「あたたかいコーヒーが冷める前に、もう少し話そう」
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第1話 「曇天」
灰色の雲が、街を覆っていた。
いつもならカーテンの隙間から差し込む銀色の光が、今日は届かない。
空気は重く、寝起きの身体をひどく鈍らせる。
寝癖の残る髪をかき上げながら、鼻歌まじりに観葉植物へ水をやった。
土に染みこむ水の音。ガラス窓を叩く風の音。
小さな部屋の中で、それだけが確かに動いていた。
ゴリゴリと豆を挽く音が部屋に響いていた。
使い古したネクタイをいつものシャツと一緒に身に着けて、煙草のにおいが染みついた上着をダイニングテーブル近くにある椅子に掛けた。
テレビの朝のニュースでは、女性キャスターが人気小説家の【珈琲豆】を特集していた。
「“現代の孤独を焙煎する男”として話題の……」
聞き流しながら、朝野はポットに手をかける。
「コーヒー豆、ね……」
言葉を転がすように呟く。
湿った空気が胸にまとわりつき、なんとなく気分を沈ませた。
味の薄い朝食パンを噛みながら、彼は窓の外の曇天を見上げる。
そこに色はなく、音もない。
けれど、その無音が妙に落ち着いた。
*
商店街の古いアーケード。パン屋から漂う甘い匂い。
遠くで開店準備のシャッターが軋んだ。
曇りのせいか、世界の輪郭が柔らかく滲んで見える。
ガラス越しに見える見慣れた店員の顔、常連たちの穏やかな声。
変わらない朝の風景。
「おはよう、仁ちゃん」
「おはよ、おっちゃん」
軽く挨拶を交わし、カウンターに座る。
マスターにいつものブラックコーヒーを頼むと、
慣れた手つきで豆を挽く音が響いた。
そのリズムは、どこか人の心臓に似ていた。
「いつもありがとうございます、朝野さん」
「いーえ、こちらこそ。ありがと、マスター」
湯気の向こうで、マスターが外の空をちらりと見た。
ガラスに映る雲がゆらぎ、光を拒んでいるようだった。
「今日は天気、悪いですねえ」
「こういう日もあるさ」
「……ですね」
小さな会話。
それだけで、少しだけ体の力が抜ける。
コーヒーを啜ると、焙煎の深い苦味が喉を通り、
眠気と同じくらいの重さで、心を落ち着かせた。
紙コップに入ったコーヒーを片手に、
朝野は職場へと歩き出した。
灰色の空の下、足音だけが静かに響いた。
*
『生活安全課』のプレートがかかった扉を開けた瞬間、怒鳴り声が飛んだ。
「朝野! おせーよ!」
耳を塞ぐように手を上げ、軽く笑う。
「俺、いつもこの時間っすよ。
課長の
「まったくお前は……」
「神原さーん、うるさいです」
「課長、ボリューム落としてください」
眠そうにクッションを抱えた
無表情で書類をまとめる
課内の空気は、いつも少しゆるくて温かい。
それが、朝野にはちょうどいい。
神原は深くため息をつき、朝野をにらんだ。
「朝野、上から案件来てる。詳細はメールしといた。すぐ行け」
「はいはーい」
飲み終わった紙コップをゴミ箱に放り込み、
朝野はのんびりと廊下に出ていく。
背中を見送る三人のうち、翔が小さく鼻を鳴らした。
「まったく……」
「朝野さん、コーヒー臭いっすね」
「煙草臭いよりマシよ」
そんな会話を背に、
朝野はスマホを取り出す。
通知マークが光っていた。
メールを開くと、眉がわずかに動く。
「……マジか」
次の瞬間、足が勝手に走り出していた。
*
昼を過ぎた空は、いっそう灰色を濃くしていた。
都内の高層ビル屋上。
コンビニ袋を片手に階段を駆け上がり、
ドアを開けた瞬間――冷えた風が肌を切った。
フェンスの向こう、グレーのシャツにパーカー、スウェット姿の青年が立っていた。
髪はぼさぼさで、目だけがやけに澄んでいる。
彼は無言のまま、フェンスに手をかけていた。
風に吹かれた袖が小刻みに震えていた。
「……何してんの、君」
青年は答えない。
風の音と、袋のカサリという音だけが響く。
「だんまり?」
朝野はゆっくりと歩み寄り、
距離を測るように立ち止まった。
その歩幅は、警戒と優しさの中間だった。
「なあ、飛ぶんならもうちょい天気のいい日にしとけよ。
曇ってると、絵にならないだろ」
その一言に、青年の瞳が一瞬だけ驚いたように動いた。
