あやかし綺譚録

46(shiro)

第1話 鬼 女

      闇に満ちるは桜の如く

      心現に雅ざむ

      積むる花弁に降り立てば

      衣なびかせ夢を見ゆ

      闇に満ちるは……桜の如く……



 彰朱しょうじゅは別段急ぐことももなく、堀近くをゆっくりと歩んでいた。

 立ち並ぶ桜の若葉の中にある、ほのかな彩りは春の名残りのような小花。前髪の先を震わせるほどの微風にもその薄桃色の花びらを揺らし、かといえば小さな雪のようにひらひらと降り散る。


 そんな折、ひとつの小さな花弁が彰朱の肩にその身を横たえた。手をやり、打ち払うかに思われたが、手のひらへと乗せる。そうしてしばしの間、その小さな白い花弁に見入っていると、それは突然の風にさらわれて、夜のとばりの向こうへと消え入った。


 その闇より現れるは1人の女。


 長い髪は闇に溶け、前のはだけた着物はほのかに明るい。かんざしはなく、履物の擦る音のみが妙に響いていた。

 よくよく見れば、女の着物は赤くあけに塗れていた。赤の染料を浴びたように頭部から流れ落ちており、ぽつんぽつんと地面に染みをつけている。白蝋のごとき面にうっすらと浮かんだ笑み。赤く濡れた唇の奥では、跳ねるような声がしている。


 それは、笑いのような、悲鳴のような……。


 ときおり高く上がるのは、だれかを嘲笑するような呪咀だろう。頬を伝い、こぼれ落ちるままの涙に彰朱は息を呑む。

 その、あるかなきかの小さな声に気付いた様子で、女は彰朱へと向き直った。


 さあ……と流れる風。散る桜。

 そして額には白く光る2つのつの。


(鬼か……)


 夜道で人ならぬものに遭遇しながら、さりとてあわてることもなく、彰朱の胸にはそんな言葉が淡く浮かんで消えた。

 軽い、失望めいた念が風のように胸をすり抜けていく。


 ざああぁとひとしきり強い風が吹いて、木々が最後に残った花弁を散らしたならば、2人を縫い止めていた『時』が再び流れ始める。

 女は酒に酔っているかのようにおぼつかない足取りでふらりふらりと彰朱に近づき――けれど触れはしなかった。


「……そなた、知っておるか?」

「何を?」

「京の都、堀の側、桜のもとに現るる鬼女を」


 薄い朱唇が横へ引かれる。紅の赤ではない、血塗られているかのような赤い唇の先から、ちろりと舌先がのぞいた。上にらみの目は彰朱のほうを向いてはいたが、その虚ろな瞳は何も映してはいない。あたかも自分以外の者がその場にいることを拒否しているかのような、漠然とした存在の否定だった。


 彰朱はうすうすとそのことを感じてか、じっとその姿を見つめる。

 そして答えた。


「いや。この都に来たのは今日が初めてだ」

「ほうかえ。それでそうしていられるというわけか」


 袖で隠した口元で、くすりと女が笑う。

 袖から現れた白い細腕に、ぱっくりと傷が開いていた。月に白く浮き上がった骨まで見える深い傷ながらも、傷口から血は流れていない。

 ただ、血にまみれた手が目に入って。女は、すりつけようとするかのように彰朱の頬へと手の甲をあてたが、血は女の皮膚に染みこんでいるかのように離れず、手はだらりと下へ落ちた。


