第4話 初期化を止めろ
【前ループの変更点】
・石盤裏の×に対応する溝へ灰を詰め、釘で狭窄を作った
・鐘二つ目と三つ目の間に雑音三重奏(粉の価格/井戸修繕/羊の足跡)を同時発生
・書記リオの貼り札に触れる機会を、紙束の受け渡し時に作る
夜明け前、広場はまだ寝息を立てている。僕は投票台の裏へ滑り込み、薄紙で写した刻印の上に釘先を合わせた。×の位置。昨日目で追った矢印に対応する溝へ、灰を押し込み、釘で喉を狭くする。灰は湿っていない。すり込めば絡む。音は出さない。胸の煤は四粒、息の長さを測ればあと何度かは走れる。
手を止めて耳を澄ます。祈祷師ナヘルの家のほうから、香の準備の気配。旅の書記リオは、もう焚き火の明かりのそばに座っているはずだ。彼の筆記板は革紐一本。紙束の受け渡しで、裏の貼り札に触れる機会は一度だけ。
準備が終わる頃、東の空がわずかに色を変えた。僕は粉屋へ走り、ミラに頷く。彼女は短く息を吸い、手を止めた。用意していた三つの話題の伝播役——ミラと噂好きの二人、そして狩人ダゲン——それぞれに目配せを送る。
鐘が一つ。
村の扉が開く音が連鎖する。
鐘が二つ。
三方向で同時に声が立つ。粉の価格が上がるかどうか、井戸の滑車が悲鳴を上げたこと、昨夜の草地に残った羊の足跡。どれも投票に関係がありそうで、実は関係が薄い。耳はそちらへ引かれる。矢印は迷う。
僕はその流れを横切り、焚き火の脇のリオへ向かった。紙束を抱え、わざと躓き、紙をばら撒く。
「すまない、手が滑った」
リオは筆を止め、無言で紙を拾う。僕も手を伸ばし、筆記板の端に指を潜らせる。革紐が緩む一瞬、裏の貼り札の角を爪で起こし、片方だけ剥がした。紙が薄く鳴る。リオの目が僕を見た。怒りではない、興味でもない、測る目だ。
「読めない文字を、無理に読もうとすると目を傷めます」
「目はもう、少し煤けてる」
僕は立ち上がり、紙束を渡す。リオは受け取って、筆を走らせる。紙の端、貼り札の剥がれた角が風に浮いた。×と矢印は、半分だけ隠れた。
鐘が——三つ。
石盤が息を吸う。名を刻む音が走る。
長サウラの視線は、迷った。いつもの滑りではなく、わずかに遅れて右から左へ移る。ナヘルの口上も半拍遅い。ダゲンは荷車の上に腰をかけ、視線を低く保ったまま空を見ている。
光る名は、誰でもなかった。光は、ふらついた。
石盤に浮かぶ文字が、弱く、二つ三つ、同じ明度でちらつく。最初の名が定まらない。灰で狭められた溝が、神意の流れを細くしているのだろう。貼り札の矢印も半分は無効化された。声の発生源は拮抗し、滑り台の角度が失われた。
一拍の沈黙。
次の一拍で、広場の誰かが息を呑む音が重なる。
三拍目で、祈祷師ナヘルが香炉を掲げ、定型句を強く繰り返した。
「多数決は正しい。神火は嘘を焼く」
定型句は合図だ。合図は小さな重りになる。石盤の光が、合図に引かれて、最も古い名前のほうに偏ろうとした、その瞬間、僕は叫んだ。
「最初の名が複数ある!」
視線が僕に集まり、合図は崩れる。神火は迷い、弱火のまま足元に滞留した。火が腹ぺこだ、と笑う声は出ない。誰も、笑えない。
長が口を開いた。
「儀式を乱すな」
「儀式は壊れている。最初の名の支配を止めれば、多数決はやっと本当になる」
「本当の多数決は、朝が長くなる」
「朝が長くても、誰も燃えないなら長くていい」
長は目を細め、祈祷師に視線を送る。ナヘルは香炉を揺らし、煙の筋を太くする。煙の流れが石盤の縁で渦になり、渦が光を一箇所へ集めようとする。儀式の所作そのものが、投票台の裏に刻まれた溝と対応している。僕は背中に汗を感じながら、投票台の下に目を走らせた。灰を詰めた狭窄は機能しているが、別の溝から回り込む動きがある。古い刻印の迂回路。全部は塞げない。
決める。
僕は石盤に近づき、自分の名を刻む代わりに、ミラの名の上に両手を重ねた。
「待って。誰も燃やさない朝を試す。ミラは昨日、救えた。今日は誰も燃やさない」
ミラは驚いて僕の手を見た。彼女の目に泣きそうな笑いが浮かぶ。
「パン、余分に焼いてあるよ」
その一言が、広場に小さな笑いを生んだ。雑音ではない、緩む音だ。緩むと、滑り台の角度はさらに失われる。
旅の書記リオが、そこで初めて短く声にした。
「記録します。未確定の朝」
紙の端に、二本の斜線が引かれた。×ではない、// の記号。貼り札の代替? あるいは、外に向けた報告の新しい形。
石盤は迷い続ける。火は足首に絡みながらも、上がれない。
この瞬間、僕は気づく。巻き戻りは、処刑者が確定した瞬間に起こる。確定しなければ、夜は来ない。つまり、今この長い朝は、僕の胸の煤の増加を一時的に止めている。寿命の砂時計に、指を差し込んでいるようなものだ。
