処刑される悪役令嬢、その正体は俺の幼馴染だった

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 死刑台の上で、名前を呼ぶ

 鐘が一度、低く鳴った。

 秋の空気は乾き、処刑塔の石段を上る靴音さえ、砂を噛むようにこすれた。


 俺――レオン・グレイヴは、副長のマントを風に鳴らし、最後の踊り場で立ち止まる。手袋越しに握る命令書は、汗を吸って重い。ここから先は、剣と署名の領分だ。誰にとっても同じ手順。いつもと違うのは、俺の心臓だけ。


 鉄格子の向こう、鎖の音が小さく鳴った。

 顔を上げる。

 ――そこに、いた。


 白い囚人服に、うっすら土埃がついている。髪は、光を受けると麦の薄皮みたいに色を返した。頬のこけた輪郭、驚いたときの目尻の癖。忘れるはずがない。

 セリーナ。


 喉が勝手に固まった。呼吸が途切れ、視界がきつく狭まる。鎖の先の細い手首を見た瞬間、十年前の河原の光景が押し寄せた。俺は彼女の手を掴んで――いや、掴めなかった。あのときも、俺は一歩遅かった。


「副長、時間です」


 同僚の声が背中を押す。俺は一歩前へ出る。儀礼の言葉は覚えている。何度も、何度も繰り返してきた。だが唇が動かない。


「罪人セリーナ=アードレイ。王太子殿下暗殺未遂、並びに反逆の罪により――」


「……レオン?」


 風鈴みたいな声だった。

 俺の名前を呼ぶ声は、ずっと変わっていない。


 視線がぶつかる。彼女は、泣いていなかった。驚きに震えもせず、ただ穏やかに口角を上げて、昔の呼び方で、俺を呼んだ。

 それだけで、用意された言葉が瓦のように崩れる。


「黙秘か?」


 見張りの兵が低く唸る。俺は手を上げて制した。

 規則はこうだ。罪人が騎士団副長を知っていようと、個人的関係は儀式の外。だが規則に、幼馴染という項はない。俺は自分の鼓動を数え、命令書を開いた。


 ――そこに、違和感があった。


 封蝋は王印で、破られた跡もなく、文言も定型だ。ただ、一枚、紙の端にあまりに細い、灰色の指先跡。

 灰ではない。

 これは、祈祷墨――断罪式の前に、罪人の額に“裏印”を押すためのもの。教会だけが管理する。裏印は、神判で魔力反応を示した者に押される印――だが、セリーナは魔力を持たないはずだ。


 俺は命令書を閉じる。

 近づく。鎖の音が乾いた石室に跳ねた。


「セリーナ」


 彼女は首をかしげる。目の色が、昔より少し深い。

 俺は問いを飲みこみ、別の言葉を出した。


「痛いか?」


「平気。重いだけ」

 細い手首に、鎖の輪が二つ。わざと皮膚を擦らないよう調整された跡。乱暴に扱われてはいない。

 妙だ。王太子の“お気に入り”だった令嬢にとって、これは丁寧すぎる扱いだ。見せしめなら、もっと雑にする。


 鐘が二度目を打つ。

 処刑の合図まで、あと一刻。見物台には既に群衆の影が揺れ始めている。ざわめきが、ひたひたと石を登ってくる。


「副長、確認を急げ」

 同僚が短く告げる。

 俺はうなずいた。形式通り、最後の確認をする。


「最終陳述は?」


 セリーナは短く息を吐き、笑った。

「あなた、まだ語尾が“だ”で止まるのね。子どもの頃から変わらない」


 やめろ、と心で呟く。今、そういう砕けた会話は、俺の脚をすくうだけだ。


「最終陳述は、ありません」


「ないのか」


「信じる人は、ここにひとりいればいいから」


 胸の内側が、静かに潰れた。

 俺は手袋を外した。格子の隙間から、彼女の手の甲に触れる。熱は驚くほど弱い。だが、わずかに墨の香がした。祈祷墨の、冷たい匂い。


「セリーナ、裏印を押されたか?」


 彼女は目を細め、うなずいた。

「額に、ね。大司祭さまのお手ずから。神判で、私から“何も出なかった”証だって」


 ――神判で何も出ない。

 それは“魔力なし”の証で、つまり王太子暗殺に関わる高度な術式とは無縁ということ。なのに裏印を押す?

