第5話 贖罪の王太子

 灰色の空が、北方の大地を覆っていた。

 かつて黄金に輝いていた王太子レオンハルトの姿は、いまや旅人のそれに変わっていた。

 剣を腰に下げ、煤けた外套を羽織り、泥にまみれた長靴で凍える街道を歩く。


 かつて彼の行く先には拍手と歓声があった。

 いま、聞こえるのは風の音だけだった。


 


 王妃クラウディアの失脚から三か月。

 王太子の名は王国記録から消され、王族ではなく、ただの“レオン”として追放処分を受けた。

 だが、それでも彼は剣を手放さなかった。

 王都を去るとき、ただひとりの男が声をかけた。


 ――ルシアン公爵。


「贖う気があるなら、どこへでも行け。罪は他人に消されるものではない。

 だが、正義を知ったなら、それを無視することもまた罪だ」


 その言葉が、今も胸の奥でくすぶっていた。


 


 雪混じりの風が吹く。

 小さな集落の前で、レオンは足を止めた。

 壊れかけた看板には、「孤児院」と書かれている。

 そこに寄り添うように、小屋が二つ。中から子どもの泣き声が聞こえた。


 扉を開けると、細い腕の女が倒れていた。

 頬はこけ、唇は青い。

 薪も尽きていた。


「大丈夫か」


 女は目を開け、弱く笑った。

 「助けて……子どもたちが……」


 部屋の隅には、小さな影が三つ。

 寒さに震え、古びた毛布にくるまっている。


 レオンは無言で剣を外し、外へ出た。

 凍った木を割り、火を起こす。

 薬草を煮出して、女の口元にあてがった。


「……あなたは、どなた?」


「ただの旅人だ」


「そんな……その瞳……王家の……」


 レオンは微笑んだ。

 「似ているだけだ」


 


 それから数日、彼はその孤児院で働いた。

 薪を割り、子どもたちに読み書きを教え、畑を耕す。

 やがて村人たちは彼を“先生”と呼ぶようになった。

 夜には、月明かりの下で子どもたちが歌う声が響いた。


 その歌は、王都の祝典で歌われていた賛歌。

 皮肉にも、王太子自身が作曲を命じたものだった。

 だが、いま耳にするそれは、あの日よりずっと温かく、美しかった。


 


 ある夜。

 焚き火のそばで、レオンは懐から一冊の古びた日記を取り出した。

 表紙には金の文字で名前が刻まれている。


 “フィオナ・ド・ヴァレンヌ”


 指先でなぞる。

 あの日、自らが壊した婚約の名。

 許されるはずのない過去。


「……君は、まだ父上のそばにいるのだろうか」


 呟きは、風に溶けて消えた。


 


 翌朝、遠征の兵が村を通った。

 北の国境で反乱が起き、王国の援助が遅れているという。

 孤児院にも徴発の命が下った。


「先生、兵隊さんが食料を取っていく!」

 子どもたちが泣きながら駆けてきた。


 レオンは剣を掴んだ。

 「ここは民の避難所だ。軍の権限では踏み込めないはずだ」


 しかし、兵たちは笑った。

 「命令だ。文句があるなら王都へ言え」


 レオンの瞳が光る。

 「……なら、私がその“王都”だ」


 一瞬で剣が抜かれた。

 炎が散り、冷気が弾ける。

 兵の槍を弾き、足払いで倒す。

 剣筋には迷いがなかった。


 数分後、兵たちは地に伏していた。

 怪我人は出たが、誰も死んではいない。


「帰れ。次に来るときは、法を学んでからだ」


 


 その場を見ていた村人たちがざわめく。

 「……あの戦い方……王族騎士団と同じだ……」


 噂は瞬く間に広がった。

 ――亡命した王太子が北で民を守っている、と。


 


 数週間後。

 その噂は、王都ヴァレンヌ邸にも届いた。

 フィオナは手紙を握りしめ、震える声で父に尋ねた。


「お父さま……レオン殿下が、北の孤児院を……?」


「ああ、確かだ」

 ルシアンは静かに頷く。「罪を償おうとしている。口で謝らず、手で正し始めた」


「……行ってもいいですか」


「危険だ。だが、行くなら止めはしない」


 フィオナの瞳に、強い光が宿る。

 「彼が罪を背負うなら、私はその目で見るべきです」


 


 雪原の果て、孤児院の灯りが見える。

 扉を開けた瞬間、レオンが振り返った。


 風の中、二人の視線が交わる。

 長い沈黙。


「……来てくれたのか」


「はい。あなたが、変わったと聞いたから」


 レオンは笑った。

 それは、かつて王都で見せたどんな笑みよりも、穏やかだった。


「変わったのではない。やっと、見えるようになっただけだ」


 


 夜。

 二人は焚き火を囲んだ。

 雪が静かに降り続ける。


「私は、あなたに許される資格などない。それでも――」


「それでも、あなたは誰かを救おうとしている。その姿を、私は誇りに思います」


 フィオナの声は、炎の音に溶けた。

 レオンは剣を抜き、焚き火にかざした。


「この剣はもう、誰かを守るためにしか振るわない」


 


 遠くで、風がやんだ。

 夜空には、薄雲の切れ間から星がひとつ輝く。


 かつて断罪の炎が灯った場所に、

 今は、静かな赦しの光がともっていた。


 


 ――第6話 父の誇り、娘の未来 へ続く。

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