ベレー
ナカメグミ
ベレー
確かに目立つよなあ。
私は感嘆しました。彼女が通ると、空気が変わる。私は密かに「女王」と、心の中で名づけていました。身長165センチほど。腰高。出るところは出て、引っ込むところは引っこんでいる、日本人離れした体型。流行の茶色いショートカットは、色白の小顔を際立たせます。
そりゃあ、見るよ。
編集局が入っているフロア。彼女は、私より3歳年上の整理部(記事に見出しをつけたり、レイアウトをする部署)記者です。そのファッションセンスも、スタイルの良さを際立たせます。夏はノースリーブにロングスカート。普段は硬派の男性記者も、彼女が通ると、目の端でさり気なく意識しているのがわかります。動物だから、当然です。魅力ある異性に惹かれるのは、男女ともに動物の習性です。
彼女がそのための努力をしていることも、自然と耳に入ってきました。週に1度は、スポーツクラブに泳ぎに行くそうです。いつもツヤツヤの肌は、値段の高いラインナップで知られる高級品だそうです。
さすが、本社の人は違うな。
数カ月前に、地方から本社に転勤してきた私は、素直に思います。
そして1%の本音を、最後につぶやきます。
内勤って、いいな。
新聞記者として採用されても、外勤と内勤では、勤務の仕方は大きく違います。
外勤記者は基本的に、外で取材をして、原稿を出す側。内勤記者は、その出稿された記事をレイアウトしたり、見出しをつけたり、誤字や脱字をチェックする側です。それぞれに苦労があります。
外勤記者の勤務時間は、ニュースの発生状況と、その担当部門に大きく左右されます。忙しいときは眠れないし、出張も突然だけど、ひまな時はひま、な時もある(今はワークライフバランスに配慮されているはずです)。
内勤記者は、原稿の出稿が締め切り間近だと、短時間で見出し、レイアウト、紙面チェックをしなければならないストレスがあります。朝刊担当だと、当然、帰りは深夜。無事に印刷に渡すまで、余裕で日付けが変わります。
ただ、彼らには、明確な勤務ダイヤがあります。予定が立ちます。若手の外勤記者は、美容室でカットの前のシャンプーをしていても、呼び出されたら、すぐに行かなければなりません(当時はポケットベルでの呼び出しでした)。でも望んで就いた仕事です。記事が紙面になったときの喜びは格別でした。
ある休日の夜。一人暮らしの家の電話が鳴りました。
「まだ、来ないの?」。所属する部署の、男性先輩記者からでした。
「なんでしたっけ」
「今日、〇〇会って、言っただろ」。すっかり、忘れていました。〇〇は地名です。同じエリアに住む会社の社員で飲む会に、誘われていました。
「今すぐ、行きます」。
とりあえず、ある服を来て、店に走って行きました。
洋風の居酒屋に10人ほど。既に盛り上がっていました。地方から転勤してきた私は、たまたまそのエリアに住んだのですが、同じ社員として親睦を深めることは大切です。
「女王」も、いました。かなり酔っている様子です。色白の頬が、ほんのりと赤い。親睦会です。代わる代わる席を移動して、あちらこちらでグループができます。
「席、かわって」。先輩に言われて、移ろうとした先は、「女王」の真正面でした。正直、気後れしました。「女王」は言いました。
「◯村さん。そのセーター、素敵だね」。
明らかに、善意の褒め言葉ではないことは、わかりました。とりあえず急いで着た服が、それでした。でも私にとっては、大事な1枚でした。言葉は返せませんでした。でも、にらむことは、かろうじてできました。「女王」は目をそらして、それ以上は何も言いませんでした。
私、あんたに、なにかしたっけ。
初任地は、寒い場所でした。広い取材エリアでした。珍しい生き物が、2つありました。
ある日、緑色の球体の取材をすることになりました。現地に行き、観光船に乗って、それの展示観察センターを取材しました。特に大きなものは、バレーボールほどの大きさがありました。
マリモ。
入社してから、一番の遠出の取材でした。観光船で帰ってきた船着き場のまわりには、観光客向けの店が並んでいました。私は取材の記念に、15センチほどのプラスチックケースに水とともに入った、小さなマリモを買いました。
観光客の少ない季節。店の中年女性は、取材で来たことを告げると、やさしく現地の様子を教えてくれました。心細かった私は、うれしかった。もう1つ、これからの現地の寒さに備えて、買いました。マリモのように毛羽立った、緑色のセーター。透明なビニール袋に入ったそれは、おしゃれではないかもしれないけれど、とてもあたたかそうでした。
今日は「女王」の朝刊担当日。私も社会部の夜勤でした。夜勤者は、夜勤デスク(原稿のチェック役)の傍らで補助をして、整理部と同じころに上がります。
「女王」の整理部も、仕事が終わったようです。
「おつかれさまです」。
「女王」が言って席を立ち、廊下に出て、エレベーターのボタンを押しました。
そのうしろに立ちました。
今だ。その茶色いショートカットの頭を、思い切り、それで殴りました。
カメラを固定する三脚。
初任地は、頭に赤いベレーをかぶったように見える生き物でも有名でした。
タンチョウヅル。
それが生きる場所は、大自然の中。湿原。冬の早朝は、ゆうに氷点下です。それでも熱心なファンは、白い息を吐き、望遠レンズをつけたカメラを三脚で固定して、赤、白、黒の美しい姿を、写真におさめに訪れます。
私も行きました。耳あてのついた防寒用の帽子をかぶっても、耳たぶが凍傷になる、凍てつく寒さでした。
おまえ、ノースリーブで、タンチョウヅルの写真、撮って来いや
ま、ノースリーブだと、あっという間に、死ぬけどな
心の中で叫びながら、何度も三脚を振り下ろしました。彼女の頭頂部は、たちまち赤く、染まっていきました。ベレーのようです。タンチョウヅルの頭の赤い部分は、羽毛が生えていない皮膚が露出していて、そこから血の色が透けて見えています。今の「女王」と似ています。ツルの美しさには、遠く及ばないけれど。
私は子供のころ、留守番をしながら楽しみに見ていたドラマを思い出しました。
体重80キロの俳優が、タンチョウヅルの写真を撮りに、冬のかの地で白い息を吐くカメラマン役をやっていました。
懐かしいな。
(了)
80キロの俳優さんは、もうこの世にいません。セリフを覚えたり、寒さに耐えたり、いろいろなことから解き放たれたのだろうなと、今の私は思います。
ベレー ナカメグミ @megu1113
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