「あたたかいコーヒーが冷める前に、もう少し話そう」

draw_bayday

第1話 「曇天」

灰色の雲が、街を覆っていた。

いつもならカーテンの隙間から差し込む銀色の光が、今日は届かない。

空気は重く、寝起きの身体をひどく鈍らせる。


朝野あさのじんは寝起きのまま目を擦り、

寝癖の残る髪をかき上げながら、鼻歌まじりに観葉植物へ水をやった。

土に染みこむ水の音。ガラス窓を叩く風の音。

小さな部屋の中で、それだけが確かに動いていた。

ゴリゴリと豆を挽く音が部屋に響いていた。

使い古したネクタイをいつものシャツと一緒に身に着けて、煙草のにおいが染みついた上着をダイニングテーブル近くにある椅子に掛けた。


テレビの朝のニュースでは、女性キャスターが人気小説家の【珈琲豆】を特集していた。

「“現代の孤独を焙煎する男”として話題の……」

聞き流しながら、朝野はポットに手をかける。



「コーヒー豆、ね……」


言葉を転がすように呟く。

湿った空気が胸にまとわりつき、なんとなく気分を沈ませた。

味の薄い朝食パンを噛みながら、彼は窓の外の曇天を見上げる。

そこに色はなく、音もない。

けれど、その無音が妙に落ち着いた。



日引ひびき駅で電車を降り、行きつけのカフェ「Aliado《アリアード》」へ向かう。

商店街の古いアーケード。パン屋から漂う甘い匂い。

遠くで開店準備のシャッターが軋んだ。

曇りのせいか、世界の輪郭が柔らかく滲んで見える。


ガラス越しに見える見慣れた店員の顔、常連たちの穏やかな声。

変わらない朝の風景。


「おはよう、仁ちゃん」

「おはよ、おっちゃん」


軽く挨拶を交わし、カウンターに座る。

マスターにいつものブラックコーヒーを頼むと、

慣れた手つきで豆を挽く音が響いた。

そのリズムは、どこか人の心臓に似ていた。


「いつもありがとうございます、朝野さん」

「いーえ、こちらこそ。ありがと、マスター」


湯気の向こうで、マスターが外の空をちらりと見た。

ガラスに映る雲がゆらぎ、光を拒んでいるようだった。


「今日は天気、悪いですねえ」

「こういう日もあるさ」

「……ですね」


小さな会話。

それだけで、少しだけ体の力が抜ける。

コーヒーを啜ると、焙煎の深い苦味が喉を通り、

眠気と同じくらいの重さで、心を落ち着かせた。


紙コップに入ったコーヒーを片手に、

朝野は職場へと歩き出した。

灰色の空の下、足音だけが静かに響いた。



『生活安全課』のプレートがかかった扉を開けた瞬間、怒鳴り声が飛んだ。


「朝野! おせーよ!」


耳を塞ぐように手を上げ、軽く笑う。

「俺、いつもこの時間っすよ。神原かんばらさん」


課長の神原かんばらはじめが眉間にしわを寄せた。

「まったくお前は……」

「神原さーん、うるさいです」

「課長、ボリューム落としてください」


眠そうにクッションを抱えた音駒ねこましょうと、

無表情で書類をまとめる江崎えざきのぶがぼそりと返す。

課内の空気は、いつも少しゆるくて温かい。

それが、朝野にはちょうどいい。


神原は深くため息をつき、朝野をにらんだ。

「朝野、上から案件来てる。詳細はメールしといた。すぐ行け」

「はいはーい」


飲み終わった紙コップをゴミ箱に放り込み、

朝野はのんびりと廊下に出ていく。

背中を見送る三人のうち、翔が小さく鼻を鳴らした。


「まったく……」

「朝野さん、コーヒー臭いっすね」

「煙草臭いよりマシよ」


そんな会話を背に、

朝野はスマホを取り出す。

通知マークが光っていた。

メールを開くと、眉がわずかに動く。


「……マジか」


次の瞬間、足が勝手に走り出していた。



昼を過ぎた空は、いっそう灰色を濃くしていた。

都内の高層ビル屋上。

コンビニ袋を片手に階段を駆け上がり、

ドアを開けた瞬間――冷えた風が肌を切った。


フェンスの向こう、グレーのシャツにパーカー、スウェット姿の青年が立っていた。

髪はぼさぼさで、目だけがやけに澄んでいる。

彼は無言のまま、フェンスに手をかけていた。

風に吹かれた袖が小刻みに震えていた。


「……何してんの、君」


青年は答えない。

風の音と、袋のカサリという音だけが響く。


「だんまり?」


朝野はゆっくりと歩み寄り、

距離を測るように立ち止まった。

その歩幅は、警戒と優しさの中間だった。


「なあ、飛ぶんならもうちょい天気のいい日にしとけよ。

 曇ってると、絵にならないだろ」


その一言に、青年の瞳が一瞬だけ驚いたように動いた。


「……飛びませんよ、刑事さん」

「んー、俺はね、元・刑事」

「嘘っぽい」


思いのほか、はっきりとした声だった。