「そなた、鬼女と逢うて、なにゆえそのように穏やかでおれるのだ? われはうぬを喰らうやもしれぬ鬼ぞ」 

「……逃げたほうが良かったか?」


 彰朱は一考するような仕草をして、女の都合を尋ねる。

 女はさらにくすくすと笑いをつなげた。


「そうか、逃げぬか。一体うぬの心はどのような作りか。

 到底人ではあるまい。からくりか、それともどこその傀儡であるか」


 くつり。女の喉が鳴る。


「なぜ、泣く」


 彰朱の手が女の涙を拭き取り、その乱れた髪に指を落として梳いた。梳き終える前に女の手が彰朱の手を取って、また一歩、2人の距離が縮まる。


「つくづくおかしな者よの。鬼の身となりしわれと出逢いながら背を向けて逃げもせず、われを哀れもうとするとは」

「そう見えるか? ふむ。

 俺は、どうもそういった役回りをするために生まれたらしくてな。こういったことには少しばかり慣れているのだよ。

 それで、おまえはどのような傷を負ったのだ? 俺に見せてみるといい」


 伸ばされた手が女の頭部のつのに触れようとしたとき。

 女はつい、とその手から逃れるように後ろへ退いた。


「これは愛しい情人ひとの血。他の者には触れさせぬ」


 ほ、ほ、ほ、と女の唇から紡ぎ出される笑み。背を曲げ、腰を折り。その姿はまるで老婆のようでもあった。

 女の肩を埋め尽くす乱れ髪は先端まで小刻みに震え、女の姿を小さく見せる。


 女はひととおり笑い終えたあと、初めてその黒瞳に彰朱の姿を映し出した。


「……だが。そう、傷やも知れぬな。わが身はすでに人にあらず、血の1滴も残ってはおらぬ。このつのと引き換えに。とすれば、つのは傷やも知れぬ」

「話してみないか? 俺はおまえの心を癒すために、この刻、この場へ導かれたのだろうから」


 彰朱の言葉に女は身を震わせ、とまどう。

 優しさとは、痛みだ。

 常に苦しみを伴う。


 それでもと今一度振り仰ぎ、女は彰朱の目に触れた。


「ああ、そうだ。思いだした。あのひともそんな目をしていた……ときおり、何かの拍子に、緑に染まる……」

「鬼に魅せられた目だ」


 苦笑しつつ答える。

 女はクッと喉で笑うと身を引いた。


「面白いことを言う。が、われではあるまい。われと言うには余りにうぬの心は深い」

「なぜ、鬼となった?」


 何の思いやりも無く耳元に響いたこの問いに、女は目を見開き、口元から牙をちらつかせ、全身から絞りだすようにして叫んだ。


「恋しい男を裏切ったからよ!」




「われの愛しいあの男は、われを戯女たわれめと知りながら、愛してくれた。夜毎に男を変え、体を与え、心を刻むわれは哀れだと泣いてくれた」

「その男を殺したか」

「わが心を裏切ったがゆえに。あの男はわれの心を殺し、われはあの男の肉体を殺した」

「だがそれのみでひとは鬼にはならない」


 彰朱がはっきりと言い切る。そしてたもとから取り出した布を開いて、包んでいた中身を女へと見せた。


「俺の心を奪った鬼のつのだ。俺は俺の心を知っている。

 だからこそ知りたい。一体なにゆえに女は鬼となるのか」

うたは、鬼女の始まりは狂女からと言うぞ。女は恋の炎に身も心も捧げ、狂うがために狂女となり、鬼女になり得るのだと」

「ならない、のであり、なれない、のではないということか。

 では、何がそのようにその身を変えるのだ」


 彰朱はつい、苛立ったかのように女の肩に爪を立てた。女の顔に一瞬だけ痛みが走り、消える。


「ああ、すまん」

「なに、これしき。子猫が爪を立てたようなものよ」


 は、は、と女は笑い、堀に向かってふらりと歩く。


「それで? その鬼はどうした?」

「わからん。こうして捜してはいるのだが」


 彰朱はため息をつくと、布をたたみ、大切そうに再びしまいこむ。

 その仕草に、女は嫉妬のように顔を歪ませた。

 彰朱が顔を上げる前に、ふいと顔をそらす。