 教会の手続きが矛盾している。

 矛盾は、誰かが嘘をついている証拠だ。


 俺は呼吸を整え、もう一つ確かめるべきことを探す。足元の鎖。金具は新しい。鍵穴の周囲、微細な傷。最近、開閉された跡――逃亡を恐れるなら、もっと厳重に封印するはずだ。

 ――彼女を動かす必要がある。

 誰かが、彼女を“舞台”に上げたい。


「レオン」


 名前を呼ばれて、視線が戻る。

 セリーナは、淡く笑った。


「あの川で、あなたが渡れなかった日の話、覚えてる?」


「忘れていない」


「私も。だから、今日はね――ちゃんと渡って」


 鐘が三度目を打つ。

 石の塔の上、空が澄んで高い。葬列の音が下から近づいてくる。群衆のざわめきに混じって、油の匂い。火刑の準備だ。

 火刑は、王族に対する反逆罪の最終形。だが、命令書には“斬首”とある。二つの刑が同時に用意されている――万が一にも逃さないため。

 用意周到すぎる。


 俺は剣帯をゆるめた。剣を抜く前の準備動作。

 背後で、同僚の気配が緊張で尖る。


「副長?」


「試すだけだ」


 俺は格子の鍵穴に手を伸ばす。正規の鍵は看守長が持つ。だが鍵穴の周囲の傷は、簡易鍵でも回るよう削られている。罠の匂い。

 それでも――試さなければ、見えない真実がある。


 そのとき、見張り台の上から、硬い足音が降ってきた。白い法衣、金の刺繍。教会の大司祭が、二人の助祭を伴って現れる。

 彼は俺を見ると、教本の表紙を軽く叩いた。


「副長。神はすべてをご覧になる。定めに従いなさい」


 俺は敬礼した。

「定めに矛盾があるなら、確かめるのが騎士の務めです」


 大司祭の目が細くなる。

「その務めは、王命の前には軽い」


 その言葉の端に、柔らかい甘さ。毒だ。

 俺は無言で一礼し、半歩退く。今ここで教会とやり合うのは最悪のタイミングだ。鐘が四度目を打つ。あと二度で儀式は始まる。


 俺はセリーナに視線で合図する。

 彼女が、ほんのわずかに頷く。

 俺たちは十年前から、言葉ではなく視線で橋を架けることを覚えた。


 大司祭が祈祷を始める。古代語が、空気を銀色に冷やす。助祭が墨を取り出し、額に印をなぞる仕草をする。

 その瞬間――俺の目の端に、黒い影が走った。観覧席。火刑の薪のそば。油壺に、細い筒が差し込まれる。

 火が上がる前に、爆ぜさせる気だ。混乱を作り、“事故”として彼女を焼く。斬首の手順を踏む前に。


 俺は背を向けた。

 歩幅を二つ分だけ速め、階段の縁を蹴って跳ぶ。

 同僚が驚きの声を上げ、大司祭が祈祷を止める。群衆がざわめき、空気が千切れる。


 影の男が顔を上げた。目が合う。黒い布で下半分を覆い、油壺から筒を抜きかけて――遅い。

 俺は男の手首を掴み、ねじり上げ、足払いで石畳に叩きつける。筒が転がり、油がこぼれ、陽光の中で鈍く光る。

 観覧席がどよめき、矢が一筋、俺の足元に突き刺さった。まだ別口がいる。


「副長、戻れ!」

 同僚の叫び。

 俺は短剣を抜き、矢の来た方角に投げる。同時に、別のけたたましい声が、石塔の上を裂いた。


「副長が――反逆したぞ!」


 それは誰の声でもなかった。形のない、“予定された叫び”。

 俺たちは、最初から台本の上を歩かされている。


 鐘が五度目を打つ。

 俺は刃を拾い、息を吐いた。

 混乱の渦の中心で、セリーナが静かに立っている。鎖に繋がれたまま、真っ直ぐこちらを見ていた。


 ――もう、選べない。


 俺は処刑塔へ走る。石の段差を二段飛ばしに駆け上がり、格子の前で膝を着く。

 鍵穴に、指先で作った簡易ピックを差し込む。

 金属が、短く泣いた。

