セイレーン

手紙

拝啓



 懺悔いたします。いや、正確には私が懺悔させたい人がいます。それは私の中にいる、私とは思えたくもない、残虐な私なのです。


 私はこれから犯すであろう罪を、既に後悔しております。私は1人の女性に恋をしました。いいや違う。あれは女性の形をした何かだと思い出しました。それはウィンドウに写るお洒落な服を着たマネキンに近いかもしれない。そうつまり、私はそれに対して、あまり動かないで欲しいんだと思う。そしてこう思いました。今なら、それを盗むことができるのでは?こういった経緯が、私の残酷な犯罪計画のはしりと言えましょう。


 ただこれには私とあなたとの認識に、少しだけニュアンスの違いがあるかもしれない。それはコマ撮りのアニメーションのようなものか?それとも、古いカメラの画質の悪い映像のようなものになるのか。如何せん予測がつかない、下手な映像のような齟齬。


 そこで分かりやすく説明します。その女性は動物に例えるならセイレーンでしょうか?つい最近に見た翼の生えた女性の彫刻に似ています。博物館に飾られていたそのセイレーン像の目には宝石でしょうか?濁った石でしょうか?嵌め込まれていました。期間限定でフランスから来た来訪展示のようなものだったのを覚えています。信じられないかもしれませんが、そのセイレーンは私に向かって喋りだしたのです。いえ、喋るというのは口から音を発することではありません。イメージしてください。何かを語っているように見えた。最初は気のせいかと思ったが、何度も見ていくとそれが確信に変わる。音が聞こえたのです。


「助けてください」


 そう言っているようでした。


 翌日も、その翌日も、私は博物館に通いました。受付の女性が私の顔を覚え始めた頃、セイレーンは別のことを言いました。


「あなたが助けるべきは私ではない」


 では誰なのか?私が尋ねる前に、セイレーンの視線が動いたのです。いえ、石の目が動くはずがない。でも確かに、像の視線の先に。あの女性がいました。



 彼女は美しい。それは彫刻のような魅力。しかし私がより魅力に思えたのは止まっているときでした。信号待ちの時。カフェで本を読んでいる時。美術館で絵画を見上げている時。つまり彼女が「止まっている」瞬間です。目に焼き付けようと、動かないようにしたい。ただ私はそれが強制されるのは違うとも思う。能動的に止まっていて欲しいのです。彼女が動くたびに。彼女は何かを失っていくように思えました。ほんの少しずつ、完成されたものから、人間へと堕ちていく。


 あなたにはこれがストーキング行為に見えるでしょう。でも私からしたらそれは保存活動なのです。博物館が美術品を保護するように、私は彼女の完璧な静止を守ろうとしただけ。これは愛ではない。学芸員やキュレーターの使命感に近いものです。


 数日間彼女を追い続けていると、おかしなことに気づきます。私が彼女を盗む計画を立てる前から、彼女が「助けて」と言ったのです。セイレーンの彫刻と同じ感覚を想起しました。


 展示最終日になった頃です。セイレーンがもう見れなくなります。重厚に包まれたダンボールが数人に運ばれ、木箱に入れられる時です。私はセイレーンの声が聞こえた気がしました。


「遅い」


 その言葉の意味を考える間もなく、木箱の蓋が閉じられました。私は慌てて博物館を出ました。彼女のアパートへ向かわなければ。いつもの時間、いつもの場所で彼女を確認しなければ。


 でも彼女はいませんでした。


 三日経っても、一週間経っても、彼女は現れない。ポストには新聞が溜まり、部屋の明かりは点きません。管理人に尋ねると


「そんな住人はいない」


 と言われました。でも私は知っている。確かに彼女はここに住んでいた。いや、住んでいる?住んでいた?


 あの人が言うのです。


「お前が完璧に保存したからだ」


 違う。私は何もしていない。ただ見ていただけだ。


「見続けることは、奪うことだ。お前の視線が彼女を石にした」


 そんなはずはない。私は彼女に触れてもいない。会話さえしていない。


「だから完璧だったのだ。お前は誰にも気づかれず、彼女の時間を盗んだ」


 数週間後、私の部屋に一つの木箱が届きました。送り主の欄は空白です。開けてはいけないと思いました。でも、あの人が私の手を動かします。


 中には、彼女がいました。


 いえ、彼女の彫刻、と言うべきでしょうか。大理石のように白く、まるで美術館の展示品のように美しい。信号待ちの姿勢で、少し顎を上げて、遠くを見ている。完璧に静止していました。


 お前が望んだ通りだ


 台座には小さなプレートがありました。そこにはこう刻まれています。


『作者不明』


 私は警察に行きました。「人を殺しました」と言いました。でも警察は困惑するばかりです。行方不明者の届け出もない。そもそも彼女の本名すら私は知らない。証拠の彫刻を見せようとアパートに戻ると、木箱の中身は空でした。



 私は発狂しそうになりました。いえ、もう発狂しているのかもしれません。鏡を見るたびに、あの人が笑っているのが見えるのです。



 翌朝もう一度博物館に行きました。セイレーンの代わりに、新しい展示が始まっていました。

 展示室に入ってすぐの場所が目に留まります。台座に乗って、ガラスケースの中で、完璧に静止していました。説明プレートには『作者不明、寄贈者不明』とあります。来館者たちが彼女を見つめています。写真を撮っています。皆が彼女を見ている。


 私はガラスを叩きました。


「彼女を出してください!!!!」


 と叫びました。警備員に取り押さえられ、出入り禁止になりました。


 その夜、あの人が言いました。


「お前が彼女をそこに置いた」


 でも私には記憶がない。私は何もしていない。ただ、見ていただけだ。見ることは罪なのでしょうか?

 いや違う。あの人は私じゃない。私はこんな残酷なことはしない。


 最後にもう一度、博物館に行きました。閉館後、警備の目を盗んで。彼女の前に立ちました。ガラス越しに、彼女の石の目を見つめました。


「助けて」


 彼女がそう言った気がしました。

 でも、もう遅い。セイレーンが言った通り、もう遅いのです。

 彼女は完璧に美しい。完璧に静止している。これは私が望んだことなのでしょうか?それとも、あの人が?


 もう分かりません。


 私はこの手紙を誰に宛てるべきかも分からないまま、筆を走らせています。これは告白文です。






追伸


誰か。誰でもいいんです。あれを極刑にするように裁判官に訴えてはくれませんか。どうか。どうかお願いいたします。



敬具

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