やさいさかば

the memory2045

やさいのさかば

ぼくが働いているのは、いささか怪しい雑居ビルの地下1階にある、場末の古びたナス専門バー。

看板も店名もない。常連客はみんな、生のピーマンを半分かじったような顔をしている。


「今日は、いつものあれで」


と、奥のカウンター席に陣取るキュウリみたいにすらりとした男が、カクテルの名前を言わずに注文した。いつもの「あれ」は、刻んだオクラを数本、上等なマティーニの底に沈めたもの。飲むたびに粘りが絡む、誰も得しない代物である。


「やさい、届いたぞ」


ぼくの隣で、シェイカーを磨くマスターが低い声で言った。マスターのあだ名はゴーヤ。苦いから、ではない。どう見ても顔が縦長で、表面がゴツゴツしているからだ。彼は今朝、八百屋の親父から「最高に熟れたトウモロコシ」と言われて、なぜか大玉のトマトを仕入れてきた。最高に熟れたから、だそうだ。何を言っているのか、僕にもさっぱりわからない。マスターはそういう男なのだ。


「今日の『裏メニュー』は、『沈黙のトマト』だ」


ゴーヤはそう言って、冷蔵庫からそのトマトを取り出した。テニスボールほどの大きさで、見事な赤。普通のトマトだ。


ぼくが


「裏メニューって、ただのトマトじゃないですか」


と言うと、ゴーヤは一瞬、眉をひそめた。


「違う。こいつはな、昨晩、脱走したんだ」


脱走? どこから? ゴーヤは無言でトマトを手のひらに乗せ、カウンターの上のレモンと並べた。


「昨夜、冷蔵庫のドアを自力で開けたらしい。そのあと、この店の裏口まで転がっていたそうだ」


カウンター席のキュウリ男が、初めて口を開いた。


「どういうことだ?」


「さあ。でも、逃げたってことは、何かを隠してるってことだろ」


ゴーヤは静かにナイフを取り、トマトを半分に切った。断面は、美しい赤と種。ただのトマトだ。


「さあ、お前が何を隠していたか、話してもらうぞ」


ゴーヤはそう言って、切り分けたトマトの半分を、無言でぼくに差し出した。まるで、それが逃走犯を尋問する唯一の方法であるかのように。


ぼくは、全くわけがわからないまま、その沈黙のトマトを口に運んだ。

味は、甘くて糖蜜みたいに美味かった。


沈黙のトマトは、ただのトマトではなかった。


「……ウソみたいに、美味いですね」


ぼくの感想を聞いたゴーヤは、満足そうに鼻を鳴らした。


「だろ? 逃げた理由が、この甘さにある。美味すぎるから、誰にも食われたくなかったんだ」


「んなことある?」


キュウリ男が、さっきのオクラ入りマティーニを一気に飲み干し、氷をかちかち鳴らした。


「奴は、自分がトマトであることを受け入れていなかった」


ゴーヤはカウンターの下から、紫色のベルベット生地の布に包まれた何かを取り出した。


「どういうこと?」


「これが、奴の恋人だ」


ゴーヤが布を開けると、そこにあったのは、見事な球形のメロンだった。網目が深く、上品な薄緑色。


「……メロン?」


「そうだ。トマトのトムは自分を果物だと信じていた。だから、生ハムメロンになりたかったんだ」


ゴーヤはトマトの残り半分を丁寧に薄切りにする。メロンも同じく、薄く華麗にスライスされた。


「夏野菜バーの冷蔵庫に、フルーツとして監禁されるなんて、奴にとっては耐え難い屈辱だったんだろう」


ぼくの目の前に、芸術的なまでに薄く切られたメロンの上に、沈黙のトマトのスライスが重ねられ、ヘルシーな装いの皿が置かれた。メロンの清涼な香りと、トマトの濃密な甘さが、互いを引き立てている。そして、その横には、熟成された生ハムが添えられていた。


「生ハムメロンならぬ、生ハムトマトメロン、というわけか」


キュウリ男が、興味深そうに身を乗り出す。ピーマン顔の常連たちも、無表情の中にわずかな動揺を滲ませている。


「逃げたのは、こいつと永遠に結ばれるためだった。冷蔵庫の野菜室から、果物室へ。ただ、裏口に転がっていたのは、恋人に裏切られたからだ」


「裏切り?」


「ああ」


ゴーヤは、メロンとトマトに生ハムを一枚乗せてぼくに渡しながら、淡々と語った。


「メロンの奴は、結局、自分とトマトの愛よりも、生ハムの誘惑には勝てなかった。高級品には、高級品がお似合いだとな」


ぼくがそのトライアングル·ラブを口に入れると、甘美で、塩気があり、そしてどこかもの悲しい味がした。


「トマトは、自分の甘さを全てメロンに捧げ、そしてメロンは、そのトマトの甘さを、生ハムと分かち合った」


ゴーヤは残りの生ハムを全てメロンとトマトに添え、キュウリ男に差し出した。


「この夏一番、切なくて、最高にヘルシーな裏メニューだ。代金は一晩の自由、ってことにしておこう」


キュウリ男は無言でそれを手に取り、一口で食べきった。その瞬間、彼が一瞬だけ、アップルマンゴーみたいに明るく笑ったような気がした。


ぼくが


「あの…」


と声をかけようとした時ゴーヤが、いきおいシェイカーを激しく振り始めた。


「さあ、次はスイカの密輸の話をしよう。枝豆の護衛が元CIAで、巨匠パセリの家族が人質に取られてるらしい·······」




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