第4撃:拳で切り拓く、最初の夜

 森の中を、二人の影がゆっくりと進んでいく。


 濃密な緑の匂い。草を踏む音。肌に触れる風の冷たさ。すべてが異世界の現実だった。


「……まずは水だな。三日持たないからな」


 ぽつりと、一真が呟く。


 生き残るために必要なものは多い。だが、優先順位はある。水、食料、そして寝床。どれが欠けても、すぐに命に関わる。


 そして太陽は、既に傾きかけていた。


「小屋を建てる時間も、材料もないか……せめて、雨風をしのげる場所が必要だ」


 ぶつぶつと独りごちながら、一真は歩を止めた。周囲を見渡し、一本の高い木に目を留める。


「晶、ちょっとそこで待っててくれ。上から見てみる」


「え? えぇ……?」


 返事を待つ間もなく、一真は木を登り始めた。


 動きが異常に速い。


 するすると、まるで猿のような軽やかさで枝を渡り、幹を蹴って跳ねる。野生動物でも、ここまで滑らかには動けまい。


 地上に残った晶は、ぽかんと口を開けていた。


「……すご……」


 ほどなくして、見晴らしの良い高さに到達した一真は、風に揺れる枝の上で静かに目を閉じた。


「……あまり使いたくなかったが、今は仕方ないか」


 そう呟くと、呼吸が変わる。


 深く、重く、律動を刻む。


 ――仙術『封神拳ほうしんけん』の呼吸法。


 それは気を高め、五感を人の域を超えて鋭敏にする秘術。


 瞬間、一真の世界が変わった。


 遠くの小動物の足音が聞こえ、微かな水音が鼓膜を震わせ、風に運ばれた果実の匂いすら感じ取る。


「……よし。あったな」


 見つけた。食べられそうな果実と、川のせせらぎ。


 枝を蹴り、音もなく地面に舞い降りるように着地する。


「晶、見つけたぜ。果物と、川。まだ安全かはわからんが、とりあえず向かおう」


「み、見つけたって……あの高さから!? 肉眼で!?」


「ま、ちょいとコツがあるのさ」


 一真はいたずらっぽくウインクをしてみせる。


「コツの問題じゃないと思います……」


 半ば呆れながらも、晶はその背に続く。


 二人は川を目指しつつ、道中で果物を回収していった。赤く熟した実を数個、一真のボンサックにしまい込む。


 やがて、川にたどり着いた。


 清流と呼ぶに相応しい美しさ。水は澄み、流れの中には魚やエビのような小動物の影も見える。


「いいぞ。魚もいるし、水も濁ってない。内臓を抜いて火を通せば、食えるだろう」


 念のため、煮沸は必須だ。だが少なくとも命の危険はなさそうだ。


 水場の位置を確認した後、一真は再び歩き出す。


 少し奥まった場所――そこに、一真が言っていた通りの“空間”が広がっていた。


「……すごい……」


 晶が言葉を失うのも無理はなかった。


 そこには、見上げるような巨木がそびえていた。直径数メートルはあろうかという幹。その根元に、大人が五人は寝転べるほどの空洞が開いている。


「ここを拠点にしよう。水場も近いし、隠れ家としては申し分ない」


「こんな場所、どうして……あの少しの時間で、全部見つけたんですか……?」


「だから、コツだって言っただろ?」


 一真は肩をすくめて笑った。


「……もう、なんか呆れて何も言えないです……」


 日が傾ききる前に、一真はすぐ作業に入った。


 まずは、果物の果汁を肌に塗る。パッチテストだ。毒性がないか、反応を見るための確認。


 その合間に、森で集めた枯れ枝と草で火を起こす。


 キリモミ式――二本の木を使った原始的な方法。だが、一真の手際は早かった。あっという間に種火ができ、枯草に移して焚き火が完成する。


「湿度が低くて助かったな。日本じゃこうはいかん」


 木の皮で即席の器を作り、水筒の川の水を煮沸する。ささやかな、けれど確実な“命の確保”。


「よし、燃えねえな。これで飲水もなんとかなる」


 パッチテストも問題なし。毒性はないと判断できた。


「……ひとまずは、形になったな」


 二人はようやく、ささやかな夕食にありついた。果物の甘みが、染みる。


 水はあくまで熱かったが、確かな安心感をくれた。


「……ありがとう、ございます。一真さん」


 晶の声には、ほんの少し、温度が宿っていた。


 焚き火の灯りが、二人の影を揺らす。


 やがて、空は完全に闇に包まれた。


「晶。寝ていいぞ。火の番は俺がする。ほら、木の根元で横になりな。枯れ草で寝床を作ってある」


 そう言って、用意していた毛布を渡す。


 ……だが晶は、その場に立ち尽くしていた。


「ん? どうした?」


 しばらくの沈黙のあと、晶が小さく口を開いた。


「……一緒に、寝てくれませんか……? ……こわくて……」


 その声音は、小さく、震えていた。


 一真は言葉を詰まらせた。


 目の前にいるのは、儚い美少女のような――だが確かに“少年”だ。


「う、ぐ……。それは、色々とまずい気が……いや、男同士だし、いいのか?」


 内心で葛藤しながらも、一真はその瞳に宿る恐怖を感じ取った。


「……ふぅ。まあ、火はまたあとで起こせばいいか」


 苦笑いを浮かべながら、毛布を広げて晶を包み込む。


 その隣で、すぐに晶は寝息を立て始めた。


「……無理もねぇな。いきなり異世界なんてぶち込まれて、よくここまで着いてきたもんだ」


 一真はぽつりと呟き、微笑んだ。


「お疲れ様、晶。おやすみ」


 そして、彼も静かに目を閉じた。


 その夜、異世界で最初の夜は、かすかに揺れる焚き火の光と、ふたりの鼓動に包まれて、静かに更けていった。


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