けれどその奥には、明らかな疲弊が滲んでいる。


「“飛ばない”って言う顔じゃなかったら、信じてた」

「顔、ですか」


青年はかすかに笑った。声は掠れていて、でも優しかった。

「人に会うのが、面倒で。ここなら静かですから」

「通報されてたよ。おかげでオジサン走る羽目になった」

「……すみません」


素直な謝罪。

朝野は、その目の奥に残る“生”の痕跡を見た。


「名前は?」

野良のらかなめ。二十四歳です。おじさんは?」

「朝野仁。三十六歳~」

「おじさんて年じゃない」

「でしょ」


要の口元が少しだけゆるんだ。

その笑みは、風の中に溶けて儚く消えた。


朝野はポケットから棒付きキャンディを取り出してくわえた。

「そこはタバコじゃないんだ」

「オジサン禁煙中なんで」

「へぇ」


興味があるのか、ないのか。

要はまたフェンスの下を覗き込む。

下には、無数の車と、点のような人影。

世界は広すぎて、彼一人を簡単に飲み込めそうだった。


「君は吸わないの?」

「やめてます。喉、弱いんで」

「真面目だなあ。最近の若いのはもっとやんちゃだと思ってた」

「二十四ですよ。もう若くないです」

「いや、若いだろ。俺三十六ね」


朝野は笑いながらフェンスの端に腰を下ろした。

足元の砂利が音を立てる。

遠くで雷が鳴った気がした。


「俺がお前くらいのときなんて、上司に怒鳴られて、恋人にフラれて、猫に逃げられた」

「猫?」

「三毛猫。“さば”。美人だった」


要が思わず吹き出す。

曇り空の下、小さな笑い声が風に溶けた。


「要くん、怖くないの」

「……怖いか怖くないか、で言えば、怖いかも」


要は下を向くのをやめ、空を見上げた。

灰色の空を裂くように、カラスが一羽、ゆっくりと飛んでいった。


「雨って、落ちるのを怖がらないですよね。

 落ちるのも、生きるのも、似たようなものなのかなって」


その横顔を見ながら、朝野はそっと手を伸ばし、髪を撫でた。

要は驚いたが、抵抗はしなかった。

その仕草に、幼い頃の「安心」が一瞬だけ蘇ったような気がした。


「……腹、減ってるか」

「え」


その声に、要の表情が一瞬だけ年相応のものに戻った。


「ちょうどいい。昼飯、俺の奢り。唐揚げ弁当~」

「初対面の人に飯を奢るなんて、珍しいですね」

「コンビニ弁当くらいなら奢れる」


朝野は袋を掲げて笑う。

その笑みは、曇り空の中で不思議なほどまぶしかった。


「……仁さんでしたっけ」

「おう」

「なんで刑事、やめたんですか」

「お、意外と聞くね。根掘り葉掘りタイプか」


朝野はキャンディを指で転がしながら、曇った空を見上げた。

「……まあ、それは俺ん家行ってからでも遅くないだろ」

「え」

「行くとこないんだろ。コーヒー淹れてやるよ、豆から挽くタイプ」

「そんな誘い方、信じるバカいます?」

「いるじゃん、目の前に」


思わず口を噤んだ要の顔に、微かに笑みが浮かぶ。


朝野は立ち上がり、屋上のドアへ向かいながら振り返らずに言った。

「来ないなら弁当二つ食うけど?」


沈黙のあと、要の腹の虫が鳴る。


「お腹はずいぶん素直だな」

「……食べますよ」


「よし、交渉成立。家賃はまだ取らねぇから安心しな」

「なんで俺、住むことになってるんですか」

「一人暮らし危なっかしいだろ。あと俺、飯作るのめんどいし」


要はため息をつきながらも、朝野を追い越して階段を降りた。

手首に巻かれた包帯が、一瞬、階段の光を反射する。


朝野は何も言わなかった。

ただ、背中に向かって軽く呟く。


「転ぶなよ。血は苦手なんだ」


その軽さが、なぜか温かかった。

要はうつむいたまま、ほんの少し笑った。


曇天だった空から、わずかに光が差していた。



朝野は、要を連れて自宅のマンションに戻ってきていた。

オートロックのマンション。朝野は見かけによらず最新式の良いところに住んでいるらしい。朝野は迷わずにエレベーターに乗り込み、3階を押す。

エレベーターの扉が閉じ、二人きりの空間。朝野はスマホを操作しながら眠そうにあくびした

要から見て朝野は、なんとなくそこら辺にいる大人のようには見えなかった。

さらさらのセットされていない髪に歪んだへたくそなネクタイ。使い古した革靴。

でも、手荷物一つ一つがきれいで大事にされている。

不器用な人なのだろうか。

そして彼の背中には何か影のようなものを感じるのは、気のせいだろうか。


「要くん、入って」

「あ、はい」


靴を脱ぎ、部屋の中に入ると足の踏み場がないほど汚れてもなく、かといって塵一つないと言い切れるほどきれいでもなく、自分が生活しているところしか掃除しないのだろうな、と要は一人考えていた。