 回る。

 格子が、開く。


「レオン」


 セリーナの声は、風のなかでもまっすぐだった。


「お願い」


 俺は彼女の手を取った。鎖ごと、引き寄せる。

 金具を見た。留め具は二重だが、片方は飾り。見せかけの封印。

 刃を差し込み、ひねる。

 鎖が外れ、重さが消える。セリーナの肩が軽く上下する。自由の重さを思い出すみたいに。


 背後で叫び。矢の音。金属のきしみ。

 大司祭が手を掲げ、助祭たちが術式の輪を展開する。

 光が集まり、胸の前で糸玉になる。

 当たれば、骨まで焼かれる。


 俺は剣を抜いた。

 空気が裂け、鉄の匂いが立つ。

 剣身は黒い。王国が“正義の剣”と呼んだもの。その刃で、今から王国の正義を断つ。


「――お前を、もう一度救わせてくれ」


 セリーナが一瞬だけ目を閉じ、開く。

 俺たちは並んで、石段の上に立った。

 下では、群衆が黒い波のようにうねり、怒号と祈りが混ざって空へ昇る。


 鐘が、六度目を――最後の合図を――打つ。

 大司祭の術式が炸裂する。白い閃光が、槍みたいにこちらへ伸びた。

 俺は一歩、踏み込む。

 剣は、光を切れる。切れないものは、踏み越える。

 十年前、渡れなかった川を、俺は今、渡る。


 光と鉄がぶつかる音が、空の高みで鳴った。

 瞬間、世界の色が反転する。

 石塔の上に、風が生まれた。

 セリーナの髪が舞い、彼女の額の裏印が、陽光に淡く浮かぶ――何も示さないはずの印が、一瞬だけ“真白”に光った。


 神判が“無”と告げた者に、なぜ光が宿る?


 答えを待つ暇はない。

 俺は剣で光をはね、二撃目の気配に肩を回す。

 背後、観覧席の隅、黒布の影がもう一本の管を油壺へ――


「セリーナ、走れ!」


 彼女は走る。

 俺は剣で術式の線を断ち、石段を滑るように駆け下りた。

 火はまだ上がらない。油は無傷。群衆はまだ、何が起きているのか飲み込めていない。

 “今”しかない。


 俺たちが石段の踊り場に飛び出したとき、塔の上から怒声が降ってきた。


「副長レオン・グレイヴ! その女とともに、国家への反逆を企てた罪で――」


 俺は顔を上げ、はっきりと言った。


「王国よ、聞け。

 この罪は俺が引き受ける。彼女は、無実だ」


 言葉が空へ投げられ、ざわめきが千々に砕ける。

 セリーナが横で息を吸う。

 俺は彼女の手を握り直し、もう片方の手で剣を前に掲げた。


「この剣で、運命を壊す」


 その宣言は、祈りに似ていた。誓いでも、恋でもない。

 ただ、十年前の不完全な約束の続きを、やっと言葉にしただけだ。


 風が、俺たちの背中を押した。

 塔の外へ。

 群衆の中へ。

 王国の嘘の中心へ――。


 群衆の怒声が追ってくる。石畳を飛ぶように駆けると、後ろで矢が二本、三本と地面に突き刺さった。風が矢の軌跡を運び、皮膚に冷たい痛みが走る。だが振り向けない。振り向けば、あのときと同じになる――いつも一歩遅れた自分を、また見てしまうからだ。


 石の裏手へ回り込むと、狭い路地がある。昔、この路地で俺とセリーナはかくれんぼをした。彼女が笑って、小さな手で俺の袖を引っ張った。現実があの頃の匂いを掬い取る瞬間、俺は胸の奥で針を摘むような痛みを感じた。だが今は遊びではない。遊びだった時間は、王国の嘘に潰されたのだ。


「こっちだ」


 低い声に従い、俺は路地の影に身を寄せる。影の中には、灰色の外套を羽織った男が二人、息を殺していた。ひとりは、古い知己――下級騎士のミロ。彼は、かつて同じ宿舎で飯を食い、酒を酌み交わした奴だ。顔に細い傷が走り、目はいつもの快活さを失っていた。