「その女がうらやましい。あのひとも、うぬのようであったならば、われは……」


 女がつぶやき、顔に出ているかもしれない感情を知られまいと、袖で顔をおおう。

 それでいて、今にも泣きそうな声だけが届いた。


「おお、あの者はわれを好いてくれた。添い遂げようと言うてくれた。だがわれは戯女じゃ。あの者には到底釣り合わぬ。われとおればあの者は悪戯に嗤われるのみ」

「身を引いたのか?」


 うなだれた女の震える肩から、一房黒髪が流れ落ちた。

 手を差し伸べかけ、はっとしてやめる。


「……わかっておった。あのように傷つけたわれを生涯想うてくれるわけもない。われとて毎夜毎夜男を変え、その心を惑わしてきた。だが許せなかった!」

 突如として振り仰いだ女の顔が鬼となる。つのが伸び、娩曲した指は節くれ立ち、口が耳近くまで裂けたような気がした。


 全て、錯覚。


「われを想えとは言わぬ! が、なぜにわれを忘れられる? 恋しい女のためか? 恋しい我が子のためか?

 なぜ、われなどいなかったように、笑って、通りを歩けるのじゃ! われがいないように振る舞い、われの前で、女と子に笑いかけられる!?

 そんなふうにわれをさいなむことができるのならば、なぜわれを愛しい女と呼んだ?

 われは変わらぬ! 変われぬというのに!

 ああ、あの女。……ええい、くやしや。本当ならば、あのひとに添えているのは、あのひとにあやされているあの吾子は、われのものであったのに!」

「それを選んだのは、おまえではないか」


 彰朱は言い、わが身を抱きしめ、わななく女の後ろから、そっと女のつのに触れた。

 女の目が、つのと髪を撫でる彰朱の手を感じて心地良さそうに閉じられる。


「……わが身に触れてくれたのは、うぬだけじゃ。あのひとは驚き、おびえて後ずさり、われを見ることも拒んだ」

「鬼になりながらも人の心を持つ辛さ、分かる気はする」

「人の、心……?」


 女が振り返って彰朱を見上げる。


「このようなわれを、まだ人と説くか、うぬは。

 おお! 確かにわれは人であった。が、それも今日限りよ!

 先の刻、われが何をしてきたか、うぬも想像がつくであろう。われはあの憎き女を引き裂き、吾子を抱いて、あの男と添い遂げようとしたのじゃ!」


 まるで血を吐くような叫びに気圧され、彰朱の手が止まる。

 女はするりと彰朱の手を抜け、背を深く曲げて己の血塗みれの両手を前に突き出して、彰朱に近寄るなと示した。


「われを見るな。そのような目で見たとて、われは後悔などしておらぬ!

 ああ、ああ! そのような目でわれを見てくれるな! あの人と同じその目で!

 なぜに、われを拒んだ? われを恐れた? おびえた目をして……。

 愛しいと呼んでくれたではないか。幾夜も肌を重ね、われらしか知らぬぬくもりを分かち合った仲ではないか! なのになぜ……!

 われを好いておると説いたのは真ではなかったというのか。われを……ただ、うぬと添いたかった一心のわれを前に、それでも言うのか?

 われを鬼と! われを鬼女と! われを狂女と!」


 女は完全に常軌を逸しているように叫び続けた。

 彰朱とだれかを取り違え、混同しているように胸にすがる手が、肌に爪を食い込ませる。

 涙を流すわけでなく、赤く染まった目は見開かれてまばたきもせず、その体は熱く燃えている蝋燭の炎のようだった。


「わが手の中で、幼き吾子の命も消えていった。

 そうとも! われは鬼女よ! ひとたび男の腕に飛び込めば、その胸を貫くつのを持つ。

 ……おお、どうすればよい? われをおとしめたうぬを許せぬ! が、あの女の元へやるのは嫌じゃ! うぬはわれのみのもの! あの女の元へなど……嫌じゃ!」


 そう言って首を振り続ける女の両手を取り、なだめの言葉を口にする。


(それでもこの女は殺したのだ。男を。恋焦がれ、その妻子を殺しても手に入れたかった男を、つので刺した)