1LDKの普通の部屋。

朝野は静かにリビングにある大きめのソファを指さした。


「んっとそこのソファで寝ていいから。

 今度必要ならマットレス買うから寝心地教えて」


静かに笑って要は頭を撫でられる。要は肩にかけていたリュックを静かに床に置いた


「重そうなもん、背負ってんな」

「いや、ノートとパソコンと…ペンとタブレットだけ、で」

「財布とか、スマホもあるでしょ」

「ん、まぁ…」


朝野は静かにソファに座っている要を横目にコーヒーミルを取り出した。要は興味深そうにコーヒーミルを見つめていた。


「コーヒーミル…」

「お、知ってる?」

「好きで。実家にもたくさん置いてあったし」


グァテマラの豆を取り出す。

コーヒーミルに豆をカラカラと入れた。


「仁さん、どうしてコーヒーが好きなんですか」

「…俺ね、コーヒー嫌い」

「え?」


ふふ、といたずらっぽく朝野は笑う。


「俺、苦いの嫌いだもん」

「子供かよ」

「三十六のオジサンね」


―じゃあ、どうして、コーヒーが飲めないの

その言葉を要は飲み込んだ。


コーヒーの豆を丁寧に挽く、そしてお湯を丁寧に注ぐ。

膨らむ。香りが漂う。


「…仁さん、楽しそう」

「ん?そう、俺ね、楽しいの」


子供っぽい笑顔。

コンビニ袋から取り出した弁当を電子レンジに入れて温める


「…曇りの日はさ、コーヒー飲んで、ぼーっと過ごすの。

 肩の力抜いて、コーヒー苦いなあって思って、そんで俺かっこいい~って」


要は静かに、スマホを取り出して写真を撮った。


「え、なに」

「仁さんのそういうとこ、おもしろい」


食事を目の前に置く。唐揚げ弁当に苦いブラックコーヒー


「いただきます」


要は朝野がその言葉を口にしたのをまねして小さく手を合わせた


「要くんも」

「…え」

「挨拶、俺と生活するなら挨拶は必須」

「…はい」


二人のいただきますが部屋に響く

要は唐揚げを口に入れる。

どうしてこんなにも優しいのに、どうしてこんなにも暖かいのに


「どうして人は死にたいって、思うのかな」


口から不意に出た言葉と思いが交錯する。悔しかった、泣きたかった。なぜか涙も出なかった。箸をおくこともなく朝野はそのまま食べる。


「…死んでも何も残らないのに」

「お前は、なんて言ってほしい?」


朝野の目が、先程とは違う。なにかを見透かすような、逃がさないとでもいうような


「死ぬ?そんなバカなこと、考えてんじゃねえよ!

 お前が死んだら、迷惑がかかる人間、悲しむ人間がいるんだよ

 お前の自分勝手な行動一つで、多くの人間が不幸になるんだよ」


要の喉と胸が、掴まれたかのように締め付けられていく。

もう二度と、聞きたくない言葉の羅列。耳を塞いでもこびりついて離れない

朝野は、要に近づいて静かに手を頭においた。


「死ぬ選択を否定する必要なんてない。 

 死ぬ選択を切り捨てたら、逃げ場を失う人間だっている。

 別に死ぬのは、悪いことじゃない」


まっすぐな瞳でほしい言葉をくれた。都合がいい言葉なのかもしれない。

でもきっと、欲しかった言葉


「…ごめん」


要の震える手を、優しく包む。

朝野は静かに何度もごめんと口にして、背中をさすった。

温かいコーヒーを手に持たせ、静かに要の言葉を待った。


「俺ね、その人が欲しがってる言葉が、なんとなくわかるの」


静かに始めた。

その言葉で合点がいった。

優しく、欲しい言葉をくれる。気持ちの良いテンポ。

話していて、どこか落ち着いた。


「…俺は、もう間違えたくないんだ。要くんみたいな子を救いたい。

 だから、言いたいことがあったらコーヒーを俺のために淹れてよ。

 俺がそのコーヒーを飲み干すまで、話を聞いてあげる」


子供っぽかった顔が、急に大人のように、やさしく見つめてくれていた。



 




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