
ケイナンは目も向けず、そのまま滑るような足取りで部屋に入った。
ただ──心のうちは苛立ちが波のようにうねっていた。
セリューネ……あの
自分は入室の許可が要る。
そのことが、ケイナンの心をかき乱していた。
扉が静かに閉まる。
衛兵たちは、その木扉越しにケイナンの背中を思い浮かべ、無意識に息を呑んだ。
──そこから先は、誰だって踏み込みたくない領域だ。
しかし、彼は散乱した書類の山の中、迷いなく膝をついた。
動作は流れるようで、無駄がない。指先一つすら乱れがない。
「執事長ケイナン・ミルシュ。御身の前に。
王におかれましては、ご機嫌麗しゅう存じます」
完璧な礼。
完璧すぎて、逆に不気味だった。
しかし──
「……チッ」
返ってきたのは舌打ちだけ。
側女も、衛兵も、背骨の奥が凍りついた。
ケイナンとて、これで斬り捨てられてもおかしくない。
それが“この王の常識”だ。
王が義手を軽く振ると、側女と衛兵たちは反射で理解した。
(出ていけ)
四人は慌てず、だが急ぎ、王に一礼して退室する。
扉が閉まる瞬間──
衛兵は心の底で太陽神に祈っていた。
(神よ……この部屋でこれから起こることに、
巻き込まれないようにしていただき感謝します……)
静寂。
二人きりの空気だけが、石壁の中に沈んだ。
部屋に二人きりになると、ハリオス十三世は散乱した書類の一枚を指で摘み、
目だけでケイナンを見た。
「……何の用だ。今は俺の私的な時間だ」
「私的、ですか?」
ケイナンは静かに立ち上がり、口元だけで薄く笑う。
「であるなら、お休みいただきたいのですが。
……それは、仕事でしょう。お体に障りますよ」
「くだらん。俺の時間をどう使おうと俺の勝手だ。
お前と茶でも飲んで笑い合う暇はない」
「私はあります。──セリューネ殿の件です」
ハリオスの指が止まった。
その仕草だけで、部屋の空気が一段沈む。
「……セリューネ? それがどうした」
ケイナンは返事をせず、部屋の端に置かれたティーセットへ歩く。
ティーポットに手をかざすと、陶器の表面がかすかに震え、内部で水が沸き始めた。
彼は戦闘魔法こそ扱えないが、この程度の魔法なら造作もない。
一匙ですら平民の年収に匹敵する高級茶葉を湯に散らし、
香りが立ち昇ってくるのを確認してから二つのカップを用意した。
一つを王の机に。
もう一つを自らの手に。
「セリューネ殿を──処断しなかったのですね、陛下。
宮廷では、彼女の“死罪”が決まったと噂で持ちきりでしたが」
ケイナンは紅茶を口に運び、表情一つ変えずに尋ねた。
「ふん……セリューネを処刑? なぜそんな無駄をする」
ハリオス王は鼻で笑い、机の端にあった一枚の書類をケイナンへ押しやった。
「読め。理由ならそこにある」
ケイナンは受け取り、視線を落とす。
「……ほう」
思わず声が漏れた。
それは──セリューネが提出した報告書。
後の王国史学者マレセプターによると、
“獣王ヴェロニカ”の名を初めて確認できる史料として扱うことになる、
一通の記録だった。
書面の中のその名に、紅茶の湯気が揺れた。
「獣王を名乗る女──ヴェロニカ、ですか」
ケイナンは書類を指先で軽くなぞりながら、目を細めた。
「配下の獣人、ライカ・オイレ・カーター。名前の並べ方も整っている。
……文体も整然としていて、清書もいりませんね。助かります」
彼の口元に柔らかい笑みが浮かぶ。
この男にとって、“読みやすい報告書”は極めて好感度が高い。
王のもとに届けられる報告書の類に、
最初に目を通し、内容の精査、清書をするのも彼の仕事だからだ。
「ふん。セリューネの悪筆を矯正したのは俺だ。感謝でもしておけ」
王は紅茶をひと口飲みながら、淡々と続ける。
「ヴェロニカとかいう下郎は“人間に見える”そうだ。
裸を確認したわけでもないから確証は無いらしいがな」
「人間が獣人を従える……ふむ。普通は考えられませんが、
首輪も魔法のこもっていない偽物ですか……」
ケイナンはごく自然に言った。
そこに善悪も偏見もない。ただ“そういうもの”と理解している者の声だった。