 そんなことを、頭のどこかで考えながら。


「そのつのは傷なのだな。おまえの心の。それある限りおまえの心は安らげないというのであれば、俺が引き受けよう」


 手の中、もがく女の体を抱き締めて、やっと抑え込んだその耳元に囁く。

 そうして大人しくなった女のつのに手をやると、その根元からつのがころりと手のひらへ落ちた。


「……つのが……われの、つの……」


 額をまさぐるが、何もない。

 そんな女の前に手を出して、彰朱はつのを見せた。


「傷は痛みしか生まない。

 行くがいい。傷は取った。傷口をふさぐのは己だ」


 彰朱が淡々と告げる。

 女は、手のひらの上に転がるつのを信じがたいという目で凝視していたが、やがて彰朱へと視線を移した。


「うぬ、名は?」

「彰朱。覚えておくといい。鬼に魅せられた者の名だ」

「ショウ、ジュ。……ショウジュ!」


 女の腕が彰朱の背を掻き抱き、身を擦り寄せ、つののない柔らかな額をその胸に押しつけた。


 ほんの少しの間の抱擁。


 彰朱は引き剥がそうとせず、むしろその肩に手を回そうとしたときだ。

 彰朱の表情が凍った。

 人のものとは思えない、節くれ立った指の先にある湾曲して伸びた爪が、その背に中ほどまで食い込んでいる。


 赤いものが伝って、足下へと落ちた。


 痛みに硬直したままの彰朱の胸の中、女がすべてを知っているかのようにほくそ笑み、腕の中からその身を抜く。

 途端、彰朱は胸元をわしづかんで膝を砕き、その場にひざまずいた。


 女はそんな彰朱を足下に見て、あざ笑うかのように背を弓なりにして口元を歪ませると声高々に罵りの言葉を浴びせかけた。


「われは鬼よ。それ以外何となる? われからその存在さえも奪うつもりか、うぬは!

 われは鬼女! われは狂女! それ以外になりようのない身ぞ!」


 気力を振り絞って顔を上げた彰朱の目に、月光を弾くつのが映る。直後、目が回った。彰朱は気が遠くなるのを感じて横倒しになる。


「われは戯女! われは狂女!

 ああ、愛しいひと! その身を貫くつのを持つ!

 われは鬼女じゃ!」


 どこか、勝ち誇ったように女は笑い続け、踵を返すとそのまま闇の中を駆けて行き、女の姿は消えた。

 闇の中から繰り返し口ずさむ言葉が聞こえるのみ。

 しかしそれすらもやがては遠ざかって消える。


 依然、彰朱は桜の木の下に倒れ伏したままである。女に貫かれた胸から流れ出た血は周囲を赤く染め、地にこぼれた花びらが血を吸って、その身を真紅に彩っていた。


 一指たりと動かぬその上にも振り積もる、桜の花片。

 まるで風がおおい隠すかのように舞い上げた大量の桜の花片をその体に降り積もらせたころ。やっと彰朱は起き上がった。

 胸元をつかんだままの手を放せば、強さのあまりシワだらけとなった服以外何もない。女のつのの貫いた跡さえもが、なかった。


 見れば、地にあれほど流れた血も、自らの血で赤く染まったはずの桜の花びらさえもない。


 では、あれはすべて幻だったのだろうか?

 着物を着て長くおろした髪を夜風に散らしていた女も、彼女が口にした話、流した涙さえも、すべてが夜、最後のかんばせとばかりにその身を散らす桜の見せた――そしてそれに感応した彰朱が見た、夢……?


 だが、そうと決めつけるには、あまりにも早計過ぎるようだ。

 よろめき、木の幹に背をついた彰朱の手の中、つのが2つ、あったのだから。






『鬼女 了』

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