第7話 手と手

 その日から早く帰る様になったアレクシスは、透真を呼びつけるようになった。


 透真は検査時間以外は自由に過ごせるため、日中はゲームや読書、軽い運動くらいしかすることがない。特に不満はなく、むしろ共に過ごす時間が増えたことで、アレクシスという存在を少しずつ信用できるようになっていた。


 まだ少し緊張はするものの、共に過ごす時間が増えてきた事によりアレクシスという存在を信頼する感情が芽生え始め、不当な被害を与えられる事はないのだと心が慣れてきていた。言い方は悪いが、みすぼらしい痩せ犬の世話を焼いていたら思いのほか愛着が沸いてきてしまった、といった感覚なんだろうか。と何となく思っている。


 ルーカスに扉を開けてもらい、中に入るとソファーに座るよう促される。言われるままに腰を降ろすと、奥から小さな包みをもったアレクシスが戻ってきた。

 隣に座り、透真の手に包みを差し出す。

 透真は思わず、包みとアレクシスの顔を交互にみた。


「ハンドクリームだ。開けてみたまえ」

「ハンドクリーム、ですか?」


 何故? と不思議に思いながら袋から取り出す。

 花の絵柄と共に、以前連れて行かれたリラクゼーション施設のロゴが入っているのを目にしてヒェッと内心悲鳴を上げた。

 そんな透真の様子に口の端で笑うと、おもむろに右手を掴まれた。


「え、あの」

「じっとしていたまえ」


 静かに口を閉ざす透真の様子に視線を送ると、花の香りのするクリームが薄く伸ばされる。

 軽くマッサージするように全体を揉みこまれ、指先を一本づつ挟み込むように撫で擦られて心地よさに目を細めた。


「手には全身のツボが集約していると聞く。いくつか教えるので憶えておくといい」

「そうなんですね、気持ちいいです」

「――ほう?」


 深まる笑みと共に手の甲の親指と人差し指の付け根を押し込まれる。じんわりと広がる痛みに「ぅあっ」と声をあげる。


「ここが万能と呼ばれるツボの一つだ」

「す、こし痛いです…」

「ああ、心地よい痛みがあるところがツボの目印だからな。下のフロアで味わったような痛みとは違うだろう?」


 更に強く押したりしないよな、と思いながらコクコクと頷く。

 怯えながらも素直に身を任せている姿は、アレクシスを満足させるものだったようだ。愉快そうに笑みを浮かべと手を開放した。


「左手は自分でやってみるといい」


 そういって手渡されたハンドクリームを受け取って、先ほどアレクシスにされたように手に馴染ませていく。

 同じようにマッサージをしながらクリームを伸ばしているのに、自分でしてもさっきのような心地よさは感じられなかった。教えられたツボをゆっくりと押してみる。多分、ここだと思うんだけどな……と何度か首を傾げながら手の甲を押していると、ふとアレクシスの片腕が当たり前のように透真の背後に回されているのに気が付いた。


――ひぇ、近っ!


 一度その存在に気づいてしまうと、相手にとっては対して意味の無い仕草であっても、何となく意識してしまってソファーに凭れることが出来ない。


 マッサージに集中するていを装って、前かがみになりながら軽く手の甲を揉んでいると、横から伸びてきた手に「ここだ」と指摘されて慌ててそこを強く押した。


 近い、近いです。

 どうして背中の手をそのままに話しかけてくるんですか。

 パーソナルスペースをもっと広く保ってください。


 次第に早まる動悸を抑えながら一心不乱に手をマッサージする。

 今できる事がそれしかないからだ。


 そんな透真の姿に、小さく笑みを漏らすとアレクシスは自分の右手を差し出した。


「テストだ。私が君にしたようにマッサージしてみたまえ。クリームは同じもので構わない」


 顔を覗き込むように囁かれて、思わず弾かれるように背筋を伸ばした。


「これで合格できなければ、またリラクゼーションフルコースを体験してもらわねばならないな」


 ぽつりと落とされる脅されるような言葉に心の中で悲鳴をあげながら、ハンドクリームを取り出してアレクシスの右手に伸ばしていく。

 指が長い……イケメン御曹司は手の造詣まで違うのか。と格差社会を感じながら、おぼつかない手つきでマッサージを行っていく。指の付け根から指先にかけて揉みこんでいると「指先を重点的に頼む」と横から囁かれた。


 言われたとおり丁寧に指の先端のツボを押していく。見よう見まねのマッサージなので不快ではないだろうか、と顔色を伺うが大丈夫そうだ。

 全ての指を終えて最後に、教えられた万能のツボを押す。


 どうだ!? と達成感を感じながらアレクシスの顔を見やると、口元で微笑み、静かに評価された。


「まぁ、合格ラインだな」


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