「……飛びませんよ、刑事さん」
「んー、俺はね、元・刑事」
「嘘っぽい」
思いのほか、はっきりとした声だった。
けれどその奥には、明らかな疲弊が滲んでいる。
「“飛ばない”って言う顔じゃなかったら、信じてた」
「顔、ですか」
青年はかすかに笑った。声は掠れていて、でも優しかった。
「人に会うのが、面倒で。ここなら静かですから」
「通報されてたよ。おかげでオジサン走る羽目になった」
「……すみません」
素直な謝罪。
朝野は、その目の奥に残る“生”の痕跡を見た。
「名前は?」
「
「朝野仁。三十六歳~」
「おじさんて年じゃない」
「でしょ」
要の口元が少しだけゆるんだ。
その笑みは、風の中に溶けて儚く消えた。
朝野はポケットから棒付きキャンディを取り出してくわえた。
「そこはタバコじゃないんだ」
「オジサン禁煙中なんで」
「へぇ」
興味があるのか、ないのか。
要はまたフェンスの下を覗き込む。
下には、無数の車と、点のような人影。
世界は広すぎて、彼一人を簡単に飲み込めそうだった。
「君は吸わないの?」
「やめてます。喉、弱いんで」
「真面目だなあ。最近の若いのはもっとやんちゃだと思ってた」
「二十四ですよ。もう若くないです」
「いや、若いだろ。俺三十六ね」
朝野は笑いながらフェンスの端に腰を下ろした。
足元の砂利が音を立てる。
遠くで雷が鳴った気がした。
「俺がお前くらいのときなんて、上司に怒鳴られて、恋人にフラれて、猫に逃げられた」
「猫?」
「三毛猫。“さば”。美人だった」
要が思わず吹き出す。
曇り空の下、小さな笑い声が風に溶けた。
「要くん、怖くないの」
「……怖いか怖くないか、で言えば、怖いかも」
要は下を向くのをやめ、空を見上げた。
灰色の空を裂くように、カラスが一羽、ゆっくりと飛んでいった。
「雨って、落ちるのを怖がらないですよね。
落ちるのも、生きるのも、似たようなものなのかなって」
その横顔を見ながら、朝野はそっと手を伸ばし、髪を撫でた。
要は驚いたが、抵抗はしなかった。
その仕草に、幼い頃の「安心」が一瞬だけ蘇ったような気がした。
「……腹、減ってるか」
「え」
その声に、要の表情が一瞬だけ年相応のものに戻った。
「ちょうどいい。昼飯、俺の奢り。唐揚げ弁当~」
「初対面の人に飯を奢るなんて、珍しいですね」
「コンビニ弁当くらいなら奢れる」
朝野は袋を掲げて笑う。
その笑みは、曇り空の中で不思議なほどまぶしかった。
「……仁さんでしたっけ」
「おう」
「なんで刑事、やめたんですか」
「お、意外と聞くね。根掘り葉掘りタイプか」
朝野はキャンディを指で転がしながら、曇った空を見上げた。
「……まあ、それは俺ん家行ってからでも遅くないだろ」
「え」
「行くとこないんだろ。コーヒー淹れてやるよ、豆から挽くタイプ」
「そんな誘い方、信じるバカいます?」
「いるじゃん、目の前に」
思わず口を噤んだ要の顔に、微かに笑みが浮かぶ。
朝野は立ち上がり、屋上のドアへ向かいながら振り返らずに言った。
「来ないなら弁当二つ食うけど?」
沈黙のあと、要の腹の虫が鳴る。
「お腹はずいぶん素直だな」
「……食べますよ」
「よし、交渉成立。家賃はまだ取らねぇから安心しな」
「なんで俺、住むことになってるんですか」
「一人暮らし危なっかしいだろ。あと俺、飯作るのめんどいし」
要はため息をつきながらも、朝野を追い越して階段を降りた。
手首に巻かれた包帯が、一瞬、階段の光を反射する。
朝野は何も言わなかった。
ただ、背中に向かって軽く呟く。
「転ぶなよ。血は苦手なんだ」
その軽さが、なぜか温かかった。
要はうつむいたまま、ほんの少し笑った。
曇天だった空から、わずかに光が差していた。
*
朝野は、要を連れて自宅のマンションに戻ってきていた。
オートロックのマンション。朝野は見かけによらず最新式の良いところに住んでいるらしい。朝野は迷わずにエレベーターに乗り込み、3階を押す。
エレベーターの扉が閉じ、二人きりの空間。朝野はスマホを操作しながら眠そうにあくびした
要から見て朝野は、なんとなくそこら辺にいる大人のようには見えなかった。
さらさらのセットされていない髪に歪んだへたくそなネクタイ。使い古した革靴。