長が歩み出て、石盤に掌を当てた。
「儀式は止めない」
祈祷師が頷く。香炉の火が強くなる。煙の渦が、僕の足元まで熱を運ぶ。
その時、屋根の上のダゲンが低く口笛を鳴らした。
「長。門の外、砂煙だ」
誰かが来る。村の外。読み手か、指示の主か、あるいは供給者か。空気が硬くなる。
長は石盤から手を離す代わりに、リオを見た。
「記録は続けろ」
リオは頷き、紙の端にもう一本短い線を引く。// が、/// になった。三本目は短い。おそらく、合図の改訂。貼り札は半分剥がれている。けれど、代替の合図ならいくらでも作れる。沈黙、所作、記号。
迷う火が、わずかに、門の外へ顔を向けた。
まるで、外から来るものを歓迎するみたいに。
神火は票を喰う、と僕は第二話で仮説を立てた。もう一つ補う。神火は、観客も喰う。儀式を見ている目が増えれば、火は強くなる。長い朝は、観客の入場を待つための時間稼ぎでもある。
門が開いた。砂煙の向こうから、フードの集団が現れた。胸に同じ紋章。手には細い杖。杖の先に、小さな石盤の縮小版のようなものが括りつけてある。移動する投票台。外にいるはずの読む人。
祈祷師が深く一礼し、長は一歩退いた。
彼らは広場の外縁に円陣を作り、杖の先の小石盤を掲げた。小石盤は僕たちの石盤と同じ刻印を持ち、縮尺だけが違う。そこに刻まれる名は、僕たちの朝を補助するのだろう。あるいは、上書きする。
僕は一歩、石盤から離れた。迷う火は僕の足首を離れ、門のほうへ伸びる。
リオが紙に短い記号を書き足し、僕を見た。声は出ない。沈黙が合図だから。でも、目だけは言った。
見ておけ。
フードの一人が小石盤に最初の名を刻んだ。
火が、こちらの石盤の上で、ようやくどちらかへ傾いた。
ミラが息を呑む。
僕は肩で風を切るように石盤へ戻り、釘を握った右手を、投票台の裏へ差し込んだ。
狭窄を、さらに潰す。灰を足す。刻印の溝に、釘を噛ませる。
木がきしむ音。
祈祷師が顔を上げ、長が僕を睨む。
ダゲンが屋根から飛び降り、僕と長の間に割って入った。
門の外の小石盤の光が、ひとつ明滅した。
火は迷い続ける。
誰も燃えない朝が、手に触れるところまで近づいて、まだ届かない。
胸の煤は、増えない。朝が終わっていないからだ。だが、視界の端は暗いまま。長い朝は喜劇でも美談でもない。耐えるだけの時間だ。耐えながら、壊す場所を見つける時間だ。
フードの集団の先頭がフードを外した。若い女だ。目が冷たい。
「遅延を検知。儀式の補助に入ります」
言葉は冷たいが、滑らかだ。僕の言葉と同じ言語。異世界の口当たりのいい合理。
彼女の杖先の小石盤に、// が描かれ、×が添えられる。こちらのリオの紙の端の記号と、同期している。
記録と現実が並走する。小石盤の×が、こちらの石盤裏の×と呼応し、僕の詰めた灰の隙間を探す。まるで水が道を見つけるみたいに。
ダゲンが僕の肩を叩いた。
「お前、ここまでどうやって生き延びてんだ」
「何度か死んだ」
「俺は、まだだ」
彼は笑い、長に背を向け、祈祷師の香炉を足で払い飛ばした。香炉が転び、煙が途切れる。所作が崩れる。観客がざわめく。
途端に、火がさらに弱くなった。
儀式は、所作でも支えられている。なら、壊せばいい。全部は無理でも、一本ずつ。
旅の書記リオが、半分剥がれた貼り札を親指で押し上げ、こちらへ滑らせた。
気づかれない角度で。
僕はそれを袖の内側に隠し、ほんの一瞬だけ視線で礼を言った。彼の目が、うなずいた。
火はまだ迷っている。長い朝は、初めての形になってしまった。
長サウラの口角は、今日は上がらない。
祈祷師ナヘルの指は、香炉を失って宙で震えている。
観客のフードの女は、補助の手順を次へ送るために、杖先の小石盤に新しい記号を刻もうとしている。
ここが、折れる点だ。
僕は石盤の縁に指をかけ、声を出した。
「この朝を、記録してくれ。『誰も燃えなかった朝』として」
リオの紙に、文字が走る。
門の外の小石盤に、刻む手が一瞬止まる。
火の筋がさらに細くなる。
パンの匂いが、風に乗る。ミラが袋を抱えたまま、じっと立っている。
誰も燃えない朝は、まだ完成していない。
だが、届く距離に来た。あと一本、どこかを折ればいい。
【次回の実験】祈祷の所作を崩す補助策を用意(香炉の代替を封じる)/門外の小石盤との同期を断つ(貼り札の記号を書き換え、偽の同期を作る)/石盤裏の迂回路を一時的に水で塞ぐ——誰も燃えない朝を、確定させる。
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