「……これは面白い」
ケイナンが紅茶の香りを楽しむように目を伏せる。
そして、あっさりと言い足した。
「──それで? 陛下は、その“面白い存在”を利用するおつもりで?」
「利用? くだらんな」
王は鼻を鳴らした。
「たかが一人と三匹。国政に影響などあるものか。
だが、あの馬鹿ミールが死んだ。それだけで十分だ」
ミールの名が出た瞬間、ケイナンの眉がわずかに動いた。
それは驚愕ではなく──“理解した”という反応。
「ミール伯……なるほど。彼が消えた、というのは王国にとって良いことでしょう」
「事故死だそうだ。まぁ、この女が消したんだろう」
王は淡々と書類を閉じる。
ケイナンはその表情を正面から見つめた。
微笑を張り付けたまま、瞳だけが冷たく光る。
「陛下。……セリューネ殿を赦した件も、ミール伯と同じ“計算”ですか?」
「どうでもいい話だ」
王は茶を飲み干し、椅子にもたれた。
「ただの駒を処刑するか、使い続けるか。その程度の違いだ」
紅茶の湯気だけが、二人の冷気の中で静かに揺れていた。
「セリューネ殿は実に有能です。
彼女を処断なさらなかったこと……私としても、喜ばしい判断でした」
ケイナンはそう言って、穏やかに微笑んだ。
「ふん。獣王だの浄蹄だの、所詮は野党の烏合の衆だ。
あの馬を使い潰す価値すらない」
ハリオス王は鼻で笑い、紅茶のカップを軽く揺らす。
「陛下の寛大な采配……このケイナン、深く感服いたしました」
彼は深々と頭を下げた──その絵面は、他者から見れば忠臣そのもの。
だが。
「……その“気色悪い”仕草をやめろ」
王は眉ひとつ動かさずに言った。
「虫酸が走る。俺に敬愛を向けるなどお前には似合わん」
ケイナンは、すっと姿勢を戻した。
怒ったようでもなく、むしろ嬉しそうに、困ったように笑う。
「似合わないとは……困りましたね。陛下を敬愛しているのは本心なのですが」
「だから気色が悪いと言っている。俺の前では猫を被るな。
部屋にいるのは俺と貴様だけだ」
「なるほど。では──“学友”の顔に戻れ、という意味で?」
王は返事をしなかった。
肩がわずかに揺れたのは、笑ったのか、怒ったのか……誰にも判断できない。
ケイナンだけが、その揺れの意味を正確に理解していた。
ケイナンは王の机の傍らに立った。
距離は近い──それを王は拒絶しなかった。
「……陛下。何をお考えで?」
「近い。書類が見えん」
ぶっきらぼうな声のくせに距離は許す。
ケイナンは小さく笑い、王の手元の書類に指を添えた。
「王国聖騎士団の予算陳情……
「愚かしい。金糸で模様を縫えば矢が避けるのか? あいつらの頭の中身は藁か?」
王の指が怒りで震えているのを見て、ケイナンはその手をそっと包み込んだ。
「陛下のお怒り、最もでございます。ただ……彼らも必死なのですよ。
獣人義勇騎兵団の存在が、彼らの誇りを脅かしている」
「ふん。御前試合の“勝ち”がそんなに嬉しいのか?
ケンタウロス一体を、三人がかりで叩き伏せただけだろうが。
俺が止めねば、あの馬を殺していた」
「ええ……“馬重を考慮した”という言い訳でしたね。ふふ……」
王は舌打ちした。
「使えない人間の騎士団など予算を絞れば勝手に消えると思ったが……
太陽聖教め。余計なことを」
「陛下、それは……教会に聞かれれば問題です」
「知るか。奴らはまた帳簿を誤魔化して、聖騎士団を甘やかすつもりだろう。
……セリューネのほうがまだ役に立つ」
王は書類を投げ捨て、憎々しげに紅茶を飲む。
「俺が“斬首だ”と言っても、あいつは逆らわん。
むしろ死ぬ前に、俺の敵を斬って見せると言った。
……ならば、生きている限り走らせてやる」
王の声には一分の嘘もなかった。
それが──ケイナンの胸に、小さな鋭い痛みを落とす。
(陛下が必要としているのは……あの獣か)
羨望と、嫉妬。
そこに自分が立てない事への悔しさ。
ケイナンは静かに、紅茶の香りに紛らせて深い息を吐いた。
──続く。
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