「副長、大丈夫か?」

 ミロの目が俺を探る。彼は俺の右腕に手をかけ、軽く押すように指示する。俺はセリーナの手を緩めずに、さらに路地を曲がった。


 もう一人は見知らぬ女だった。腰に短剣を下げ、小さな鞄を抱えている。年の頃は二十前後か。顔立ちは硬く、目は鋭い。俺が格子をこじ開けた時、彼女が塔の影で見張っていたらしい。今は整った息で、俺とセリーナを待っていた。


「逃走の支度をしていたのか?」

 俺が短く問うと、女は頷いた。


「王都の路は目が多い。祭儀の日に混乱を作れば――逃げるなら今よ」


 言葉に無駄がない。手慣れている。俺は彼女の手元に目をやると、小さな封筒が見えた。封蝋は黒。教会が使う神印とは違う。これは――密使の印だ。つまり、誰かが内側から動いている。


「誰の手配だ?」

 ミロが問う。女は一瞬、迷いを見せたが、すぐに答えた。


「――ひとりの、古い知人よ。名は言えない。だが王宮の中に“風”がいる。あのときと同じ“風”」


 あのとき。言葉が針のように胸を刺した。十年前、俺が渡れなかった川の向こうで何が起きたか。あの出来事が、今の惨劇と繋がっているなら――俺は自分を殴りたいほど愚かだ。なぜ気づかなかったのか。なぜ、もっと早く疑わなかったのか。


「行くぞ」

 俺はセリーナを押し出す。彼女はふらつかず、静かに足を運ぶ。足取りは昔と変わらない。細く脆いと思っていたものが、驚くほど強固な芯を持っている。彼女は鎖の跡を指でなぞりながら、やっと息を吐いた。


「レオン、ありがとう。でも……」


「何だ」

 俺は答えを急いだ。胸の奥で薪が焦げるように熱い。謝る言葉を幾重にも用意していたが、今はひとつだけ選ぶ。


「今度は、絶対に渡す」


 彼女が目を細めた。そこに一瞬、子どもの頃の光が戻る。あの河原の光だ。だが背後からはすでに鉄の足音が迫る。見張りが塔を降り、路地を封鎖し始めた。


 我々は市街地の外れにある、小さな裏門から城外へ出る。ミロの顔がひきつる。城壁の見張りが増えている。どうやら王家は、セリーナを単なる見せしめにするつもりはなかったらしい。計画は周到だ。行動は迅速で、容赦がない。


 女――密使は冷静に指示を出す。路地を抜け、馬屋を通り、古い石橋を渡る。橋の下には、ぼろ切れを纏った渡し守が一人いる。渡し守の背中には、見覚えのある刺繍。かつての同胞――海の村で顔を合わせた男の紋で、俺は思わず舌打ちする。運命は、いつも俺に古い顔ぶれを突き合わせる。


「先に行け」

 渡し守が言う。渡しは木の筏にロープで繋がれ、岸から岸へと我々を運ぶ。水は冷たく、指先が痺れる。セリーナは震えずに立っているが、目は前を見つめていない。何か別の場所に意識を預けているようだ。彼女の額の裏印が、暗闇でわずかに光ったのを俺は見た気がした。


 向こう岸に着いたとき、風が変わった。城下の喧騒は遠ざかり、木々のざわめきが近くなる。密使の女が囁く。


「ここからは、盟約だ。私の名はカリナ。先へ進めば、君たちは“表”から“裏”へ入る。王国の真実を知れば、もう戻れない」


 その言葉に、凍りつく何かがあった。真実――。セリーナの無実を証明するために、俺は王国を敵に回すことを選んだ。だがその先にあるのが、ただの誤解や汚職ではなく、国家の骨組みを揺るがす現実ならば――俺は何を失い、何を得るのか。


