第三話 密使と密約
白花祭の準備が始まって三日。
村の丘は白い花粉と粉塵で霞んでいた。
パンの白、衣装の白、花の白――どれも祝祭の色であり、同時に煙幕でもある。
白いものほど、裏を隠すには都合がいい。
今日も俺は、広場の片隅で交易路の地図を眺めていた。
“粉庫手形”は既に周辺四村へ流通し、王都の銅貨より早く回り始めている。
手形の裏には印、印の意味は商品ではなく“約束”。
つまり、この辺境で流れているのは貨幣ではなく――信義そのものだ。
◆
「ライル様、客です。南の橋から来ました」
ティナが駆けてきた。
橋? 南は隣国への街道筋。王都が監視するはずのルートだ。
そこから来る客は、歓迎すべき者でもあり、最も警戒すべき者でもある。
やがて、褐色の外套を纏った二人組が現れた。
背には蜂の刺繍。――隣国トリネアの養蜂商、通称〈蜜の商人〉だ。
「辺境の黒幕さんとお見受けします」
「名を知られるとは光栄だな」
互いに微笑しながら、探るような視線が交差する。
商人の一人――年配の男が、革袋を卓上に置いた。
甘い香りが立ちのぼる。蜜と薬草の混合物。
「王都で“蜂蜜税”が上がりましてね。逃げ場を探しておりまして」
「ここは逃げ場ではない。始まりの地だ」
俺は袋を開け、指で少しすくう。
粘度、香り、結晶化の具合。
この蜜は高純度。だが混ぜ物がない分、足がつく。
合法の品を偽装するより、偽装した合法品を流すほうが安全だ。
「税率はいくらだ」
「二割五分」
「なら、一割で仕入れよう」
「……赤字ですよ」
「赤字ではない。蜜を粉と交換しろ。粉庫手形の刻印を“花印”に変える。蜂の印と重なれば、税関の目は蜂蜜を“白花祭の供物”と誤認する。つまり――免税だ」
男の目が細くなる。もう一人の若者が息を呑んだ。
「供物……王都がそんな詭弁を許すと?」
「許さなくても“見逃す”。供物を取り締まれば信仰を傷つける。王都の宗務庁は、それを恐れている」
俺は白花の冠を手に取った。
パンに飾る花の一部を乾かして粉に混ぜる。それを“聖粉”と呼ぶ。
この祭りの本質は、信仰でも収穫でもない。“合法の抜け道”だ。
「……この取引、王都にはどんな顔で?」
「“文化交流”だ。隣国から聖蜜を献上し、代わりに辺境の粉を贈る。書面は俺が書く。王都の執行役ディラン・ヴァーミリオン宛だ」
蜜商たちは顔を見合わせ、やがて笑った。
「腹の中が真っ黒なお方だ」
「白い粉の国では、黒がよく映える」
契約は握手一つ。
彼らが去ると同時に、空気が少し冷えた。
遠くの街道から、灰色の羽織が風に翻るのが見えた。
◆
徴税官――グレイが再び村を訪れた。
彼は馬を降りると、迷いなく俺の前に立つ。
「ライル殿、王都の命を伝える。白花祭は“王都後援”として開催せよ、とのことだ」
「……ほう。王都が後援、とは」
「名目上は祭の保護。実質は“監視”だろうな」
グレイは淡々と告げた。
「さらに、王都から執行役が派遣される」
「名は?」
「ディラン・ヴァーミリオン」
俺は微笑んだ。
アメリアの家の名――予想通り。
家を守るための監視役であり、同時に“使者”でもある。
つまり、彼もまた駒の一つ。
「歓迎しよう。彼が来る前に、準備を整える」
「……準備?」
「祭の裏側に、もう一つ“密約”を」
◆
夜。
倉庫の奥で、俺とグレイ、そしてホブ商会のホブが卓を囲んでいた。
三人の前には、三つの印章――粉、塩、蜜。
「三つの印を重ねれば、“白花盟約”だ」
俺は言いながら、羊皮紙に線を描く。
――粉庫手形:商業経路
――蜂蜜契約:宗教経路
――徴税協定:法的経路
三者を重ねれば、王都の支配構造を“合法的にすり抜ける”三重構造ができあがる。
「この契約、王都が知れば?」
「知っても破れない。なぜなら、彼らが破ることは“法の自殺”だからだ。徴税官の印がある以上、王都は自らの権威を否定できない」
ホブが唇を歪める。「抜け道どころか、裏街道だな」
「街道は人が通れば正道になる」
火が灯り、赤い影が地図の上を踊る。
その瞬間、外から蹄の音が響いた。
グレイが眉を寄せる。「早いな……」
扉が開く。
灰色ではなく、黒い外套。金糸の刺繍。
王都の紋章が胸で光る。
男はまっすぐ俺を見た。
「久しいな、ライル」
「――ディラン・ヴァーミリオン」
元上官、そしてアメリアの兄。
かつての戦友が、今は監視役として立っている。
「祭を開くとは聞いた。王都の承認なしに“盟約”を結んだそうだな」
「承認は得た。貴族の印もある」
「徴税官と商人の印で、王都を出し抜けると思うな」
彼の声には苛立ちよりも焦りがあった。
アメリアの名を出せない――それが彼の弱点。
彼女の“婚約破棄”が芝居だと知っているのは、家の者だけだからだ。
「ディラン。俺はただ、この辺境を守りたいだけだ」
「ならば王都に戻れ。お前の知略はまだ必要だ」
「王都の戦場は血で塗れる。俺の戦場はパンで塗る」
短い沈黙。
彼は机上の“白花盟約”を見つめ、息を吐いた。
「……この紙、正式な通達として預かる。王都は内容を精査する」
「その代わり、一つ頼みがある」
「なんだ」
「アメリアを守れ。たとえ俺が敵になっても」
ディランの目がわずかに揺れた。
だが何も言わず、紙を持って出ていく。
扉が閉まる。
残された空気に、火が小さく爆ぜた。
◆
「ライル様……これで本当に、勝てるのですか」
ティナの問いに、俺は微笑んだ。
「勝つ? 違うさ。勝敗はとっくに終わっている」
「え?」
「王都が“白花祭”を後援すると宣言した時点で、もうこちらの勝ちだ。
あの名の下で何を流そうと、誰も咎められない」
白花の冠が夜風に揺れる。
蜜の香りが漂い、遠くで笛が鳴る。
その旋律は、まるで新しい国歌のようだった。
「盤上の花は、もう咲いた。次は――実を結ばせる番だ」
第3話・完。
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