有栖志香は冷たく息を吸い込んだ。塩素と埃の濃厚な匂いが喉に張り付いた。彼はバス停の湿った隅に一人座り、ぼろぼろになった制服は硬直し、悪臭を放っていた。

それが日常になっていた。学校は彼にとって耐えなければならない地獄だった。背中は痛み、みなみ率いる「五人委員会」の殴打と蹴りの傷跡はまだ癒えていなかった。

しかし、最悪だったのは肉体的な痛みではなかった。最悪だったのは、空虚感だった。

「ルーシー…」彼は囁いた。その名前は、橋の下で見つけた小さな犬の名前だった。彼に唯一温もりを与えてくれた生き物だった。

ルーシーは二日前に死んだ。彼の目の前で、みなみとその部下たちに、冗談半分で踏みつけられたのだ。

志香は、あの骨が砕ける音、そしてルーシーが最後に彼を見つめた瞳――彼が守り損ねた、信頼に満ちた瞳――を忘れられなかった。

涙は乾いていた。長い歳月を経て、志香の涙は舌に苦く塩辛い味だけを残した。

家に帰っても逃げ場にはならなかった。家はもはや戦場だった。

遠くから二人の叫び声が聞こえた。苛立ちを募らせるギャンブラーの父と、気の弱い母が、ひっきりなしに言い争っていた。

その日、喧嘩はより激しく、より危険な響きを帯びていた。

志香はドアの前で立ち止まり、中に入るのをためらった。本能、危険を察知する衝動が彼女を引き留めた。

「また金を全部使ったな、この役立たずめ！」酒に酔った父親が家の中から唸り声を上げた。

「子供たちにご飯を買っているだけだ！ギャンブルで負け続けたら、一体何を食べればいいんだ！」母親の声は震えていた。

突然、静寂が訪れた。嵐の前の静寂のような、恐ろしい静寂。

それから、ガラスが割れる大きな音が響き、保育園から帰ってきたばかりの妹の優（8歳）の叫び声が続いた。

志香は慌ててドアを開けた。中は凍りついたようだった。父親が割れた瓶を手に持ち、暗い目をしていた。

「お父さん…やめて」志香はかろうじて声を出した。

父親は父を呆然と見つめると、踵を返し、裏口から飛び出した。

母親は優を抱きしめながら泣き叫んだ。床に落ちた擦り切れた電気コードも、テーブルの足元にいつからあったのかわからないガソリンの水たまりも、全く気に留めていなかった。

