第32話 黒印の導師
夜の帳が、世界を呑み込んでいた。
都市カルド、そのさらに下――。
黒印教団の
空気はひと息吸うだけで魂を蝕むほど濃く、無数の黒蝋燭が壁一面に並び、まるで星々が逆さまに堕ちたかのように瞬いていた。
祭壇の中央には、一人の男が立っていた。
黒衣に銀の刺繍。
背筋はまっすぐ、髪は漆黒、瞳は底なしの暗闇。
導師――カルマ。
低く鈍い音とともに、巨大な扉が開いた。
黒装束の女――レイナがひざまずく。
「……報告いたします。都市ガルドにて“深淵教団”による襲撃が発生しました。信徒数百人規模。召喚術による被害は甚大です」
カルマは、何も答えなかった。
ただ瞼を閉じ、長い沈黙を落とした。
黒炎の灯が、ひとつ、またひとつと小さく揺れる。
やがて彼の唇が、ゆっくりと開いた。
「……深淵が、動いたか。」
その声音には怒りも憎しみもなく、ただ静かな“確信”だけがあった。
カルマは祭壇の階段を、ゆるやかに降りる。
足音が石壁に反響するたび、信徒たちが息を潜めた。
「――レイナ。一昨日、私は言ったはずだ」
「……はい」
「“手に入れろ。だが、まだ奪うな。闇は忍耐だ。”
私の言葉を、忘れた者がいると?」
「……いえ。カルマ様の御言葉は全
信徒に伝達済みでした」
カルマの瞳が開く。
その双眸には、夜空よりも深い冷たさが宿っていた。
「……愚かな。闇の理を踏みにじったか」
重い空気が流れる。
レイナでさえ、背筋を凍らせた。
導師の怒りとは、決して爆発ではない。
世界そのものが沈んでいくような――静かな終焉の音だ。
レイナは息を整え、続けた。
「深淵教団の教祖は――ゼルファ=ノア。黒印教団より分派し、カルマ様のご承認のもと設立された団体です」
カルマはわずかに目を細めた。
「……ああ、知っている。私が名を与えた」
声には情の欠片もない。
だがその言葉の奥には、かつての“信頼”の影が見えた。
「ゼルファ=ノアは、その言動や行動が常に意味不明で――」
レイナは、わずかに眉をひそめた。
「“バズるぞ〜”とか、“エッホエッホ、影がのびる〜”とか……“入れ違いグッジョブ!”とか……」
その場の空気が、一瞬だけ止まる。
カルマはゆっくりと片眉を上げた。
「……あの男の奇行か」
「はい、あの奇行です」
「だが――見かけによらず、頭は切れた。光の国にも、闇の均衡にも興味を持たぬ“中立者”のはずだった」
カルマは遠くを見つめた。
その表情は、まるで“弟子の成れの果て”を見る師のようだった。
「襲撃の際、彼らは都市ガルドに刻まれた召喚陣を使用。“暗黒魔獣アドナイル”を召喚した模様です。」
「……その魔法陣は、我が教団が非常時の証拠隠滅策として設置したものだ」
「……つまり、彼らはカルマ様の術式を“無断使用”したことに」
カルマの足が止まった。
「――“闇”を利用したな。」
その瞬間、周囲の黒炎が爆ぜた。
壁が震え、彫像がひび割れる。
「闇は、己を律する者のためにある。
それを力と勘違いした者は――ただの“闇の奴隷”だ」
その声は低く、だが神殿全体を震わせた。
カルマは杖を掲げる。
空中に浮かぶ黒い球体――“監視の闇”が現れる。
その中には、都市ガルドの映像が浮かび上がる。
崩れた街。燃え上がる塔。
そして、光の剣を掲げ立つ少女――ミリア。
「……彼らの光が、闇を焼いた。見事だ」
カルマの口元が、わずかにほころぶ。
その表情は、どこか懐かしげですらあった。
「レイナ。もしミリア・ヴァレンと戦ったら、勝てそうか?」
「冒険者ランクS相当。勝算は五分といったところです」
「……では、私なら?」
「元勇者である導師カルマ様なら、確実に勝利されるでしょう」
カルマは静かに笑った。
それは、怒りを隠すための――“器の笑み”。
「レイナ。私が戦場に立つ日が再び来たら……世界は、終わるだろうな」
「……そのような日が、来ぬことを祈ります」
「導師。聖堂騎士団が都市ガルド調査の動きを見せています。この神殿も、発見される恐れが」
カルマはゆっくりと振り返る。
その瞳には、穏やかな笑みが宿っていた。
「……構わん」
「……え?」
「タダで明け渡すのは癪だがな。――我が影を、残していく」
杖が打ち鳴らされる。
地面が黒く染まり、無数の魔法陣が走る。
黒い霧が渦を巻き、天井から滴るように形を成していく。
やがて――カルマに瓜二つの“影”が立ち上がった。
「“影身”――我が意志の残滓を、この地に置く」
影は静かに目を開けた。
その瞳は、まるで別のカルマが存在しているかのようだった。
「ゼルファ=ノア……お前の創った“深淵”は、今日をもって敵だ」
影のカルマが祭壇に手を触れると、黒い波が広がり、壁の文様がすべて闇に染まる。
古代文字が赤く輝き、呪文が刻まれていく。
カルマは背を向ける。
黒聖殿の扉が、ゆっくりと閉まり始めた。
「支えたのは慈悲、見限るのも慈悲。
闇とは、光を守るための影だ」
レイナは黙って跪き、拳を胸に当てた。
「導師……深淵を、どうなさるおつもりで?」
「滅ぼす」
「……!」
「だが、恨むな。あれもまた、私が残した“理の欠片”だ」
カルマの影が一歩前に出る。
祭壇の黒炎が一斉に燃え上がる。
神殿の柱が崩れ、天井から黒い光が流れ落ちた。
カルマはそのまま扉の向こうへ歩き出す。
黒衣の裾が風を切り、わずかな金の装飾が光を反射した。
「……闇は、器の深さで輝きを映す」
その声とともに、神殿が沈黙した。
黒い影がすべてを飲み込み、ただ冷たい夜風だけが吹き抜ける。
レイナは目を閉じた。
――その胸に残るのは、畏怖と、誇りと、そして小さな哀しみ。
「ゼルファ=ノア……あなたが導師の慈悲を捨てた。
なら、今度は私が、裁きを与えましょう」
黒聖殿の灯がすべて消える。
月光すら届かぬ闇の中で――カルマの残した“影”が微かに笑った。
次の更新予定
2026年1月29日 16:00 隔週 木曜日 16:00
脇役な主人公補正者 〜偶然が俺を英雄にする世界 源 玄武(みなもとのげんぶ) @123258
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