好きな人、いるよ

はな

好きな人、いるよ

「ねぇ、私が蓮くんの事を好きって言ったら、陽介はどう思う?」


放課後の、雨音がこもる図書室。

テニス部の練習が雨で中止になった美咲は、図書委員の陽介に付き合って貸出本の整理をしながら、不意に言った。


思った事を心に止めておけない美咲らしい、あっけらかんとした物言いだ。


「……それ、どういう話の流れ?」


眼鏡の奥の目を少しだけ細め、普段とほとんど温度の変わらない声で陽介が応える。


美咲は揃えていた文庫本を置き去りにし、「何よ、幼なじみの初恋よ?もう少し興味持ってくれたっていいじゃない」と陽介の方に身を乗り出した。


──真っ直ぐな髪がさらっと肩からこぼれ落ち、ジャスミンの甘い香りがふわっと広がる。


「どうして蓮なんだよ。あいつはいいやつだけど、思い立ったら動く美咲とは合わないだろ。蓮のやつ、お前に振り回されそうだ」


美咲の放り出した文庫本を並べ直しながら、陽介は窓の外に目を向ける。

午後から降り出した雨は、段々と本降りになり止みそうにない。


「そんなことしないもん。ちゃんと蓮くんに似合う彼女になる」


豊かな表情を浮かべる美咲が、すまして唇の端を小さく上げてみせる。

その瞬間、美咲は見慣れた陽介ですらハッとするほど整った顔立ちになる。


もっともその表情は長くは続かない。

すました自分が可笑しいと、大きく口を開けて笑い出した。


「蓮くんって彼女いないよね?好きな子は居るのかな?ね、陽介、聞いてみてよ蓮くんに」


たった今陽介が揃えた文庫本を一冊抜き取り、美咲が首を傾げて陽介を見上げる。


「……なんで俺が。面倒くさい」

「なによー。貸出本の整理、手伝ってあげたでしょ」

「手伝ってるっていうか、散らかしてるだろ」


美咲が手にした文庫本を指さし、陽介はため息を落とす。


「これを読んでたの、蓮くん。片手で文庫本を持って、教室で」


恋をしている顔で、美咲が文庫本にそっと触れる。


「私、あー、男の子の手だ、って。この本がとても良いものに思えたの。そしたら蓮くんに恋しちゃってた」


愛おしいもののように文庫本を見る美咲に、ほとんど表情を変えない陽介が、わずかに痛そうな顔をした。


「……聞くだけだからな。好きなやつが居るのか、蓮に」


──図書館の外で、雨の音が少し強くなった。



---


昇降口の床は、濡れた靴の跡でところどころが暗く光っていた。

湿った空気と、ロッカーに並ぶ革靴の匂い。

窓の外では、夕方の雨が校庭を覆っている。

さっきまで遠くで響いていた吹奏楽部の音も、もう聞こえない。


陽介と美咲が階段を下りてくる。

手すりを叩く雨音と、二人分の足音が重なる。

美咲のテニスバッグが肩で小さく揺れる。

部活が中止になったのに、結局こんな時間まで残ってしまった。


「……けっこう降ってるね」


美咲がガラス越しに外を見る。

白い傘がいくつか、もう遠くでにじんでいた。


そのとき、上から柔らかい声がした。


「あれ、陽介と美咲さん、今帰りなの? 部活、雨で中止だったでしょ?」


吹奏楽部を終えた蓮が、トランペットケースを片手に階段を下りてくる。


「蓮くん!」


美咲の声がぱっと明るくなる。

「そうなの、雨で中止。それで図書委員の陽介のお手伝いしてたら、結局こんな時間になっちゃった」


「……手伝いだったか?」


陽介が、ロッカーの鍵をいじりながらぼそりとつぶやく。


「何よ。ちゃんと役に立ってたでしょ」

「ふふ。相変わらず仲がいいね、ふたり」


蓮が穏やかに笑う。


「そんなんじゃない、陽介なんていつも皮肉ばっかり」

美咲が少し頬を膨らませると、陽介は「……」と肩をすくめた。


「蓮、お前、傘持ってないのか」

「あー、うん。まさか降るなんて思ってなかったから」

「美咲は?」


カバンの中を探って、美咲が折りたたみ傘を取り出す。

「私はほら、持ってきてるよ」


いつも入れっぱなしにしてるの、と笑う。


「そしたらそれ、蓮に貸してやれよ。美咲は俺の傘で一緒に帰れば平気だろ」

「悪いよ、雨結構降ってる。陽介の傘にふたりじゃ、美咲さんが濡れちゃうよ」


はっと思いついたように、美咲の顔が明るくなる。


「じゃあこうしよう! 陽介が蓮くんを傘に入れてあげて、家まで送ってあげて」


その声の裏で、ほんの一瞬、陽介を見上げて小声で言う。


「あのこと、聞いてよね」


返事をする前に、パンッと傘を開く音が響いた。


「じゃあね、蓮くん、また明日!」


弾むように外へ出ていく美咲。

雨の粒が傘を叩き、光がきらきらと反射する。

スカートの裾がふわりと揺れて、昇降口の照明の下を抜けるとき、わずかな残り香だけをそこに残して。


陽介は無言でその背中を見送り、蓮は少しのあいだ、その横顔を見つめていた。


──外の雨は、まだ止みそうになかった。



---


昇降口を出ると、雨はさらに強くなっていた。

傘の内側に細かい粒が跳ねる。

歩道の水たまりには街灯が映り、靴で踏むたびに光が揺れた。


「濡れるだろ、もう少しこっち寄れ」


陽介が蓮の方に傘を傾ける。

蓮の肩が陽介に触れる。

すぐに離れようとするけれど、傘の下では逃げ場がなくて、二人の影が一つになった。


トランペットケースが濡れないように、蓮の方に傘を寄せる陽介の気づかい。

蓮はそんな小さな気づかいでも、たまらなく嬉しくなってしまう。


──それを陽介に見透かされたら、困るくせに。


沈黙が長く続く。

雨の音が会話のかわりに流れていく。

車のライトが一瞬二人を照らして、また暗がりに戻る。


「……お前、好きな子いる?」


突然、陽介が口を開いた。

いつもより少し早口だった。


「……え?」

「いや、ちょっと女子に聞いてくれって頼まれたんだ」


たったその一言で、蓮はすべてを理解してしまう。

陽介の言う女子が誰の事かなんて、聞かなくても分かった。

陽介にそんな面倒ごとを引き受けさせることができる、たった一人の女子。


──美咲に好かれている自分。

美咲を好きな陽介。

そしてこんなに近くに居ても、陽介に好きだと告げられない自分。


胸の奥がひどく静かになる。

悲しい、というより、ただ現実に戻っただけの感覚。

心は震えるのに、それでも声は穏やかに出せた。


「好きな人……いるよ」


陽介が一瞬だけこちらを見る。

街灯の光が眼鏡に反射して、その表情は読めない。


「……そうか」


また沈黙。

傘を叩く雨音が、すこしだけ強くなった。


蓮はその音を聞きながら、家までの道がずっと続けばいいのにと思った。


──ただ黙ってそばに居る。

それがこんなにも苦しくて、甘いのに。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

好きな人、いるよ はな @Hana_no_kuroneko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画