「戻るなんて、考えてない」

 ミロが低く笑う。酒場で聞いた小噺のような声だが、その奥に刃がある。


 我々は暗い森へと足を踏み入れた。月が樹間から零れ落ち、地面に銀の筋を作る。逃亡者の群れは、ささやかな声で俺たちの背を押した。セリーナは、ふと手を止めて後ろを見た。塔の方角に、ほんの小さな光がまだ滲んでいる。祭儀の余韻か、それとも追跡の狼火か。どちらにせよ、そこへ戻ることはもうできない。


「教会の裏印が示すのは、“無”ではない。何かを封じるための符だ」

 カリナの声が静かに、森に溶けるように落ちた。

 その言葉が、俺の内側で何かを震わせた。額の印が“無”なら、なぜ光を放ったのか。なぜ彼女の存在が、王国にとって危険なのか。


 セリーナは肩をすくめた。小さな声で言う。


「十年前――私は、ある“約束”をしたの。誰にも言えない、でも忘れられない約束。それが、今につながったらしい」


 俺は彼女を見た。約束。あの日、川のほとりで交わした言葉。俺は覚えている。彼女が指で空に描いた小さな輪。子どもじみた約束だ。だが、約束は時に力を持つ。誰かにとって、牙のように尖る。


「話すべきはゆっくりだ。今はまず、姿を隠す」

 カリナが言う。ミロが頷く。俺は剣の柄を握り直し、背後の影を一瞥した。夜の森は深く、私たちの影を飲み込みそうだ。だが胸の中には、まだ火がある。あの鐘の音、その中で見た彼女の顔、それがすべての始まりだった。


 俺たちは森の奥、廃屋の屋根裏に身を寄せる。薪を割り、薄いスープを飲む。ミロは、半ば冗談めかして言った。


「副長、これからは君が主人公だ。劇場で言えば、主役が舞台に戻った。失敗するなよ」


 その軽口に、セリーナが笑う。笑顔は壊れやすく、その瞬間だけ世界が和らいだ。だが笑いの後ろにあるものは重い。王国の息遣いが、まだ耳元でうなる。


 夜半、屋根裏の隙間から月が差す。俺は剣を膝の上に置き、思い出す。十年前、あの川で俺が渡れなかった理由。本当は――怖かったのだ。誰かを守る自信がなかった。幼さ故の臆病。それが、彼女を失わせた。今日、刃を振るっても、その罪が消えるわけではない。だが、踏み出さなければ何も始まらない。


 セリーナが静かに言った。


「レオン、あなたは今日――私を、救った。ありがとう。でも、まだ終わりじゃない」


「知ってる」

 俺は答えた。声がずるく震えたが、堪えた。

 彼女の手を取る。細い掌は冷たかったが、滑ることはなかった。


 屋根裏の隙間から、風が音を立てて通る。遠くで犬が吠え、夜の虫が唄う。俺たちは一時の安息に身を任せる。だが誰もが知っている。夜が明ければ、王国はもっと大きな動きを始めるだろう。教会は沈黙を守らず、王宮は更なる策を巡らす。しかも、今回の“芝居”は成功していない。何者かが、別の“筋書き”を動かしたのだ。


 カリナが、封筒を開けると、中から一枚の紙切れと小さな鍵が出てきた。紙には、短い文が黒く走っている。


 ――「真実を知りたければ、明朝、旧灯台に来い。答えをやる。ただし、王の目を逃れる覚悟があること」――


 署名はない。だが封蝋の痕跡が、どこかで見た印に似ている。俺はその印を知っているような気がした。胸の中に、また別の風が吹いた。思い出せない断片が、俺を掻き乱す。


 セリーナは紙を受け取り、ゆっくりと目を閉じる。


「明朝か」

 俺は剣の鞘を撫で、静かに言った。

「なら、行く。真実を聞きに行く。王の目を逃れてでも」


 彼女が再び目を開けた。その目はもう、子どものものではない。深い湖のように静かで、底に何かが沈んでいる。


「約束よ」



 セリーナの声が、屋根裏に小さく響いた。


 約束。渡れなかった川の向こうの約束。俺たちは互いに頷き、薄い毛布を肩にまとい、夜を待った。外では、遠くに鐘の余韻がまだ消え残っている。だがその音は、やがて朝に掻き消され、別の真実の音が鳴り始めるだろう。


 明朝、旧灯台で――。

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