志香が「お母さん、優、逃げて！」と叫ぶ間もなく、炎が燃え上がった。

炎は飢えた怪物のように、恐ろしい速さで壁や家具を焼き尽くした。

志香は熱に顔が焼けるように吹き飛ばされた。母親が優を窓辺に押しやり、ガラスを割ろうとしているのがちらりと見えた。

濃い煙に志香は激しく咳き込んだ。煙を掴もうと必死に這い上がろうとした。

「お母さん！優！」と叫んだが、炎の轟音にかき消された。

しかし、炎はあまりにも速く、あまりにも激しかった。数秒のうちに、志香の視界は燃えるようなオレンジ色の炎と、木が落ちるパチパチという音で満たされた。

志香は瓦礫の中を這い出た。制服は数カ所破れ、焼け焦げていた。彼は前庭で息を切らし、家が崩れ落ちるのを見ていた。

家に戻ることはできなかった。もう遅すぎた。かすかな叫び声が小さな爆発音に遮られて聞こえただけだった。

母も妹も、彼の惨めな人生に残されたものすべてが、今や灰と煙と化していた。

その光景は、まさに最後の一撃だった。ルーシーを失った痛み、いじめの痛み、家庭内暴力の痛み、すべてが混ざり合った。

熱い灰の雨の中、志香は膝から崩れ落ちた。彼の叫びはもは​​や悲痛な叫びではなく、純粋な絶望と空虚から生まれた嘆きだった。

「なぜ？ なぜ僕は苦しみ続けなければならないんだ？」彼は指の関節から血が出るまで地面を叩いた。

突然、明るくも冷たい声が、緊張した沈黙を破った。

「なんて美しいドラマなんだ。こんなに冷たい魂に、こんなに温かい炎を。ニャー」

志香はぼんやりとした視線を上げた。少し焦げた柵の上に、小さな黒猫が座っていた。

志香の片方の目は炎の光に輝き、もう片方の目は軽蔑するような銀色だった。

「あなたは…誰ですか？」志香はほとんど言葉が出なかった。

猫は飛び降り、ゆっくりと志香に向かって歩み寄った。「私はカイム。そして、有栖志香、あなたの祈りに応えた者です。」

「祈り？私は祈らない。ただ…この全てが終わってほしいだけ。」志香はすすり泣いた。

カイムはニヤリと笑った。猫にしては不自然な、狡猾な表情だった。「ああ、でも君はただの終わりよりも強い何かを求めているんだろう？『復讐』を求めているんだね。」

「君は、責任ある者たち、臆病な父親と、彼を助けた小さな悪魔たちに『同じ痛みを感じてほしい』と思っているんだね。」

カイムの言葉は志香を突き刺した。「父親。いじめっ子。共謀者。」それは残酷な真実だった。

「どういう…意味だ？」志香は問い詰めた。悲しみは徐々に怒りに変わっていった。

「単純明快だ。お前の父親は、お前をいじめていた『五人評議会』の一人に多額の借金を抱えている。彼らは彼に、ある提案をした。保険で借金を帳消しにし、家族の重荷を軽くするというものだ。」カイムは振り返った。

「父上…そして彼らは…」志香の手はぎゅっと握り締められた。純粋な憎悪が彼の血管を駆け巡った。

カイムは顔を近づけた。「契約を持ちかける。『復讐のアリス』という力を与える。」

「『彼らの因果の糸を見抜き、断ち切る』力。お前が感じるあらゆる苦痛を、彼らが『十倍』に感じる力。」

「希望も、友情も、愛もない。あるのは『純粋な復讐の力』だけだ。」カイムは続けた。その声は今や魅惑的な囁きだった。

志香は、消え去り、黒い炭を残し始めた炎を見つめていた。燃えさしの下に、ルーシー、優、そして母の影が見えた。

「代償は…何だ？」かすれた声で、彼は尋ねた。この魔法の契約には、きっと恐ろしい代償が伴うことを知っていた。

カイムはくすくす笑った。その声はまるで砂利をすりつぶすようだった。「代償はお前自身だ、復讐のアリス。復讐するたびに、お前の魂の一部が失われるだろう。」

「お前の感情は死に、幸福は消え去る。復讐が完遂されるまで、お前はただの空虚の器となるだろう。」

カイムは志香の肩に飛び乗った。「選べ、志香。この冷たい絶望に沈むか、復讐の炎として立ち上がるか？」

志香は目を閉じた。いじめっ子のリーダー、みなみのニヤリと笑う顔を思い出しながら。父親の裏切りを思い出しながら。

彼にはもう何も掴むものがなかった。幸せなど必要なかった。必要なのは、残酷な正義だけだった。

「承知しました」志香は冷たく毅然とした声で答えた。「彼の力を私に渡せ。皆に報いを与えてやる」

カイムは志香の煤けた頬を舐めた。「ようこそ、新しい人生へ、『復讐のアリス』。最初の任務は、居場所を見つけること、そして父親を見つけることだ。彼はすでに逃げ出している」

瞬間、志香の体を焼き尽くすような激痛が走った。それは肉体的な炎ではなく、空虚感による激しい痛みだった。彼女の手の甲には、ひび割れた模様を象った暗い「聖痕」が浮かび上がった。

きらびやかな光も、陽気な音楽もなく、変身は起こった。それは苦痛に満ちた、不穏な切断と切断に満ちたものだった。

志香は今、衣装をまとって立っていた。黒、深紅、銀色。典型的な魔女のガウンというよりは、冷たい「黒マント」を羽織った「ゴシック」ドレスのようだった。彼女の目は怒りで赤く燃えていた。

復讐の力が生まれた。そして、彼女は知らなかったが、彼女をいじめていた一人――陰謀の首謀者の一人――が「復讐のアリス」の異名を名乗っていた。最も暗い戦いが始まったのだ。