でも、手荷物一つ一つがきれいで大事にされている。
不器用な人なのだろうか。
そして彼の背中には何か影のようなものを感じるのは、気のせいだろうか。
「要くん、入って」
「あ、はい」
靴を脱ぎ、部屋の中に入ると足の踏み場がないほど汚れてもなく、かといって塵一つないと言い切れるほどきれいでもなく、自分が生活しているところしか掃除しないのだろうな、と要は一人考えていた。
1LDKの普通の部屋。
朝野は静かにリビングにある大きめのソファを指さした。
「んっとそこのソファで寝ていいから。
今度必要ならマットレス買うから寝心地教えて」
静かに笑って要は頭を撫でられる。要は肩にかけていたリュックを静かに床に置いた
「重そうなもん、背負ってんな」
「いや、ノートとパソコンと…ペンとタブレットだけ、で」
「財布とか、スマホもあるでしょ」
「ん、まぁ…」
朝野は静かにソファに座っている要を横目にコーヒーミルを取り出した。要は興味深そうにコーヒーミルを見つめていた。
「コーヒーミル…」
「お、知ってる?」
「好きで。実家にもたくさん置いてあったし」
グァテマラの豆を取り出す。
コーヒーミルに豆をカラカラと入れた。
「仁さん、どうしてコーヒーが好きなんですか」
「…俺ね、コーヒー嫌い」
「え?」
ふふ、といたずらっぽく朝野は笑う。
「俺、苦いの嫌いだもん」
「子供かよ」
「三十六のオジサンね」
―じゃあ、どうして、コーヒーが飲めないの
その言葉を要は飲み込んだ。
コーヒーの豆を丁寧に挽く、そしてお湯を丁寧に注ぐ。
膨らむ。香りが漂う。
「…仁さん、楽しそう」
「ん?そう、俺ね、楽しいの」
子供っぽい笑顔。
コンビニ袋から取り出した弁当を電子レンジに入れて温める
「…曇りの日はさ、コーヒー飲んで、ぼーっと過ごすの。
肩の力抜いて、コーヒー苦いなあって思って、そんで俺かっこいい~って」
要は静かに、スマホを取り出して写真を撮った。
「え、なに」
「仁さんのそういうとこ、おもしろい」
食事を目の前に置く。唐揚げ弁当に苦いブラックコーヒー
「いただきます」
要は朝野がその言葉を口にしたのをまねして小さく手を合わせた
「要くんも」
「…え」
「挨拶、俺と生活するなら挨拶は必須」
「…はい」
二人のいただきますが部屋に響く
要は唐揚げを口に入れる。
どうしてこんなにも優しいのに、どうしてこんなにも暖かいのに
「どうして人は死にたいって、思うのかな」
口から不意に出た言葉と思いが交錯する。悔しかった、泣きたかった。なぜか涙も出なかった。箸をおくこともなく朝野はそのまま食べる。
「…死んでも何も残らないのに」
「お前は、なんて言ってほしい?」
朝野の目が、先程とは違う。なにかを見透かすような、逃がさないとでもいうような
「死ぬ?そんなバカなこと、考えてんじゃねえよ!
お前が死んだら、迷惑がかかる人間、悲しむ人間がいるんだよ
お前の自分勝手な行動一つで、多くの人間が不幸になるんだよ」
要の喉と胸が、掴まれたかのように締め付けられていく。
もう二度と、聞きたくない言葉の羅列。耳を塞いでもこびりついて離れない
朝野は、要に近づいて静かに手を頭においた。
「死ぬ選択を否定する必要なんてない。
死ぬ選択を切り捨てたら、逃げ場を失う人間だっている。
別に死ぬのは、悪いことじゃない」
まっすぐな瞳でほしい言葉をくれた。都合がいい言葉なのかもしれない。
でもきっと、欲しかった言葉
「…ごめん」
要の震える手を、優しく包む。
朝野は静かに何度もごめんと口にして、背中をさすった。
温かいコーヒーを手に持たせ、静かに要の言葉を待った。
「俺ね、その人が欲しがってる言葉が、なんとなくわかるの」
静かに始めた。
その言葉で合点がいった。
優しく、欲しい言葉をくれる。気持ちの良いテンポ。
話していて、どこか落ち着いた。
「…俺は、もう間違えたくないんだ。要くんみたいな子を救いたい。
だから、言いたいことがあったらコーヒーを俺のために淹れてよ。
俺がそのコーヒーを飲み干すまで、話を聞いてあげる」
子供っぽかった顔が、急に大人のように、やさしく見つめてくれていた。
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