第四話 恋する哲学
黒島さんからは、既にお礼がしたいという連絡をもらっているので、俺は黒島さんと予定を調整し、近日中に近くの喫茶店で待ち合わせの約束を取り付けた。メッセージでのやり取りでは、彼女はとても礼儀正しく丁寧な言葉使いでとても好感を持てる。それだけに、こちらとしてもやはり丁寧に接したくなるというものだ。
こうして実際に女性と会い、食事をするという機会に久々に恵まれたわけだが、ここでふと哲学的な問いが思い浮かんだ。それは、人はなぜ恋愛をするのか、だ。こればかりは古今東西の天才達も大いに頭を悩ませてきた問題だ。
天才も凡人も所詮は人。生まれた時代からして違う上に、生い立ちも育ちも全く違う人間の主義主張を一括りにすることはできないだろう。そうした学問的な総括は俺は好まない。というか、そんなことを考えるのは正直めんどくさい。
俺にもっと時間があったのなら、大いに悩み抜いて思考を巡らしてもよかったと思う。哲学は人生に必要だ。だが、なんせ今の俺には時間がない。この矮小で短絡な人生の最期に、せめてオスとして一花咲かせてたいという本能的かつゲスな欲求が俺を恋へと駆り立てたのだ。今はその狭い見識の中で自分の恋というものを考えたい。
なぜ、俺は女の子とイチャイチャした恋をしたいのか。まずはやはり本能的な動機があると思う。ド直球に言えば、助平な事がしたいからだ。そこに加えて、どうせ助平するなら、楽しく気持ちよくやりたい。これは肉体の欲求で、オスとしては生理現象みたいなものだ。
黒島さんにスケベする想像を膨らましてみる。彼女は、オスの助平したい欲求をぶつけられてどう思うのだろうか。というか、この時点で俺は黒島さんを助平の対象としてしか考えていなかったことに嫌気がさした。これではまるで黒島さんをモノのように扱ってしまっているではないか。
助平は相手あってのこと。であるならば、やはり俺は相手を尊重したい。世の中には尊重されず虐げられることに喜びを見出す方達もいるが、誰かに強制したり迷惑をかけていなければ、本来誰かに批評されることでもないだろう。それは個人の趣味嗜好の話であって、ということは、俺が相手を大事にしたいという話も俺個人の趣味嗜好なわけだ。この個人的なこだわりを叶えたいというのも、恋の要素の一つなのだろう。
俺にの恋にとって大事な要素を踏まえつつ、もう少し踏み込んで考える。それは、心についてだ。
俺は自身の少ない恋の思い出に想いを馳せる。以前、結婚を考え、実際にプロポーズをしようと指輪まで買った元カノを思い出す。おそらく人生で一番恋だの愛だのを味合わせてくれたのは彼女をおいて他にいない。
なぜ、俺は彼女を好きになったのだろうか。彼女のどこに惹かれ、恥も外聞もなく必死でデートに誘ったのだろうか。十数年も前の記憶は朧げで、毎日のように感じていたトキメキはもはや忘れ去ってしまった。
それでも、ぼんやりと思い出したことが一つあった。俺は彼女が幸せそうに笑顔を見せてくれるのが、とても嬉しいと感じていたことだ。
今の俺はどうだろうか。黒島さんが幸せそうに笑ってくれたら、またトキメキを思い出せるのだろうか。そして、彼女のことを好きになるのだろうか。好きという感情する思い出せない俺のなんと悲しいことよ。
だが、こうも思う。どれだけ考えてみたところで、いざ対面すれば花火のよう様々な感情が心の内に打ち上がり花開くだろう。余命一年生活の日々にあって世界が色褪せて見えていた今日この頃、黒島さんとの出会いが、絵の具を垂らした水のように色付いていく感覚があったのは間違いない。
彼女とは一度しか会ってないし、たいして会話も交わしていないが、たったそれだけのことで俺は自分の世界を取り戻せた気がする。今は、そんな彼女と楽しい時間を過ごしてみたいと素直に思った。
以上、俺の心象を綴り岩女に論じてみたが、「考えすぎ」の一言で一蹴されたことは、ここに付け加えておく。
△ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲ △ ▲
本日は四月の下旬だ。近所の桜はすっかり花を散らし、新芽が芽吹き始めようかというところだ。カレンダーを前に、黒のマジックペンを持つ。今日は黒島さんと会う約束をしている日だ。赤いマジックペンで丸をつけてある。その隣の昨日の日付にバッテンをつける。元々俺に過ぎ去った日々をカレンダーにバツ印を付けるような習慣はなかった。
余命宣告後、俺は一日の重みを噛み締めるためにカレンダーにこの習慣を取り入れた。岩女は、そんな俺の習慣をしげしげと後ろで観察している。
「なかなか不思議なことをやっているな。生きててプレッシャーにならないか?」
「俺の勝手だ。俺は俺なりに残りの人生と向き合ってるの。それに、女の子とイチャイチャすることだけ考えてダラダラと過ごしたくない。ていうか、お前最近俺の家に入り浸ってない?暇か?」
「縁を結んだ手前、恋が成就したか気になるから」
「暇なんだな。昨日だって、一日中ふわふわ俺の部屋で漂って、神様そんなんでいいのか?」
「昨日の映画、楽しかったわよ。というか、あんたも一日中映画見るとか、他にやることないの?」
「仕方ないだろ。今までワーカーホリックみたいなものだったんだ。急に暇になって何したらいいかわからないんだよ。それに、女の子と遊ぶにしたって、黒島さんにも都合がある。こっちの都合だけで彼女を連れ回すなんてできるわけないし」
「そりゃそうよ。向こうにだって生活あるんだから。でも一人の時間も楽しんでこそ豊かな人生。残りの命は好きに使いなさい。存分にね」
「はいはい、御宣託痛み入ります」
「よろしい。あなた、ちょっとこっち向きなさい」
「ん?これでいいか」
岩女は、俺の服のわずかなゴミを取り除き、服を整えた。
「自信もって行ってきなさい。あんたはいい男だよ」
「ありがとうママ」
「誰がママだ」
岩女はどこか気が気じゃないらしく、邪魔にならないように遠巻きに見守っていたいそうだ。これをママと揶揄したのが恥ずかしかったらしい。
俺は車を走らせ、約束の時間より若干早めに喫茶店へと向かい黒島さんを待つことにした。
「すいませ〜ん、お待たせしました」
小走りで走ってくる清楚な女性の姿がそこにはあった。前回の絵描きスタイルとはまた違って、春らしいパステルカラーのカーディガンを着て、長いスカートを履いてとても可愛らしい姿だった。
「今日はわざわざありがとうございます。時間作っていただいて」
「いえいえ、こちらこそ」
黒島さんと一緒に喫茶店の中に入る。このお店は黒島さんのリクエストで選んだ喫茶店だ。こじんまりとしているが、観葉植物や年季を感じるアンティーク調のインテリアがおしゃれなお店だった。なんでも、黒島さんが気になっていて一度入ってみたかったお店とのことだ。
「わ〜、やっぱり素敵なお店」
「すごい目が輝いてますね。こういう感じのお店が好きなんですか?」
「実は私、普段はあまり外食もしなければ、こうやってお茶を飲みに出かけることもないので、喫茶店に来ること自体がとても楽しみで」
「それはよかった。俺も喫茶店なんて久々に来ました。たまにくると、なんだかワクワクしますね」
「そうですね」
彼女はニコニコととても嬉しそうに笑顔を見せてくれている。その表情に、どこか胸の内側がじんわりと温かくなっているのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます