異常

涼風

 

窓が涙を流している。外から吹く強い風に叩かれているからだろうか、冷たいからだろうか。例年にない猛暑がきたかと思いきや、気づけば例年にない寒波がやってくる。当たり前のことだ。けれど誰もが、春夏秋冬が巡る“当たり前”に気を取られ、“例年にない”という違和感に気づかない。

例年にないとは、今までにないという意味を思い浮かべるだろうが、実際は違う。意味としては、通常と違うということ。

ではその通常は誰が決めるのだろうか。神?天皇?首相?学校?親?

神でさえ人が作った偶像だ。つまり全ては人間の都合の産物。通常という定義を勝手に決めづけているに過ぎない。


「…通常、普通とは」


部屋の中に問いを投げるも静寂に沈む。

カチカチと鳴る、見守るように掛けられた時計に目を向ける、長針は六を、短針は九を指していた。

今の今まで気にもしなかった時計の音が聞こえてきたのはきっと、神様が遅刻しないように気を使ってくれたのだろう。僕はなんとなしに座っていた椅子から腰を上げ、すぐに玄関の靴先に足を進め、河原の小石ほどの穴が開いた靴を履く。閑古鳥が鳴くような部屋を背にして立ち上がると、「ピロン」、静かな湖に石が投げ入れられるように、スマホの着信音が響く。目を凝らしながら画面に自分の誕生日を入力し、右上に「1」と赤色の点がついたアイコンをタップする。

メッセージ、日向ひなたからだ。


「なんだこれ…『生まれ変わってくる』?」


先日、ご飯を食べに行った友人からのメッセージは、まるで物語の導入のように奇々怪々な文だった。


『宗教にでもはまったのか?』


相手が読んだかどうかを確認するマークはつかなかった。

きっと、送った直後に眠ったのだろう。

僕も行かなきゃ、遅刻しないように。



雲一つない夜空、空気が澄みわたっているのだろう、六等星すらはっきりと見える。

閑静な住宅街を一人歩き、時々口を手で覆い「はあー」と息を吹きかける。

ため息なのか、息をついただけなのかも自分では分からないが、手のひらが白に染まり、少しだけ童心に帰れる。

楽しかったあの頃、何でも輝いて見えて、なんにでもなれると思っていた濁りなき眼の自分。

だけど全ては消え、僕は今ここを歩いている。

星空が輝く夜空は流れ、何も浮かばない青が続くだけの天の帳を歩いている。

二十七歳にもなって、ただ一人でアルバイトに向かっている。

…憂鬱だ。一人は慣れているけど別に好きじゃない。

ポケットに入ったスマホを確認するも、メッセージは来ておらず、真っ黒なロック画面が惨めな自分を映すだけ。


「…おでこのところまたニキビ出来てる」


友人のメッセージなんかよりも自分の容姿の方が気になる。

そういう自分に嫌気が差す。

楽観的にいこう。生まれ変わるなんてきっと、大した意味はない。



程なくして静寂に佇むスーパーが見えてくる

外の灯りはほとんど落ちきったスーパー。

しかし関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉の向こうは、朝のような眩しさだ。


「おはようございます」


「“こんばんは“な」


蛍光の白が床の埃と汚れを綺麗に映し出し、所狭しと積み重なっている段ボールの影を鋭く切り取る。

細縁の眼鏡をかけ、目元にほくろのある女性が椅子に腰かけてこちらを見た。

――先輩と俺のいつものやり取りだ。


隅に置かれたロッカーを開ける。

昨日出勤した時とはエプロンの掛けてある位置が違う。

誰かが開けたんだろう、別に珍しいことじゃない。


「エプロンの紐結べる?」先輩の声が後ろから聞こえる。

馬鹿にしてるわけじゃない、これもルーティン。


「入ったばっかの時じゃないんです。結べます」


入ったばかりの時、僕はエプロンの紐を結べなかった。だって、普通に生きていたらエプロンなんてする機会無くない?家庭科の授業以外でするタイミングが思いつかない。

そのせいで今はもうやめてしまったパートのおばさんに「ちゃんと結びなさい!」、と怒られたことをこの先輩は思い出させて来るのだ。全く迷惑な話である。


「可愛くないなー、私が結んで上げようと思ったのに」


「“可愛い“って、二十七の男に抱いてはいけない感情だと思います」


いつもの流れ、時給千百四十円、夜勤手当てプラス五十円の中にあるいつもの流れ。

この会話の後、いつも通り値引きシールを張って回り、漂白剤でまな板を洗い、店内の掃除をし(店前の駐車場があまりにも汚れている場合はそっちも)、明日のポップに張り替え、商品を陳列補充して、会社(本部?詳しくは知らない)に廃棄物がまとまったデータを送る。

そうしていつも通り朝が迎えられるはず――


「見てこれ!」、先輩は僕に左手の甲を見せつけてくる。

薬指に、銀色に光る何かがついていた。


「…結婚したんですか」


「籍はまだ入れてないけど、うん!三年前から付き合ってた彼氏に、『結婚しよう』って昨日言われたの!」


そっか…三年前。僕がこのアルバイトに入った時から。知らなかった。

……意味がなかったのか。


「いやー!彼氏のその時のこう」


先輩はわざわざ椅子から外れ、眉をよせ、膝をつき、まるで雨を集めるように左手を上に向けている。

「『結婚しよう』って、あんまりにも決め顔で笑っちゃったんだよねー!」


「そうですか」


聞きたくない。寒さで耳が落ちてればよかったのに。


「なんか反応薄くない?桐野君ならもっとこう、『おめでとう!先輩!』って目を輝かせて言ってくれると思ってたのに」


「僕にどんなイメージを持ってるんですか…」


「可愛くて従順な後輩」


「誰と勘違いしてるんですか」


「あはは!」


本当に誰と勘違いしているんだろう。

僕はそんな可愛いなんて言葉が似合う人間では無い。

今だって、先輩が幸せそうにしていることがうれしいはずなのに、とても喜ばしい出来事のはずなのに、


――涙が溢れそうなんだ。


嬉しくて溢れそうじゃないことぐらい分かる。

純粋に先輩の幸せを祝えない自分が気持ち悪い。


「ほら、いくらお客さんが来ないからってここでボーっとはしちゃだめだよ、行くよ」


先輩の声はさっきまで後ろから聞こえていたはずなのに、今は前から引っ張るように、照らすように聞こえてくる。

僕の影は、後ろに長く濃く伸びているだろう。


「…はい」


顔色は大丈夫だろうか、目は虚ろになっていないだろうか。

床に散らかったゴミを角に追いやるように、髪の毛でニキビを隠す。


「先輩、幸せになってくださいね」


「うん、ありがとう。やっぱり桐野君は可愛くて従順な後輩だよ」


「はは…」



今日のバイトは記憶にない。

いつもだったら嫌になる掃除も、野菜担当じゃないのに洗わせられてウンザリするまな板洗いも、全て。

気づいたら勤務時間は過ぎていた。

肺が痛くなるほどの外気、まだ日は昇っていないが冬晴れを意識させる外の風、いつもは大嫌いなこの外界の空気も、今はスーパーの中よりはマシだ。


寒すぎる、まだ十一月なのにな。


「桐野君、今日久々に朝ご飯食べに行こうよ!」


関係者以外立ち入り禁止と書かれた重厚な扉から先輩が出て来る。

冷気の鋭さを切り返すような、やわらかい輪郭を描く灰色のセーターを着ている。

エプロンで気づかなかったけど、すごい似合ってる…


「えっ、でも婚約者がいるんじゃ」


「そういうの気にしないタイプの人だから大丈夫、それに気にする人だったら前から怒られてるよ」


嬉しい。嬉しい…よな?

久々に先輩と朝ご飯。嬉しいに決まってる。


「はい、先輩側に問題がないなら、遠慮なくおごってもらいます」


「げっ…奢ってもらう前提かよ…可愛くない後輩」

苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

この人には恥というものが無いのだろか?


「一度ぐらい奢ってくださいよ。いつも僕もちじゃないですか」


「しゃーないなー、最後だし奢ってやりますよ」


さ、最後…?


「先輩、最後って…」


「ん~やめるもん私、早めの産休って感じ」

「まだ赤ちゃんできてないけどね~」

「私今年で二十九だからさ、準備するなら早めにしないと」

「それに夜勤もそろそろきついよ」


産休、子供欲しいんだな。昔言ってたっけ。


「そうですか」


「うん」

「あっ、てかさ、結婚式呼ぶから来てよ」


「・・・」


なんて残酷なことを、笑顔で言ってくるんだろう。


「『式上げるなら大勢で』って彼氏も私も言ったんだけどさ、二人とも友達少なくて…呼べる人全然いないの」

「私の友人だけでも、桐野君入れて四人」


「だからさっ、嫌じゃなかったら来てくれないかな?」、両手を胸の前に合わせ、祈るように僕に頭を下げている。

それに対して、僕は今どんな顔をしているだろう。

喜んでる?泣いてる?

鏡が欲しい。水でもいい。


「はい、喜んで行かせてください」


嫌だ本当は行きたくない。でも、断った時の先輩の顔を見るのが嫌だ。

この人は――えくぼがよく似合う人だから。


「ありがとう!」、ぱっと顔を上げた先輩の顔には、花が咲いていた。


「それじゃいこ」

先輩はポケットから自転車の鍵を取り出し、僕に投げる。


「はい」

返事をして受け取った。

銀色に輝く鍵の中、僕の瞳は揺蕩たゆたっていた。



朝ごはんに行く道は、僕の家とは逆方向。

先輩の自転車を押して並んで歩く住宅街は、朝四時の空気に閉じられている。

通学路として賑わうはずの道には、犬の散歩の老婆が一人いるだけだ。

前は、この時間帯に流れる朝焼けを感じさせるような、ほのかに舌をなでるような暖かい空気が好きだった。

今はというか、今日嫌いになった。重たい、肺に石があるみたいな。

肌に触れる、鳥肌をふるいだたせる冷たい風が不快だ。


「桐野君に自転車を押してもらうのも最後かー、感慨深いなー」、先輩は両手に「ふうー」と息を吹きかけ、白い吐息で蚊ほどの暖を取っている。


「絶対思ってないでしょ」


「いやいや、思ってるって」

「私たちシフトかぶる日はほぼ毎日ご飯行ってたじゃん、最近は行けてなかったけど」


そんなことわかってる、思わずハンドルを握る力が強くなった。

それに呼応するように胸も痛む。

惨めだ、この世で一番。


「桐野君は私に付き合うの嫌だった?」


「・・・」


嫌なはずがない。始めてご飯に連れてってくれた三年前からずっと嬉しかった。

あなたは不慣れで職場に慣れていなかった僕を気遣って、『桐野君、ご飯行こ!』って誘ってくれたんだ。そりゃもちろんコンビニに連れていかれた時は驚いたけど。

考えてみれば、この時間帯から開いている定食屋なんてこの近くにあるはずがないもんな、当たり前だ。


「はい、嫌でした」、全部覚えているのに言葉だけは裏返った。


「え~酷い。私は結構楽しかったのに、“青春“って感じがしてさ」


「僕たち二十代後半ですよ、青春なんて甘美な響きを口にしていい年じゃない…」


「あはは、確かに」


他愛も無いくだらない日常会話、見えてきた一軒家。

あそこの一軒家を右に曲がるとコンビニだ。


「見て、あそこの家。クリスマスツリーがもう出てる」、先輩は一軒家を指差し口角を少し上げた。


「まだ十一月なのに、早いねー」


「そうですね」、すぐに僕たちは一軒家を右に曲がる。

白と黒の白線に自転車を止め、自転車の鍵を抜き取り、自動ドアに足を進める。

至る所に赤と緑で彩られたリースと、茶色の化け物(鹿)のイラストが張り付けれている。コンビニにも既にクリスマス気分の装飾が施されていた。


「この時期はあんまんが並ぶから好きだなー」


「売れないからよくありますもんね」


「うん、みんなこの良さが分からないんだよ。だから売れ残ってる。百四十円でこんなに美味しい食べ物無いのに」


先輩は肉まんが並べられたガラス一枚で隔たれたケースに目を輝かせている。

すぐにレジへと向かった。


「すいません、あんまん二つください」、先輩はスマホをいじっていた店員に笑顔で声を掛ける。店員は制服のポケットにスマホをいれ、「はい」と気の抜けた返事。僕はそれを聞いて、また自動ドアへと足を進めた。


「はい!私の奢り!」


「あっつ!」、澄んだ空気に、静かな住宅地に声が響く。


「あはは!はいっ」


後ろから、頬にあんまんを当てられた。

…ヒリヒリする、痛い、絶対火傷した。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして!」


なんで火傷させておいてこの笑顔なんだろう……?


「う~ん、美味しい、幸せ!」


「良かったですね」


二人でバリガー(車の追突防止のための銀色のあれ)に腰をかけ頬張る。

手元のぬくもりと外気温の差で風を引きそうだ。


「・・・」


「・・・」


会話が生まれない行儀悪さなんて気にせずに話しかけてくれる人なのに。

“話しかけてくれる“って…受け身すぎるな。


「よし、食べ終わった。それじゃ私行くね」


いつもだったらリスのように口いっぱいに頬張り、もっと大切に味わっているのに、今日は妙に早い。

なにかあるのだろうか。


「桐野君」、先輩は自転車にまたがり声をかけてくる。

だけど、こっちを向いてくれない。


「なんですか?」


「――ごめんね」


…分からなかった。

分かりたくなかった。

分かってしまった。


何に対しての謝罪なのか。


先輩の背中は朝焼けに溶けていく、小さく手のひらに収まるくらいに。

だけど手は届かない。触れられない。

食べかけのあんまんをゴミ箱に投げ入れる。


――僕はあんまんが嫌いだ。


「はあ…」


さっきとは違う道で家に帰る。

歩道橋を渡り、河川沿いを歩く、三十分ほどの道のり。

一人は好きじゃないのに、周りには誰もいない。

スマホにも目新しい通知はない。

無くしたぬくもりを埋めるように、ポケットに手を入れた。



河川沿いの高架下。バイト終わりにいつも寄る場所だ。

黒ずんだ柱の脇、鼠色のコンクリートに腰を掛ける。定位置。

ゴミが浮いている川の側には誰も寄り付かない。

僕はここで少し仮眠をとる。外で寝ることは気持ちがいいから。

……家に帰ると息が詰まってしまうから。

狭い部屋で一人でいると、自分がどんどん嫌になっていく。

何もかもを捨てて、うなだれるように呼吸するだけの毎日が僕を殺す。

夢を捨てたあの日、なれなかった自分、蔑むような母親の目。


「思い出すなっ……思い出すなっ……」

そのために外にいるんだろ…!


何かに追われているように走る機械たちの音がする。

出勤時間とは程遠い四時四十五分。眠い目をこすりながら、車を運転していると考えるとご苦労なことだ。尊敬する。いや、本当に。


そんな疲労感漂う音なんかよりも、川のせせらぎに耳を澄ませたい。

何にもとらわれない水の流れに、心が洗われる…。


…バイトやめよう。夜勤なんて体を壊すだけだし。


「~♪‼」


川のせせらぎに混じって、何か楽器の音が聞こえてくる。始まった。

一年くらい前から、この時間帯のここには、ギターの練習をしている女の子がいるのだ。

なぜかは知らない、でも多分マンションの中だと怒られるから、みたいなことだと思う。

目を覚まし起き上がると、人三人分くらいの距離がある隣には、ほんのり赤みがかったショートカットの女の子がいた。

こんな汚い川には似合わない妙に澄んだ横顔で、額から汗を流して熱中している。

だけど奏でられる音は力強いだけで不協和音、少なくとも素人目の僕にも分かる。

ずっとこの調子だ、最初は睡眠妨害をされてムカついていたが、今は結構好きだ。

完成されていない、未完成で未熟な音が僕に似ているから。


ちっとも上手くならないのによくやるもんだと思う。


あ、演奏が終わった。


「パチパチ(拍手)」


「・・・」


少女はいつも拍手に何も言わない。

だから僕も拍手以外は何もしない。


「・・・」


「・・・」


少女はすぐにまた紐を切るように手を動かし、酷い音をかき鳴らす。

そろそろ行くか。この子のギターを聞いてから帰るのがバイト終わりの日課。

鞄を背負い後にしようとしたとき、後ろから「おじさん」と少女の声がする。

少女から話しかけられた第一声が「おじさん」とは何とも…

そんなに老けてないと思うんだが…


「これあげる」


振り向くと何かが飛んできた。

商品名や値札など施されていない無銘のパン。


「なにこれ?」


「ずっと前のお礼。いつか渡そうと思ってたけど、勇気出なくて…」

「今日は酷くやつれてるからさ、心配で……」

「おじさん、家ない人だろうから早めにあげようと思ってたんだけど」


お礼…?何の話だ?

まあいいや、もらえるものは何でも貰っておこう。

てか僕はこの子にホームレスと思われていたらしい。

二十七歳フリーターなんて、四捨五入すればホームレスみたいなだけど…。

あながち間違ってはいないけど…そんなに社会に馴染めない顔をしているだろか?


「ありがと、助かるよ。この礼は明日にでも」


少女はニヤッと笑った。


「いいよ、私は聴いてもらえるだけでいいから」


えくぼが浮かぶ、よく似た笑みだった。

少女を背にして土手を駆け上がる。

高架下からは不協和音が鳴り響いている。


「バイト辞めるの、やーめた」


帰り道、ポケットに手を入れることはなかった。

メロンパンをもらったからじゃない、寒くなかったから。


「…うま」





「じゃあ、お疲れ様」


「お疲れ様です、先輩」、先輩の代わりに入った大学生の男の子が元気に挨拶をしてくる。若いというのは本当に凄い。

新しく入ってきたようで仕事を教えて上げようと思っていたが、どうやら知らないうちに教育は終わっていたらしく、「お気遣いありがとうございます。だけど今は大丈夫です」と断られてしまった。


正直、見た目が冴えない僕とは違って、自分で染めたであろう茶髪に僕とは違うぼさぼさの髪型(多分名前があるんだろうが知らん)、言うならばイケイケ系の子なので苦手だ。

もちろん言動は丁寧で、しっかりしているのでそんなことはないのだが。

…学生へのコンプレックスもあるのだろう。


そんなことよりも、あの場所に行こう。

昨日のメロンパンのお礼をしに行こう。

決して、昨日の笑顔が先輩に似ていたからじゃない……失恋した心をあの子に埋めてもらおうという下心じゃない…。

大人として礼儀は尽くすべきだと思っただけだ。



コンクリートとコンクリートの間に鞄を立て、橋を支える柱に背をかけ、少女を待つ。静かに、ただ何かに追われているかのような車に耳を澄ませる。


朝四時二十分、彼女が来るのは後二十分後くらい。

それまでは汚い水で心でも洗ってるか。


「…バタン」、何かを地面に落とした音がした。

アーティストの登場だ。どうやら今日は早めの会場入りらしい。


「あのさ、昨日のパンありがとう」


「いいって、お礼だって言ったじゃん」


またお礼。僕はこの子に何かしたことがあっただろうか。

自分から話すのは今日が初めてだと思っていたのだが。


「これ、昨日のお礼。いらないかもしれないけど」


鞄の中から分厚い本を取り出し少女に渡す。

色鮮やかな本のタイトルは「ギター 基礎トレーニング講座」。


「なにこれ、下手だって言いたいの?」、少女は鋭い目つきでこちらをにらんでくる。


「んー、まあ、そう。僕は好きだけど、世間では多分下手の横好きにしかならないからさ」

「多分、ミュージシャンとか目指してるんでしょ?だったら、僕だけに届く音楽じゃダメだからさ」


…上から目線でキモいな。


「僕はギターやったことないけど、何事も基礎って言うだろ?」

「だからまあ一応。役に立つかわからないけど」

「…いらなかったら薪にでもくべてくれ」


差し出された本を受け取り、俯く少女。

コンクリートに落ちた朝露が光る。


…何か怒らせてしまっただろうか。

いや、まあ、下手って言ったけど、僕は好きってフォローしたし…噓じゃないし…


「…なんで、私なんかにこんなのくれるの」、少女は本の表紙を撫でながら呟く。


「え」


少女の言葉に思案する。

確かにパンのお礼で本ってのもおかしな話だよな。

……できなかったことをこの子に…。

いや、ない。だってそれは筆と同時に折っただろ。


「うーん、ファンみたいなもんだよ。例えば歌手を応援している人はさ、その人と会話したことないけど、音楽を聴いて、好きだから応援したいってなるだろ?そんな感じ」


「それにさ、頑張ってる人間には報われてほしいから」


なに恥ずかしい事言ってるんだ僕。

あーハズイ。一年前からギターは聞いていたが、話すのはほぼ始めたなんだぞ。

ホントキモいな僕。


「…ありがと」、少女は顔を上げて、ぱっと花を咲かせる。

朝露がついていた。


その後すぐに静かな河川沿いになる。

汚くて、二人だけの空間に少女の指で、ギターで騒音が鳴り響く。

車の音は聞こえない。

汚い川が、美しくない音が人を寄り付かせない。

完全に隔たれたライブ会場だった。


「パチパチ」


「ありがと」、少女は汗を飛ばし笑う。


いつもとは違う。“普通“がなくなってしまった。

先輩を思慕する毎日は消え、酷く辛いはずなのに。

なんか、別にいいやって思えてきてる。


この子が先輩に似ているからじゃない、ただ…なんだろう。言葉にはできない、というか無いんだと思う、この世界のどこにも。


満足した、帰ろ――


「あのさ、おじさん。自分語りさせて」、少女に呼びかけられる。

そういうのは友達に、って言いそうになったが辞めた。

その言葉は友人を持たない人間を傷つけてしまうから。


大体こんな僕に自分語りしようだなんて「友達いないから話したい」って言ってるのと同じだ。


「こんなじじいでよければ何でも聞くよ」


少女はギターをケースにしまい、「もうちょっと詰めて」と、汚れのない灰色のコンクリートを求めて、腰を掛ける。


「……私、“転生“しようと思うんだよね」


風が止まった。

世界の音が、ほんの少しだけ変わった気がした。

そよいでいた草木も完全に倒れこんでいる。


…意味が分からない。

隣に座る少女の顔を眺めるも、その表情は凛とし、自然の摂理を言ったかのような顔をしていた。

もしかしてこの子、夢見る少女じゃなくてただの厨二病?


「転生いいよねー、君も転生しよーと思ってるんだ、ふーん。結構おいしいって先輩も言ってたよー」


「もしかしておじさん、“転生“知らないの…?」


さっきまでは花のような笑顔だった顔から、すっと色がぬける。


「…“転生“ってなんですか」


自分よりも年下に教えを乞う僕。情けなさすぎる。

いや違う、これはジェネレーションギャップだ。僕は悪くない。


「一年前散々テレビとかでやってたよ、『新しい社会制度だー』って」


…ジェネレーションは関係ないみたいだ。


「あっ、でもそっかおじさん、家ない人だもんね」


「え、あ、うん。そう、家ないからさー」


家ない人間なら本など渡せないと思うのだが。

自分の無知を隠せて都合がいいし、そういう設定で。


…憐憫の視線が痛い。


「転生って言うのはね、自分の欠点や嫌いなところ、つまりコンプレックスをなくせるの」

「おじさん、コンプレックスわかる?」


馬鹿にしているのか、優しさなのか…


「流石に知ってるよ」


「良かった」


「でね、短気であることがコンプレックスの人がいるとするじゃん、その人が『怒りっぽさを消したい』って願って転生すると、あら不思議、その人は全く怒らない温厚な人になってしまうのです」


「マジで?洗脳とかじゃなくて?」


「うん」


それって人体改造みたいなもんだろ?

何で社会がそんなもん認めてんだよ…


「…転生の仕組みは?」


「詳しくは知らないけど、なんか黒い棺に入って自分のコンプレックスを思い浮かべるだけなんだってさ」


「…今までに何か事故とか起こって無いの?」


「・・・」


少女は手を顎に添えて、何かを思い出そうとしているように上を向く。


「うん、ニュースとかでも聞いたことない。学校でやったって言ってる人も、痛みも無くて一瞬だったって聞いた」

「それで、『あの方に感謝!』って誰かと話してた」


机に伏せてたら聞こえてきた会話なのかな…

あの方ってのは、誰なんだ?


「あの方って?」


「転生を制度化した人」


そうか…そうなのか。

崇められているのか……そりゃそうだよな、自分の嫌いなところを消せる制度なんて作ったら尊敬もされるか。


「へー、それで何で転生したいの?」


「“才能が無い“ってことを消すの」


「え」


「だ・か・ら、“才能が無い“ってことを消すの!」


「才能が無いってことがなくなれば残るのは、才能があるって事象だけでしょ?」


そうかな…?

僕にはそんな風に思えない。


「...それ、本当にそうなるのか?」


「わかんない。でもそう信じてる」

「だって、『才能がない』って思うこと自体がコンプレックスなんだもん」

「それが消えれば、少なくとも苦しまなくなる」

「...きっとギターも上手くなるよね」


最後の一言は、自分に言い聞かせるようなか細い声だった。

言いたくはないが……多分違うと思う。

そんなこと言えるわけない、だから、


「なんでそんなに、ギターにこだわるの?」


少女は少し黙る。

何かを我慢するように拳に力を入れたのが見えた。


「...お母さんがさ、ギタリストだったの」

少女はギターケースを抱く腕に力を込めた。

指の節々が白くなっているのがわかる。

大切なものの抱擁と、吐き出すことのできない痛みをギターに流し込んでいるように見えた。


「すごく上手くて、有名だったんだって」


「でも私はダメ」

「ずっとやっても全然上手くならない」

「お母さんの才能、受け継げなかったんだ」


「それで出て行っちゃった、一年前」


か細い声。

ギターの絃が微かに震えている。


「多分見限ったんだよ。見たくも信じたくもなかったんだよ、一世を風靡した自分の娘がこんなに無能だなんて」


少女の目が世界を綺麗に映し出していることがわかる。

お父さんは?なんて聞けるわけないよな。それもきっと事情がある。


「それで家も引き払って」

「今は、おばあちゃんのパン屋で暮らしてるの」


「...だからここで練習してるのか」


「うん。おばあちゃんの家狭いし」

「朝から仕込みで忙しいから、邪魔したくなくて」

「だから毎朝ここに来てる」

「誰もいない時間に、一人で」


「上手くなったらお母さん帰ってくるでしょ?」


少女はこちらを向き、首を傾ける。

その動きが、まるで質問の意味を測るようだった、肯定を求めているようだった。


毎朝暗いうちに起きて。

誰もいない河川敷に来て。

一人でギターを弾いて。


約一年間ずっと。

僕は見てきた、聞いてきた、一心不乱に不協和音を奏でる彼女を。

最初も、こんな手が凍り落ちるような、“例年にない“冬だった。

指の皮が切れて、血が滲んでいたんだ。

絃で切れ落ちてしまわないか不安がよぎったけど、彼女の演奏は命を燃やしているみたいで、全てを否定するみたいで――汚くてかっこよかった。


「…一年前から思ってたけど、すごいな」


「え」


「僕もさ、昔夢があったんだよ、諦めたけど」

「だから、すごいなって」


少女が指で髪をいじり始めた。

癖なのだろうか?

少しだけ頬が赤い。


「でも転生に逃げて“生まれ変わる“けどね」、少女は笑う。


“生まれ変わる“、どこかで聞いた言葉だ。


『生まれ変わってくる』


日向だ、日向からのメールだ。

あいつは転生したのか…?


「いつするの?」


「来週の週末、それまではいつも通り練習するよ」


「そっか」


別にそんな制度があるなら普通のことだと思う、才能に悩む少年少女が転生するなんて、ありふれていると思う。

だけどなんだろう、この子にはしてほしくない。

だって転生それは過去の自己否定、これまでの努力をした自分を、無意味にしてしまう気がするから。

この子の努力を見ているからしてほしくない。


それにそんな都合のいい制度があるわけがない。

何か裏があるに決まってる。


洗脳じゃないなら何をしてるんだ?

脳をいじるのか?薬を使うのか?

そして――本当にリスクはないのか?


「学校でやったって言ってる人も」と少女は言った。

つまり身近に転生者がいる。

一般普及している。


でも、その人たちは本当に「幸せ」なのか?

それとも、幸せだと「思い込まされている」だけじゃないのか?


…それを知るには、日向に会いに行けばいい。


腰を上げ、少女に背を向ける。


「もう行くの?」


「…今日はちょっと予定があって」

「最後に質問なんだけどいいかな?」


「うん、なに?」


「なんですぐに転生しなかったの?」


単純な疑問。

お母さんに戻って来てほしいならすぐに転生して、上手くなる可能性にかけるべきだ。少なくとも僕ならそうする。


「……さんの所為だよ」


俯く彼女の声はコンクリートに吸われ、上手く聞き取れなかった。

……さん?誰だ?、おばあさんかな。

それとも同級生か?


「ごめん、上手く聞こえなかった」


「……ギターを捨てる前に、私の音楽を上手って言ってくれる人がいたの」

「だから自分を信じてみたいと思ったの」


ぽつりとつぶやいた後。

息を吞む音が響き、少女がこちらに顔を向ける。

高架下を突き抜ける北風が赤毛を揺らし、倒れた草木を起こす。


「それに――

 ダメダメな私が誰よりも上手くなったら、母さんを見返せるでしょ?」


そう格好つける女の子の黒目はぶれて視線が合わない。

黒というより、灰かもしれない。

灰色の現実を直視しているからだろう。

結局、転生に走る自分に成り下がってしまったからだろう。


「そっか」


少女の声を、今にも崩れてしまいそうな表情を背に、コンクリートの階段を登る。

振り返れば、あの子はまたギターを弾いていた。

下手な音だ。だけど昨日より少しだけ強い音がする。


どうしてだろう。

あの音が聞こえなくなるのが少し怖かった。


ポケットのスマホに手を伸ばし、着信を確認する。

日向からの返事は未だにない。


「…明日、家尋ねてみるか」


少女の話を聞いた時……凄く醜い考えが浮かんだ。


「あの子なら“できる“」


だけど、まずは僕だ。



翌日の朝、僕は塗装が剝げ切ったベンチに腰を下ろしていた。

休日の地下鉄というのは混んでいなくていい。都会ぶった田舎は移動手段に乏しいから、平日だと圧死する。鉄かオイルの匂いがして焦げ臭いのは毎日だがな。


日向には「明日家行っていいか?」、とメールを送ったが返事はない。

転生の影響で返信ができない事情でもあるのだろうか。

足を組み換えたり本を読んでいると、すぐに電車がきた。


降りる人を優先し、緑色の座席に腰を掛ける。角の席が至高だ。

僕の家の最寄り駅から、日向の家まではおよそ十七分。

それまでは適当に本でも…


「ねえ、あたしさ、転生しようと思ってるんだ」


隣の女子高生(?)二人組が転生について話している。

盗み聞きはあまりよくないが、許せ!


「えーなんで?」


「彼氏から、『重い』って昨日言われちゃってさー」


「体重が?」


「違うわ!」


「あーい!」

「だから直そうと思ってー」


「でも転生って――」


こんなに浸透してるんだな…。

なんで僕は知らなかったんだろう、と思ったが当たり前だ。

ここ一年、日向と先輩以外まともに会話をした覚えが無い。

知らなくて当然だ。でも日向は知っていた。

そして転生した。直前まで僕に何も言わず。


あいつは明るくていい奴だった。

クラス総意で体育祭の団長に選ばれるくらいには。

僕の高校生活の中で唯一色がついている人間。

そんなやつが、自分を嫌うほどの何かを抱えていたのか。

僕は何も知らなかった。──いや、知ろうとしなかったのかもしれない。


そこらへんも会って問い詰めるとするか。

そうすれば、転生がどんなもんかも、あの子を止める方法もわかるはず。


まあそもそも、転生したと断言はできないのだが。


…きたか。

立っている者は自然に膝を曲げ、掴み手にぎゅっと力が入る。

この曲がりを越えた後…


「次は豊霧とよきり豊霧とよきり、左側の扉が開きます。」


ここが日向が住んでいる地域。

長かったようで短かった。

年を取ると時間の流れが速くなるという奴だろうか。

…何も変わっていませんように。


扉が開いたのを見て腰を上げる。

何かあったかもしれないという不安と、友達に会えるという高揚がある。

正直、会えるぞ!という小学生みたいな感情が上回ってる。

先日あったばかりなのに。


駅を出てすぐ右に曲がり、七~八分真っ直ぐ行くと、歩道橋とデカいマンションが見えてくる。その歩道橋を横目にし、右に曲がり真っ直ぐ。そうすると左手側にどこか西洋風の、屋根が黒、壁が白でできた一軒家が見えてくる。

車が来ていないことを確認して…ダッシュ!


相変わらず豪勢な家だ、これでローンを完済してるってのがすごいと思う。

「ピンポーン」、呼び鈴を鳴らす。

すぐに一軒家の扉が開き、前髪が上がり額が見える髪型で、清潔感を感じさせる男が出てくる。なんて言うんだっけあの髪型…アップバングショートって言うんだっけ…?


「おっ!桐野。どうした急に」、日向は「よっ」と右手を挙げている。


「いや、『生まれ変わる』って連絡あった後さ、既読つかなかったから心配で」


「マジで!お前やっぱりいい奴だな!」、日向は駆け寄ってき肩をたたいてくる。

こいつはいつもそうだ、僕と同年代なのに体育系のノリが消えていない。

それだけ学生時代が染み付いているということだろう。


「…そういうのいいから、何で連絡取れなかったんだよ」


「いやさ、お前に連絡した後、スマホをトイレに落としちまったんだよ。ハハハ!」


笑い事ではないのだが…

まあ、心配し損というのは何もなかったってことだから、いいか。


「それでさ、単刀直入に聞くけど」


「なんでも聞いてくれ。」、日向はニカっと歯茎をみせて笑う。

いつもの笑顔…じゃない。目が死んでる。


「お前、転生した?」


日向の笑みが消えて、玄関扉に手をかけている。


「中で話そうぜ。長くなりそうだ」


日向は扉を開けたまま奥へ歩いていく。

僕は少し躊躇してから家に入った。


中に入った瞬間、息が詰まるような静寂に包まれた。

天井は雪のように白く、そこからこぼれる淡い光が、黒い壁をわずかに照らしている。外装とは白黒が逆になっている。

まるで夜の中に昼が一枚だけ貼りついているようだった。

前はこんな感じじゃなかった。西洋風の外装に、まるで実家を感じさせるような庶民的な内装だったのに。


白い天井は高くも低くもなく、どこか曖昧な距離でこちらを見下ろしている。

光が壁に吸い込まれるたび、空気がひとつ沈む音がする。

黒い壁は塗料というより、何かを封じ込めたような重さを持っていた。

触れれば、指の跡すら飲み込んでしまいそうだ。


家具はほとんどない。

小さな机と椅子が一つずつ、そして、奥の壁に祈っている男の肖像画。

白い天井から垂れる裸電球が、黒い部屋に唯一の影を落とす。

その影がゆらぐたび、部屋全体が息をしているように見えた。


ここに長くいたら、自分という輪郭も溶けてしまう気がする。

白に照らされ、黒に飲まれ、ただ浮かぶ魂のように。


「…趣味変わったんだな。前はこんなんじゃなかった」


「あー、まあな」


日向が黒い闇に手を伸ばし、開く。

来客が来たとき用の物置も、黒に染まってしまったらしい。

持った椅子を僕の前に「どうぞ」というようにおいてくる。

腰を掛け、テーブルを挟んだ日向に目を向ける。


「白と黒が絶対だって気づいたんだよ」


「絶対?」


「無垢、つまりは白。それが人生どうちゅう、自分色に染まっていく。赤青緑、人の数だけ色がある。だけど最後には混じって死、黒に帰結する」


「…何が言いたいんだ?」


「最後が同じなら、人生どうちゅうなんていらないってこと」


前とは違う。この前ご飯に行ったときはこんなスピリチュアルなことを言う人間じゃなかった。

明るくて楽観的で、優秀だった。

いつも笑顔で、誰にでも優しいお前じゃない、日向じゃない。


「さっきの続き、お前転生した?」


「ああ、したよ」


肩透かしを喰らったようだった、いにしえのテレビ番組のように椅子から転げ落ちるとこだった。

あまりにも普通に口にした。

社会制度だから当たり前と言われればそうなのだが、こんなにも人を変える制度を語る口調がこんなもんか?もっとなんか深刻そうに…

社会的に忌避されていないことは分かったけど…


「なんでしたの?」


「人の目を気にしないようにするため」


人の目を気にする…?

お前が…?

体育祭でも、応援団長に選ばれるような人間だったろ。


「俺はさ、怖かったんだよ」

「誰かに嫌われることが」

「人に注目されることが」


真っ直ぐ、濁りなきまなこ

その水晶体に僕は映っていない。

見つめているのはきっと、消したかった自分。

顔から、瞳から腕から体から、全てから“負“を感じる。


「…矛盾してる。だったら何で体育祭で団長なんて務めた?」


日向が一瞬だけ息を詰まらせた。

黒い壁に囲まれた部屋で、その沈黙が重く響く。


「矛盾なんてしてないさ。嫌われたくなかったからだよ」

「笑ってれば、誰にも嫌われない。そう思ってた」

「感じのいい奴、ノリのいい奴、面白い奴」

「全部“嫌われないための顔”だったんだ」


唾液が胃に落とされる音だけが耳に届く。

さも惨劇を語るように言葉を綴る。


「だから文化祭の団長も断れなかった」

「断ったら、きっと嫌われる。だから引き受けた」

「放課後も練習して、毎日笑って。

 当日、ステージに立った瞬間、世界がぐにゃって歪んだ」


「目の前の人の波、無数のスマホ。

 誰かの笑い声が聞こえて、心臓がそれをかき消そうと暴れた」


僕が、皆が思い出だと思っていた出来事を、さも凄惨な事件のように口にした。

消えぬ苦悩が今までも苦しめてきたのだろう…


「……俺は、お前と同じ二十七になっても、あの日を忘れたことがない」


そんな悩みを抱えてたんだな…

日向がずっと学生のようだったのは、いい思い出からじゃないんだ。

忘れられないトラウマがずっと、錆のようにこびりついていたから。


「もしかしてさ、僕がたまにご飯に誘ったりするのも嫌だった?」


「いや、それは全然」

「だってお前はさ、変に煽ってこないし、写真も撮らないじゃん」

「SNSもやってないし。アカウントの作り方もわかんないだろ?」


多分馬鹿にされているので、分かるわ!と言いたいとこだが言えない。

だって本当に作り方わかんないもん。

今のバイト先だって、なんか「インステ(?)」とかいうSNSで募集しているようだったが、アカウントの作り方が分からなかったため、直接「働かせてください!」と言ったくらいだ。


「うん、わからん」


「ハハハ、だろ?」

「ネットで誰かと悪口を言うみたいなこともなさそうだったからさ」

「お前とはずっと楽しかった」


「そ、そうか」


…よくもまあこっぱずかしいことを言えるな。

こいつがモテてた理由が分かる気がする。

――そして誰とも付き合わなかった理由も。


「今はさ、大丈夫なの?人の目」


「うん、転生で大丈夫になった」


「そっか」


黒と白に執着を持ったこと以外は、普通の日向だ。

目は少し虚ろだけど、これは疲れてるだけかもしれない。

さっき「日向じゃない」と思ったけど、多分僕の考えすぎ。

転生は都合が良すぎて何か裏があると思ったが、受けた人がこんなに笑顔で生活できてるんだ。

また、心配のし損だ――


「気づいたんだよ」


「え」


「あの方と比べれば、人なんて塵なんだ。だから目線なんて気にすることはない」


「何言って…?」


日向の目が完全死んだ。

自然に拳に力が入る。


「あの方から見れば、人間はみな平等なんだよ。全てがどんぐりの背比べに過ぎない。だからさ、争う必要ないんだよ。人同士で比べるなんて無意味なんだよ」

「比べることは無意味、あの方のもとで安らかに生きること、それが人類の意味なんだって」


…意味が分からない。

先程まで穏やかな顔で座っていた友人が、その顔をトレースした化け物になっている。

その目は虚ろというより虚無で、視線が交わることはなかった。

あれはもう目じゃない、

越えたら戻れない境界を越えた――ブラックホール。


「…お前、何言ってんだ?比べることと、お前の悩みに何の関係があるんだよ」


「あるよ、悩みの根源をたどれば、全ては他者との比較にたどり着くんだ」

「その比較から、『あいつはあんなにカッコいいのに』、『あの子はあんなに可愛いのに』と言った劣等感、それが元になって俺は悩んでいた。人と比べて自信を喪失していた」


「人はさ、一番を求めて争うんだよ。だけど、あの方がいればそんなことはなくなる。あの方は“絶対“なんだ。人間よりも格上で、超えることなどできない“絶対“」


「……一番って」


「分かりやすく言うならスポーツだ」

「全員が一番を目指して争ってる、サッカー、野球、バスケ、競歩みたいな馬鹿げた競技でさえも」

「だけど、超えられない一番がいるとしたら、桐野。お前はどうする」


「……勝つまで戦う」


日向の目つきが鋭くなり、こちらに刺すような視線を投げてくる。


「噓をつくな」


……まあ、そうだよな。

高校時代、よく二人で過ごしてたもんな。

日向は僕のことを知っている。


「お前がそんな思考で生きてきたなら、夢を諦めることなんてしなかったはずだ」

「違うか?」

「それに高校だって」

「俺はお前と――」


「――違わないよ」


ああそうだ、何も違わない。

僕は諦めた人間だ。

自分になら出来ると自信過剰になって、全てを捨てたのに諦めた。


日向は満足そうに頷く。


「そうだろ?」

「お前は、いやお前だけじゃない。全ての人間が諦めるはずだ」

「そうしたら誰もスポーツをやらなくなる――」


日向の口元がゆっくりと歪んだ。


「――誰も争わなくなる」


日向の不気味な笑顔に何も言えなかった。

確かに、今言ったことは正しいと思う。

誰もが絶対に勝てない存在を認知していれば、何かにつけて争うことはなくなるだろう。自分だけがどれだけ幸せに手を伸ばしても、結局は“絶対“より下。

つまり傲慢でプライドが高い人間の心がへし折れ、温厚で穏やか人間が残るということ。勝てないのなら、争う理由もない。

でも、きっと諦めの悪い馬鹿もたくさんいると思う。


「…それって、生きてる意味あるのか?」


「・・・」


「いや僕頭良くないからさ」

「今すぐには、お前の言ってることに反論できない」

「僕も、誰も争わない世界になればいいと思う」


「でも」


言葉を探せ、“あの頃“のように。

分かりやすくてカッコいい言葉を。

現実的じゃなくて、物語的な。


「その世界――"個"が無いよな」


「それってつまらなくないか?」


静寂が僕たちを包む。

日向は俯いて、口をつぐんでいる。

何か言葉を選んでいるのだろうか。

緊張の糸が張り巡らされた息遣い、肩の揺れ、床と擦れる足の音。

全てが僕の心音を高鳴らせる。


「…ふっ」


「アハハハハ、ハハハハハ!」


日向は笑い出した。

甲高い声でサイレンのように。止まらない。


「そうか!生きる意味か、そうなるよな!だってお前はあの方の声を聴いてないもんな!」


日向は立ち上がり、テーブルに両手を乗せている。

目が異常に見開かれている。

瞳孔は拡大し、まるで薬物中毒者のようだ。

あまりにも酷い顔だ…

思わず息を呑んだ。


「生きる意味は転生と同時に与えられる、『安息に身を置け』ってな」


「…誰に?」


日向はゆっくりと、祈る男の肖像画に視線を滑らせた。

光を反射したその絵の目が、一瞬こちらを見た気がした。


「あの方だ」


急にハイになったかと思えば、無表情に色褪せる。

テンションの寒暖差で風邪を引きそうだ…


「…あの絵の人に、言われたのか?」


「ああ、あれは神様だ。誰も泣かないようにこの世界を変えようとする、善なる神様」


日向の目は絵を見つめている。まるで恋人を見るように。


「そうだ!桐野、お前も転生したらどうだ?」


「・・・」

言葉が出ない。


「自分のこういうとこが嫌、ああいうところが嫌」

「誰にだってある。桐野、お前にもあるだろ?」


「・・・」

ある。


「転生したら、その悩みも消える、幸せになれるぞ」


「・・・」

黙っている。


…何も言えない。

だって――


転生したかったから。


少女に転生をして欲しくないからなんて建前だ。

もちろんあの子の音楽は大好きだ。

変わってなんて欲しくない。


でも――

そんなことよりも自分だ。


僕は僕自身のために、転生のリスクがないかを日向に聞きに来たんだ。


凄く醜い、気持ちの悪い考えで。

転生すれば、今の緩やかな自殺のような人生を変えれる気がした、夢をもう一度見れる気がした。


「言わなくても顔に書いてある。桐野、お前も転生したかったんだな」


「…ああ、もちろん。誰だってやりたいだろ、リスク一つなく自分を変えれるんだとしたら」


「そっかじゃあ――」


「お前も言ったが、“したかった“、過去形だ」


だけど違う。転生は僕が思っていたような制度じゃない。


「は?何で?」


「だってリスクあるじゃん。それも100%の」


「どこが?」


「今の日向みたいになる」、日向は首を傾げる。


「俺みたいに?」


「ああ」


「何が問題なんだ?」


本気でわからないという顔をしている。


「俺は幸せだぞ」

「悩みもない。争いもない」

「あの方のもとで、安らかに生きている」


「…それが問題なんだよ」


「意味がわからない」


会話が噛み合わない。


「僕さ、自分嫌いだけど好きなんだよね」

「もちろん、三年片思いしてただけで一ミリも行動してないところとか、惨めだなーって思ったり」

「建前を使って善人ぶってるところとか、キモいなーって思うけどさ」


背もたれに体重を掛ける。

一度息を吸って天井を見上げる。

白がまぶしくて黒が遠い。


「でもさ、人に好かれないような音楽を好きになれるようなとこは、好きなんだよね」

「他人が何を選んでも、自分の中で“これがいい”って思える瞬間がある」

「好きなんだよねー、そういうとこ」

「自分で言うのもキモいけどね」


「何が言いてえんだ、桐野」


「うーんとね、つまり“じぶん“を失いたくないってこと」

「今の日向は日向じゃないよ」

「転生で変わっちゃった、価値観、趣味嗜好、何から何まで」


「俺は自分が変わったなんて思ってない。変わったんじゃなくて悟ったんだ」


バカだからわからんが、悟ったと変わったって何が違うんだろう。


「そっか」


「まあ桐野。つまりお前は転生に対して不信感があるってことだな」


少し違うけどまあいいか。


「じゃあ、これ行ってみろよ」


日向はジーパンのポケットから、四つ折りになった紙を取り出し、僕の前に差し出してくる。


なんだこれ、「転生説明会」?

紙にはカラフルな文字でそう書かれている。

えっーと、「転生装置製作者とマンツーマンで話ができる!転生に関して不安なこと、分からないこと全てお答えします!」

…なるほど。


「これ、いつでも何時でも相談できるんだぜ」

「これでお前の不安もなくなるだろ?」


「いまどき電話で相談不可なんて珍しくないか?」


「ん?そうか?まあ、あの方に会って話せるんだ、電話なんて失礼だろ」


へー、転生を作ったのも日向が信仰してる人間なのか。

てっきり象徴的な存在だと思っていた。

実在しない、架空の人物かと。


……なんでこんな人格改変みたいな制度に、誰も文句を言わないんだろう。


おかしい。

明らかにおかしい。


でもみんな受け入れている。

日向も、電車の女子高生も、あの女の子も。


なぜだ?


…聞けばわかるな。


あの子を止める理由になるかはわからない。

けど、“転生”がどんなものか、自分の目で見てみたい。


「まあ明日にでも行ってみるよ」


日向は満足そうに笑った。


「そうか、良かった」


帰るか、転生について知れたし、日向は元気そうだし。

…狂信者みたいになっちゃったけど。

……諸行無常として飲み込んでいくしかない。


あ、そうだ


「あのさ、日向」

「質問というか、転生じゃ解決しない悩みなんだけど」


「…なんだ?」


「一人の女の子がいるんだよ、その子さ、ギターが上手くなりたいから転生したいって言うんだけど、どうやったら止められるかな?」


「なんで止める?転生すればその子は幸せになれるだろ」


今のこいつに聞いた僕が馬鹿だった…。


「…ははは、そうだね」


「ああ」


「じゃあ、元気そうな顔も見れたし、帰るわ」


椅子から腰を上げる。

足音が妙に響く。

振り返らない。

玄関に向かって歩く。

ドアノブに手をかけた瞬間、背中にやけに穏やかな声が落ちてきた。


「桐野」


「……ん?」


「その子も、すぐ“悟る”よ」


空気が静かに止まった。

僕は振り返らなかった。

日向はそんなことを言わなかった。

相談したら、いつも真剣に相手をしてくれた。

……ああ、確信したよ

――日向はもういない。


「じゃあな」


来た道を戻る。

白と黒に染められた西洋風の建物を、決して振り返らずに。

日向は手を振っているだろうか、こちらを見ているだろうか。


…いつもは駅までついてきてくれたのに。


空気が肌を刺す、吐く息がいつもより白い。

ぬくもりがない。

一人で見る帰り道は新鮮だった。

どこでも変わらない朝日をうざったく感じるくらいには。


…駅までこんなに遠かったっけな。



“まもなく電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください“


気がつくと、地下鉄のベンチに腰をかけていた。

十時十四分着の電車が来る時間まで、小説を読むわけでもなく、スマホを触るわけでもなく、ただ天井のシミを数えるように仰ぎ見ていた。


あ、電車がきた。


鞄を腰に回し歩く。

席は角が至高なのだが、どうも開いてない。

立つか。



はあ…どっと疲れた。

まだ十時過ぎだというのに…。

バイトのない日にあまり労力を使いたくないのだが…

それに朝も食べてないからお腹が空いた。

家帰える前になんか食べるか。


「次は境坂さかいざか境坂さかいざが


なんか、早かったな。



ふわぁー、お日様が気持ちいい。

地下鉄という閉塞された空間から出た時の開放感、たまらんね。

よし、久々の贅沢、ラーメン屋でも行くか――


「…」


バターの芳醇が冬の呼吸と溶け合い、鼻腔が一瞬だけ暖かくなる。

酵母が顔を舐めまわすような感覚に襲われる。

多分パンの匂い。

実質の昼ご飯にパン、それも悪くはないか。

匂いが漂ってくる方向に足を進める。


駅から離れ、路地を抜け、汚い川を横切り、見えてきたのは木のテラスがある家。

入口には、「雪切ベーカリー」と彫られた木が提げられている。

こういう個人店って、一見さんお断り!みたいな雰囲気が出てて入りにくい…

入口から見る分には客はいなさそうで、古めかしき雰囲気が漂うよさげなお店だけど。


それにしても綺麗な内装だ。


木組みの梁に、素朴であるが入口から奥の陳列棚にまで引き込まれるような配置。

スーパーで働いている分、人を引き込むような陳列方法はわきまえているが、個人の店がこれほどの工夫をしているとは…

極めつけはレジ手前に置かれている、亀の形をしたパンだ。


あれは――凄い可愛い。

あれが気になりこの店に入った人間は、道頓堀に飛び込む馬鹿より多いだろう。


「クッソ…あの亀食べたい…」


しかし僕は入らない。

なぜなら気まずいから。


「何してるの?」


「ひっ!!」


思わず“バンと“ドアを開きパン屋に倒れこむ。

何で押すタイプなんだよ!

ゆっくり息を整え背後を振り返ると、そこにはあのギター少女がいた。


「な、なんでここに」


「なんでって、ここおばあちゃんの家だし」


あ、言ってたな。パン屋のおばあちゃんって

ここなんだ。

腰を上げ、埃をはらう。


「へえー、そうだったんだ」

「じゃあ僕は今から用事があるから、また川で」


「え、買いに来たんじゃないの?」


「いや、全然」


「だって、『亀食べたい』って言ってたじゃん」


まさか…声に出てたか?

だとしたら恥ずすぎるだろ…二十七の男がパン屋に入る覚悟無しに、亀を眺めていたところを見られた…


「お金は私が払うからさ、おじさんあっちのテラスで待っててよ」


「いや、それは――」


「いいって、ほらいったいった」


そのセリフ、どちらかというと追い払う時では…



日に照らされ、温まった椅子に腰を掛ける。

ガラス越しにパン屋の中が見えるようになっていて、個人経営とは思えないほどシャレオツだ。


「ばあちゃん、カメのパン二つもらうね」、少女の声が聞こえた。

奢ると言っていたが、少女はお金を払う素振りは一切見せず、トレーに乗せている。

パン屋の子供はただで商品を食べられるのだろうか…?


「おじさん、お待たせ」


トレーを持った少女が対面に座る。


「ありがとう」


「いいって」


パンを取り、即座に口に運んだ。

口の中に緑の甲羅、メロンパンの甘いパンの匂い。

顔を食べるのは少し勇気がいったが、口に入れてみれば一瞬、凄い美味い。

目の位置につけられたチョコチップがいい塩梅だ。


あ、なくなっちゃった。


「ごちそうさま」


「お粗末様」


対面の少女は僕が頬張っているうちに既に食べ終わっていた。

タイパというだろうか。


「あのさ、なんで僕なんかに優しくしてくれるの?」


「え、だって私のファンでしょ?」


「うん、まあそうだけど。キモくないのかなって」


「別に?たった一人のファンをキモいだなんて思わないよ」


なんだろう、何かわかんないけど嬉しい。

手の届かない推しに貢ぐ人間の気持ちが分かった気がする。


「あ、てかさ、私、雪切ゆきぎりつる


「え」


「名前だよ。推しの知らないだなんておかしな話でしょ?」


…正直知りたくなかった。

知らなければ楽だっただろうな。この子が日向みたいになっても「まあしょうがないか」ですませれたのになあ…

例年にない冬で終わらせられたのに……


「おじさんの名前は?」


「あー、知らなくていいんじゃないかな。ファンの名前なんて覚えなくていいよ」


「いや、教えてよ。なんか言えない理由でもあるの?指名手配犯とか?」


「そんなんじゃないけど…」


仲良くはなりたくない。

あんまり知りたくない、感情移入したくないから。


「あら絃ちゃん。お友達?」

俯き言葉を選んでいると、声が聞こえてきた。

女の子の横に、笑いジワがくっきりと彫られた顔つきの老いた女性が立っていた。


「ううん、ファンの……いや、友達」


「あら…!」


おばあさんは純白のエプロンのポケットからハンカチを取り出し、目元に当て、「うっ……」と嗚咽を漏らしている。


「ちょっと何で泣いてるの!」


「だ、だって、絃ちゃん学校でもお友達いないって…言ってたから…」


「……それ言わないでよ」


少女が耳まで真っ赤にして、カメのパンの皿を手で隠す。

おばあさんは申し訳なさそうに笑い、皺の間から「ごめんねぇ」と声を漏らした。


「あはは…」

なんだこの空気、凄い居た堪れない。

けど不思議と嫌じゃない。

静かに温かい誰かの生活の匂いがする。


家族という関係に触れるのは何年ぶりだろう。


おばあさんはハンカチをしまい、僕の手を握り締めてくる。


「絃ちゃんはね、人見知りがちょっと激しいだけでとってもいい子なの。ギターだってね、すっごく上手なのよ。だから、どうか仲良くしてあげて?」

おばあさんの温もりが直に伝わる。

孫思いのいいおばあさんだ。


絃はおばあさんを僕から引きはがそうと、エプロンを引っ張っている。


「…そういうのいいから!まだ仕事があるでしょ!」


少女の顔のほてりを見てか、おばあさんは笑い。

「おせっかいだったね、ごめんね」といい店の中に戻っていく。

生活の匂いは消えた。


「友達いないんだね」


「なに?悪い?」、少女はテーブルに肘をつき、顔を支えている。


「いや、それなのに何で僕なんかに話しかけてくれたのかなって」

「初めて話しかけてくれたとき、学校の人間に話しかけるより勇気必要じゃなかった?」


単純な疑問だった。

だって、人見知りの少女が僕に、練習場にいつもいるホームレスに話しかけるわけがない。

少女は肘をついていた腕を離し、指で髪をいじっている。

前髪を整えようとしているのだろうか?

逆に崩れているということを伝えた方がいいだろうか?


「…おじさんだよ」


「え」


「最初に話しかけてくれたのはおじさんだよ」


僕から?…全く記憶にない。


「…いつ?」


「あのどぶ川で『上手だね』って、おじさんの方から話しかけてくれた」

「あの時さ、お母さんがいなくなってさ、辛くてさ、ギターが大嫌いになってさ」

「最後、適当に弾いてギター捨てようと思ってたんだよね」

「そしたらおじさんが、『上手だね、なんて曲?』って…」


そんなこと言ったけ……?


「ただの不協和音をさ…曲として認識してさ…『馬鹿だなぁ…』って」

「でも――」


「――凄い嬉しかった」


少女は顔を真っ赤にしながらも、つたない言葉で話してくれた。


「あれのおかげでさ、私なんかでも誰かにとどくんだなって」

「自分をもうちょっとだけ信じたいと思った」

「だから、お礼」

「それにあの時嬉しくって、無視しちゃったからさ」


…全部思い出した。少女に曲名を聞いて無視されたんだったな。

それで、「じじいから急に話しかけられたらキモいか」ってなって拍手だけするようになったんだ。


「だけど、転生するんだね」


「うん、おじさんのおかげで頑張ろうって思えたけど、やっぱ才能なかったからさ」

「お母さんに届くような曲は、転生なしには無理そうだしさ」

「でも、ギターで転生したいと思えたのはおじさんのおかげだよ」

「最初は人見知りを治そうとしてたから」

「ありがとう」


僕のおかげ…僕の所為…

嫌だなあ、この子が日向みたいになるの。


「あのさ」


「なに?」


「転生してほしくないって言ったら、止めてくれる?」

「一ファンの頼みなんだけど」


絃は膝に手をつき、真剣なまなざしで見つめてくる。

先ほどのほのぼりとした雰囲気は流れ去り、冬の始まりを感じさせる空気が漂う。

髪をたなびかせる風は止み、少女は俯く。


「無理だよ」


帰ってきたのは当然の答え。迷いなど感じられないほどの返答。

ただのおじさんの願いを聞いてくれるはずがない。

だって世間では転生は崇められているんだろうし。

この子の人生の曙光しょこうにあたるものなんだろう。


「何で……転生するんだっけ?」


「前も言ったと思うけど、お母さんに戻って来てほしいから」


……あまり言いたくはないが言うしかない。


「でもさ、急にいなくなったんだろ?母親。ギターが上手くなったって、それで帰ってくるもんなのか?」

「それに“才能がない”を消したところで、何かが生まれるわけじゃないよ、きっと」


…言い過ぎたかな。

絃は俯いて肩を震わせている。


「…おじさん、上手くなってほしいって言ってたじゃん」


「上手くなって欲しいけどさ、転生はしてほしくない」


「…じゃあ、上手くなる方法教えてよ」

「私、小学生から今までずっと練習して来た」

「でも全然上手くなんない」

「いっぱい聞かされてきたけど音の違いなんて分からない、マルチタスクなんてできない」

「お母さんにいっぱい怒られた、『私があなたくらいの時には簡単に弾けてた』って」


今にも溢れんとしている“哀“を目元に溜めてる。

僕には分からない。アニメでも漫画でもないのだから、この子の言葉を皮切りに回想シーンが始まったり、頭に映像が流れ込んでくるわけでもない。

だけど、その“哀“が少女には重すぎることはわかる。


「人と話すのも苦手、ギタリストの娘なのにギターの才能は一つもない」

「こんな…ダメ人間」

「転生なしで…どうすればいいの…?」


僕は何も言えなかった。

答えは多分簡単なんだと思う、

僕が言葉を取り消せばいいんだ。

でも、嫌だ。

“僕のために“、絃には転生を辞めてもらわないといけない、いや、実際には絃じゃなくてもいいけど…


「・・・」


「なんか言ってよ、おじさん」


「…必ず君を説得して見せる」


「そう、頑張って、無理だろうけど」


絃は空になったトレーを持ち、パン屋に入っていく。

テラスには僕一人。肘をつき、冷風に身を震わせる。


女の子を泣かせてしまった。

体を悪くするほどのパンの甘みはなくなり、残ったのは罪悪感と言う辛酸。

はあ…「説得」か。

できるわけないよな。


でも、絃が転生するのは来週の週末。

まだ時間はある。――少しだけ頑張ってみるか。



来週、バイトは全部変わってもらった。

こういう時趣味が「貯金」でよかったと思う。

あの後すぐに帰宅して、気づけば眠っていた。

目が覚めても昨日の絃の泣き顔がずっと残っている。


そして今、僕はまた臭い地下鉄のベンチに腰をかけている。

最近外に出ることが多くなった。

良いことなのか、悪いことなのか。


絃の転生を止めるためだ。

けど正直に言えば、僕の気持ちは軽い。

「転生してほしくないなー」程度。

説得できなくても構わない。だって、僕の人生じゃないし。

“あの子“じゃなくていい。


あの時、「必ず説得してみせる」と言ったのはただの格好つけだ。

でも――できるかもしれないのに何もしないのは、後味が悪い。


それにあの不協和音をもう少しだけ聞いていたい。

そんなことを考えているとすぐに電車がきた。


はあー……行きたくないな。

足を運び、隅の席に腰を掛ける。


今から行くのは転生説明会じゃない。

実家だ。


絃は子供だ。何歳かわ知らないけど。

子供の気持ちが分かるのは、やっぱり親。

だから聞きに行く――頼み事も兼ねて。

あと、和解。


十八で家を飛び出してから、一度も帰っていない。

母さんとも、姉とも、連絡を取っていない。

大喧嘩をしてそれっきりだ。


あの時の僕は、幼児的万能感に酔っていた。

何もかも捨てても、夢を叶えれば全てが報われると思っていた。

「夢を追いたい」と啖呵を切って、夜のホームを歩き出した。


……現実はそんなに優しくなかった。

同年代の格上たちに劣等感を抱き、地に伏せた。

バイト三昧の生活。夢のかけらすら掴めない日々。

夢は米と一緒に胃酸で溶かした。


情けなくて嫌になる。母さんに笑われるだろうな…いや呆れられるか。

でも、それでも、今さらでも帰ろうと思えたのは、

あの子を止めたいからだろう。

……間違ってないよな?


「次は、宮ノ沢、宮ノ沢」


早かった。


久々に着いた駅のホームは綺麗になっており。落ちているゴミすらなければ、天井のシミなど一つもない。

改札機もだいぶ新調されている。エスカレーターなんてなかったのにな。

二番出口を出て吸う空気は、昔感じたものではないような気がする。

九年ぶりに帰ってきた場所、地下鉄で三十分だけ離れた地元なのに、こっちの空気は美味しくない。


…行こう。



家の前に立つのは、九年ぶりだった。

朝の光が薄く撫でる屋根瓦、錆びたポスト、雑草が生い茂る庭。

僕が住んでいたときはもっと綺麗だった。

いつも母さんが几帳面に、どうでもいいと思えるような所まで手入れをしていたのだ…何かあったのだろうか。



『ピンポーン』、チャイムを押す指が、思ったよりも震えていた。


ギイと唸る引き戸から顔をのぞかせたのは姉。

髪が短くなっていて、目元の雰囲気も違う。

生気を感じない、僕の知っている姉じゃない。

何かがあったんだ。

…最初の一言で全部わかった。


「……遅かったね」


すぐには理解できなかった。

けれどその沈黙の間にすべてを悟った。


「上がりなよ」


「…うん」


久々に帰った実家は何も変わっていない、ほつれた畳に、灰がたまった囲炉裏、くろんずんでいたり穴が開いていたりする障子。

囲炉裏は、パチパチと聞きなれた懐かしの音で騒いでいる。

火花が飛び散り、燃えてしまいそうなくらいの距離に座布団を近づけ、腰を降ろす。

座布団には綿がほとんど入っていないのか、地面の硬さを感じる。

昔は、よく跳ねてあそんだなぁ…

身長が刻まれた柱も懐かしい。

母さんが誕生日に毎回測っていた。


……その母さんは見当たらない。

囲炉裏を挟んだ向かい側に姉が腰を「よし」と言いながら腰を降ろす。


「お母さん、あんたが出て行ってすぐ、癌で亡くなっちゃった」


世界が一拍遅れて回り始める。

テレビの音、風の音、姉の呼吸。

どれも現実感がなかった。


「…なんで連絡してくれなかったんだよ」


「お母さんが連絡するなって言ったの」


僕のことそんなに嫌いだったんだな。

……当然か。親不孝者が過ぎるし。


「葬式は?」


「あんたが知らない内に挙げた」


実母の葬式にすら呼ばれない……


「そんなことよりも、夢は叶ったの?」


「……いや、諦めたよ」


…これが嫌だった。

啖呵を切って飛び出した家にこれを告げるのが億劫だった。

何を言われるだろうか…

馬鹿にされるだろうか……?

失望されるだろうか?

それとも、ただ呆れられるだけか?


「そっか」


なんでもないような返答。

失望など、呆然などなく、ただ無関心。

まるで最初から分かっていたかのように。


「良かったよ、その年齢で夢だのなんだの言ってたら、ひっぱたくところだった」


「うん」


「まあさ、あんたお墓参り行ってきなよ」


「え…」


「“え“って、母親でしょ。ただでさえ不孝者なんだから、お墓参りくらい行きなさい」


そう言い、姉は棚から線香とライターを取り出し、手のひらに乗せてきた。

線香の箱は白く、埃をかぶっている。それに未開封だ。


「お母さんがあんたに遺したライター」

「お母さんはあんたの事、思ってるより嫌ってないよ」


そう……なのだろうか。


「お墓の場所はおばあちゃんと同じだから」


「分かった」僕は玄関に足を運びながら答えた。


墓参り。

絃の相談をしに来たのに、こんなことになるなんて。

目的からどんどん離れていく。


ススキが無言の風に煽られる畑を歩いていると、憂鬱に包まれる。

思春期特有の感情に侵されている少女に手を指し伸ばす方法を、母親ならわかると思ったのだが、亡くなっていた。

久々に帰ってきた実家に残っていたのは、僕を苛める灰色の空間。

あらゆる所に埃が溜まっていた。

普段のきれい好きの姉からは考えられない。

…それだけ壮絶な最期だったのだろう。


「…僕は死に目にすら会えなかった」


家を飛び出したり、喧嘩したり、色々あるけど、多分それが一番の親不孝だと思う。

姉がいたことだけが救いだと思う。

だけど、悲しくはない。涙も出ない。

今、墓地へ向かう足取りも驚くほど軽い。

風が冷たくて、心臓の動きだけが無駄に正確だ。


…未だに母親のことが嫌いなんだろう。

夢を否定された、あの日のままの気持ちで止まっている。


適当に墓参りを済ませて、頼みごとを聞いてもらって帰ろう。


墓地は山の麓にある。

無駄に広い駐車場が空っぽなのはいつも通り。

昔は「近道」と言ってよく母さんと通った獣道は、もうきれいに舗装されている。


アスファルトの隙間から、ススキが首を出して揺れている。

踏みつけられてもまた立ち上がる。


……僕とは正反対だな。


石段を上るたびに、靴底から湿った砂の感触が伝わる。

周囲には誰もいない。

ただ、カラスの鳴き声と、どこかで枯葉を踏む音だけが響いていた。


石段を上がると、十一月とは思えない風景が広がっていた。

薄い幸を表すかのような、

淡いピンクの

――桜が咲いていた。


十月桜という奴だろうか。

旧暦の十月は大体現代の十一月なんだっけ。

夏でニット帽を被ってるみたいな間抜けさがあるが、きれいだと思う。


「……桐野桜」


桜の木の下、母の墓が立っていた。

少し腰を下ろし母の名前と目線を合わせる。


「…ただいま」


添えられた花は色褪せている。

誰にも触れられない孤独な時間を過ごしていたのだろう。

孤独…ではないか。ここには母さんだけじゃないばあちゃんもいる。


お尻を地面につけ、あぐらをかく。


線香に火をつける。

煙がまっすぐ曇天に上っていく。


「...母さん」


何を言えばいいんだろう。


「ごめん、とか言えばいいのかな」


でも、謝りたくない。僕は間違ってない。

夢を追うことは悪いことじゃないはずだ。


「…言われた通りだったよ」

「『あんたには絶対無理だって』、ただ僕を否定したくて言った言葉じゃなかったって、灰色の現実に揉まれた時に気づいたよ」

「僕は逃げ癖が酷くてさ、自分では輝けない人間なんだって」

「誰かを心打つような小説は…書けなかったよ」


小説家を目指していたずっと。

理由は簡単だ、何かを作り出したかったから。

絃と一緒。無価値な自分に価値を付けたかったから。

普通で終わりたくなかったから。


最初は絵を描いた。

一番分かりやすくて、簡単だと思ったから。

でも違った。

体の構造、パース、円柱などに置き換える抽象化能力、一つもなかった。

だから文字に逃げた。

文字は定型が決まっている。簡単だと思っていた。

ずっと上手くならなかった絵とは違って、書き続けていればいつか誰かに届くと思った。

実際はそんなことなくて、二十三で出した新人賞に、十八才の少年が受賞していた。

その子の本に綴られている言葉は、僕の雑草のような言葉とは違って、生き生きとしていて生命に溢れていた。

肌を、耳を、舌を、鼻を、全てを刺激された。

――そして心が、ペンが折れた。


折ったんじゃない、折れたんだ。

才能というものはあるのだと。自分は普通未満なのだと。

何かを目指してはいけない人間なのだと。


「今はさ、適当にバイトして生きてるんだ」


吐いた言葉は風に削られ、誰の返答も生まない。


「なんでこんな話をしに来たかって?」

「簡単だよ、酒の肴にしてほしかったから」

「笑い話にでもなれば救われるからさ」


突風が吹いて、桜が舞う。

僕を嘲笑うように。

……曇天は今日にとても相応しいと思う。


「考えれば、夢は叶うって言葉は叶った人間からしか聞かなかった」

「敗れた人間は社会の泥濘でいねいに沈むだけ」


冷気が僕を温めるように肌にまとわりついてくる。

自分という人間を顧みて、本当に情けなくなる。

大理石に刻まれた母の名前を見ることができない。


「まあもう自分語りはいいや」

「今日は姉さんに頼まれて来ただけだからもう帰るね」


死者が眠る大地に言葉が響く。

さぞ煩わしいだろう。


「起きてきたりしてな」


あぐらを崩して、立ち上がる。

膝が石の冷たさを忘れた頃に、母さんの墓を背にする。


…ん?


お墓の一角、石で出来た戸棚のようなものに、錆びた箱がある。

一斗缶と言うには長方形過ぎるか。

誰かが置いていった供え物の残骸か、それとも――ただのゴミか。


桜の花びらがその上に一枚落ちた。

それを払って手に取ると、鉄の冷たさが掌に吸いつくように伝わる。


「なんだこれ……」


周りを見渡しても、人の気配はない。

箱の中で何かが擦れる音がした。


「……開かねぇな」


雨に打たれ、雪に降られ、錆が積もったのだろう。


「わ!」


力を入れた瞬間、鈍い音とともに体が後ろへ倒れた。

土埃と一緒に蓋がどこかへ転がっていく。

立ち上がって覗き込むと、中には古びた封筒が一通。


「なにこれ……」


もともと白かったであろう紙は黄ばみ、角がふやけて波打っている。

表には、拙い筆跡で――「Dear息子へ」

裏には、「母より」。


「……Dear Son、じゃないのかよ」

それに名前で書いてくれよ。小さく笑ってみせる。

けれどその笑いは、すぐに喉の奥で消えた。


癌の闘病中に書いたのだろうか。

震えるような筆跡が、時間の経過を物語っていた。

その時、母さんはどんな顔でこれを書いたのだろう――。


「嫌だなあ…開けたくない。どんな恨み言が書かれてるか分かったもんじゃない」


と言いつつも、指は言動とは裏腹に封を切っていた。

中から出てきた黄ばんだ紙、少しかび臭い。


「…えっーと、息子へ」


『この手紙を読んでいるということは、あなたは夢を諦めて帰ってきたということです』


いるでしょう、みたいな表現じゃなくて、“です“、断定。

それにこういうのって、「この世にはいないでしょう」みたいなのじゃないのかよ。


『映画みたいな書き出しを書いてみましたどうですか?』


闘病中も元気だったことがわかって何よりだよ。


『あなたが家を出るとき、“小説家の夢“なんて叶うわけがないと言ってあなたを傷つけました』

『ごめんなさい』

『本当は母さんも応援していました。叶えてほしいと思っていました』

『だけど、うんと小さい頃からあなたを見ていたんです』

『だから、分かっていました』

『こんな事、親として言うのは間違っているかもしれませんが』

『あなたには自分で輝く才能がありません』


……何も言えない。そうそれが僕だ。

天才の生き方を模倣したような無能。

あの頃はなんにでもなれると思ってたんだ。

だから、足を踏み外した。


『覚えていますか?小学生の学芸会で、序盤の悪役を選んだことを』

『お姫様に町でちょっかいをかける、名前もないチンピラ役です』


そんなのあったなぁ…

最後まで残ると思ってたから助かるって教師に言われたんだっけ。

クラスのみんなにも「何でそんな役にしたの?」って言われたな。


……なんでなんだっけ?

……今じゃもう思い出せない。

きっと大切な、無くしちゃいけない理念が、“夢“があったはずなのに思い出せない。

今だってそれを元に“絃を利用しようとしている“はずなのに……


そもそも――なんで小説家を目指したんだ?

何かを作り出したい、その気持ちは噓じゃないけど……

別に小説家じゃなくてもよかった気がする。


忘れてるってことはきっと重要じゃないってことだよな……?

間違ってないよな?


『私には理解できませんでした』

『だから、聞いたんです。なんでその役にしたの?って』

『そしたらあなたは、「このキャラは名前もない嫌われ役だけど、皆が主人公をカッコいいって思えるのはこういうキャラのおかげなんだよ。嫌われることが物語を盛り上げるんだ、一番カッコいい」って言ったんだよ』


そんなこと言ったっけ。


『その時に分かりました。この子は、誰かを輝かせる能力があるんだと』

『納得してくれましたか?あなたに輝く才能がないと言ったことを』


ああ、十分にね。


『だけど、夢を追ってください』



『ビックリしましたか?「心折ることを言っておきながら、何言ってんだ鬼BBA」って思いましか?』


そこまでは思ってないよ。


『堅実に生きてほしいという母さんの願いを踏みにじった不孝者には、泥をすすりながら文字を書く姿がお似合いです』


スゲー嫌味。やっぱ怒ってたよな…


『どれだけ馬鹿にされてもいい、前に進みなさい』

『そうして、ゆっくり、ゆっくりこちらに来てください』

『その時のあなたは、夢破れた凡人ではなく、夢を追い続けた愚か者です』

『後者の方が響きがよくて母として誇れます』


そうかな…どっちも負け犬って感じするんだけどな…

それにどっちも夢叶ってないし。


でも、その考え方は結構好きだ。

夢を追い続けて死ねば、夢を諦めたとか、夢が叶わなかったということにはならないって訳だよな。


「...最後、何て書いてあるんだろう」


手紙の最後の行に目を通す。


『あなたはいつも、誰かのために動ける子でした。

 もし、誰かが悩んでいたら。

 誰かが、自分を否定していたら。

 あなたがその人を輝かせてあげて。

 あなたにしかできないことです。

 愛しています。

           母より』


『PS.こっちにくるときあなたの本を持ってくることと、体を大切にすること』


『――あなたの夢はなんですか?』


どういうことだ……?僕の夢は小説家だ……。だよな?

やっぱり、何か大切なものを忘れてる気がする。

今もきっとそれを持っていて、少女を止めたいと思っているんだろうけど、分からない……

家を出た日には持っていたものが……

でもきっといつかわかる気がする。

なんとなくだけど、そんな気がする。


「・・・」


多分母さんはそれすらわかっていて、“小説家の夢“は叶わないと言ってくれたんだろう。


「母さんと、もう一度話したい……」


母親を嫌っていた自分が嫌いになった。

親孝行出来なかった自分が憎くなった。

生きているうちに成功した姿を見せられなかった自分を殺したくなった。


……変わってない自分が大好きになった。

だってどれだけ転んでもまた立とうとするのは、昔から僕の悪い癖だったから。


「ありがとう、母さん」


手紙をポケットに入れて、桜を背に歩く。

憂鬱だった来た時のススキ道も、今では僕のためのレッドカーペットに見える。

いや、レッドじゃなくてブラウンか。

靴底が土色に染まっていくのを感じる。

前に進む度にぬかるんで足が染まる。

それでも這い上がり前に進む。


どうやら僕には人を輝かせる才能があるみたいだし。

頑張ろう。


――曇天は今日という日に似合わないな。


「ただいま」


建付けが悪いドアが悲鳴をあげる母さんの家。

玄関の段差に腰を降ろして靴を丁寧に並べておく。


「お母さんと仲直り出来た?」


姉がひょこっと顔を出して、言葉を投げかけてくる。

その目は何かわかっているのか、少しだけ笑っている。


「うん。自分を責め続けたくなるぐらいには」


「そっか、よかった」


手を洗いに行くため腰を上げようとしたその時、柔らかい腕が僕を包み込む。

まるで膝の裏に落ちる温かいクッションのようだ。


「お母さんはいつも慣れないスマホを使って、あんたの名前を検索してた」

「いつあんたが本を出しても分かるようにね」

「でも言ってた、『あの子はもうきっと夢を勘違いしてる』って、作者としてのあんたを見ることはないって」

「それでもなお調べてたのはさ、誰かを支えてるあんたはいつか絶対見れるからだってさ」

「映画のカメラアシスタント、ライブの舞台照明、どれをやっていても分かるようにって」


「…そうなんだ」


姉の暖かい吐息が耳を掠める。


「頑張ってね」


「うん」


肩を包んでいたしばりつけるような腕が外れる。

姉はすぐに僕に背を向けて歩き出す。


「姉さん、あのさ…」


「なに?」


正直、頼みにくい。

なくたって僕ならあの子の転生を止められる……気がする。

けど、リスクヘッジは大切だ。


「あのさ――」




“桐野さんいまどういうお気持ちですか?“


“はい!ずっと夢に見ていた光景だったのでとても気分がいいです!“

“天国にいる母にも胸を張って会いに行けま――“


最悪な夢だ……。


「ふわぁ…今何時だ?」


机に突っ伏していた体を起こすと、白い画面のPC画面が目に差し込む。

……書いている途中で寝ちゃったのか。

右下に表示されている時間は、十三時ピッタリ。

日にちは実家に行ってから五日後。


この五日間、ずっと小説を書いていた。

いや、書こうとしていたという方が正しい気がする。

だって目の前の画面には文字らしきものは一つもない。

書いては消して、書いては消して、自分の納得がいくように書けなかった。

どう頑張っても、迫力も緊張感もない単調な物語になってしまう。

百聞は一見に如かずという奴だろうか?

まともに人生に色がない人間には、小説というキャンパスに色は付けれない。

でも、どこかで「書けない自分」を楽しんでいるような気がして、気持ち悪い。


いつまでも学生気分なのは僕なのかもな……


「はあ…」


趣味を好きだからって続ける人間は才能があるからだ。

絵が好きだからって、何年も書き続けたってうまくならなかったら辞めると思う。

努力があるのは前提だ。

だけど、努力だけで報われるケースなんて、道頓堀に飛び込む馬鹿より少ない。

好きっていうのは才能の延長線上にあると思う。

だからこそ母さんは包み隠さず才能がないって言ってくれたんだろうけど。


「…絃はすごいなぁ」


全然うまくならないのに逃げない。

二十七なのに、夢とか才能とかの思春期が抜けきらない悩みでうじうじしてる僕なんかとは全く違う。

一年間、いやそれよりもずっと長い間練習をしていたんだ、うまくならないのに。

だから、転生なんてしてほしくない。

きっと彼女は転生なんてなくても報われる人間だし、そうあるべきなんだ。

頑張ってる人間が報われないなんておかしいから。


ギシギシとなる椅子に体重をかけたり、かけなかったり。

フラフラと頭を振っている。


このまま家にいても書ける気がしない。

それに、そろそろ頼み事が終わっているころだろう。

確認しに行こう、郵便局へ。


いつもと同じように河原の小石ほどの穴が開いた靴を履き、氷のようなドアノブを捻り外に出る。

冷たい空気が肌を刺し、道も冬に染まって雪が積もっている。

世界はすっかり冬に変わっていた。

白い息を吐くたび、胸の奥まで凍りつくようだ。

だけど心地がいい、焦りが冷めていくようで。


五日ぶりの外は、何もかもが遠く見える。

ザク、ザク、と足音だけが確かで、それが生きている証拠のように思えた。


いつもの川沿いを歩く。白に染まった街で唯一茶色い。

それだけ汚いということなのだろう。

絃はこんな日でもここで練習していたのだろうか?

風邪をひかないといいのだが。


街に馴染まない黒いコートのポケットに手を入れて歩いている。

見慣れた景色は一つもない。

いつもよりもうんと冷たい風、木々たちは完全に枯れ落ちてしまった。

この前までは、しがみつくように何枚かは残っていたのに。

目に見える普通はすぐに移り変わる。

五日前の普通など、今は噓のようだ。

春夏秋冬は巡るのだから当たり前なのだけれど。


「普通、通常とは」


未だその答えは出せずにいる。

ないのかもしれないこの世には。


そんなどうでもいいことを考えていると、郵便局が見えてきた。

一、二台ほどしか止められない駐車場の横に、クリスマスツリーが立っている。

装飾が少なく、「一応ね」という風に。

家を出た初めの頃は、年の伝統行事など興味がなく、気がつかぬ内に終わっていくことが多々あり、気づいたとしても「意味がない」などと切り捨てていた。

だけど、人は行事を意識しないと時間の流れが速すぎることに気づいてからは、こういう何とはなしにの装飾にも感謝しかない。


十一月にクリスマスツリーは流石に早すぎだけど。

クリスマスツリーを横目に自動ドアに足を運ぶ。


コンビニほどの大きさしかない郵便局は見事に伽藍洞、受付の女性が俯き何か書き込んでいるだけ。

カウンターの向こう、掛け時計が秒針を刻む音と、微かな鉛筆の音が聞こえるだけ。田舎はいい、どこに行っても人がいない。

少しぼろくて、外気と変わらない程寒い事を除けば。


そんな空洞化している郵便局の角。

ガラスで仕切られたATMに足を運ぶ。


薄汚れた画面、「通帳記帳」をタップ。

鞄から通帳を取り出しいれる。

『少々お待ちください』という無機質な声が響く。


前の通帳記入時、僕の通帳には五百万円入っていた。

ほぼ週四で働き、無駄な出費をせずに九年間生きている分には少ないかな…?

生きているだけでお金がかかるこの社会では、多い方だと思いたい。


通帳が出てきた。

帰ってきた通帳に印字されている数字はいつもより一桁多く、先頭の数字は一になっている。


一瞬目を疑って、それから息を吐いた。

「…ありがとう姉さん」

まるで雪上に花が咲いたみたいに、胸の奥がジーンと暖まる。


これは僕が転生を否定できなかった時のための、逃げ道。

……情けないよな。

でも、逃げる準備をしながらじゃないと、誰かを止めることなんて僕にはできない。


「……それじゃ行こう」



あの汚い川の橋を渡っている。この方向に来るのはいつ以来だろう。

冬の川はいつもより濁っていて、底が見えない。

まるで、これから行く場所が本当に存在するのかも分からないみたいだ。


『どの都道府県、市町村にも設置されてあります。

 二十四時間いつでも相談可、予約不要』

日向にもらった紙にはそう書いてあった。

でも、対面だけで二十四時間って、どういう仕組みなんだ。

人間が交代してやってるのか、それとも……。


疑問を抱えながら、スマホの地図を視線を落とし足を進める。

橋を渡り切って少し進んだ後、ふっと顔を上げると、広がるのは知らない場所。

……なんだここ。


こっち方面に来なかったのにはわけがある。

治安が悪いからだ。田舎の不良というものは、当たり前のようにコンビニの前で薬物のようなものを摂取していたり、どうでもいいことで喧嘩を吹っかけてくるのだ。

だからあまり近寄らなかった。

だけど、そんな面影は一つもない。

落書きされている壁も無ければ、落ちている缶やペットボトルなどは存在しておらず、落ち葉が積もっているだけ。

都会のような白いタイルも敷かれている。

川を一つ越えただけでこんなにも違う景色が広がっているとは……


白いタイル……『気づいたんだよ』、友人の声が脳に響く。

これも転生の影響なのだろうか……まあいい先を急ごう。


タイルを踏むたびに、音が吸い込まれていく。

人の気配がしない。

車の音も、鳥の声も、風さえ止まっている。

僕の息の白さだけが、時間の流れを教えてくれた。


街の奥に進むと、突如視界の先に“それ”が現れた。

灰色の建物。三階建てくらいの大きさ。

だけどまるでCGで作られたように、周囲から浮いて見える。

前ここには図書館があったはずなのに……本当にここか?


疑問を打ち払うように『目的地に到着しました』、スマホの音が聞こえる。

外に目立つように置かれた看板には青い文字でこう書かれていた。


「転生相談・説明センター」


異様な雰囲気に思わず息を呑む。

足が震える。寒さじゃない、緊張。

……いや、武者震いだ。

僕は今、高ぶっているんだろう。

非日常に、未知との遭遇に。


それにビビる理由がない。

だって僕は世界を変えるために、制度を訴えるために来たわけじゃない。

何でこんな人権侵害みたいな社会制度が、許されているのかを聞きに、そしてあわよくば友人を元に戻してくれないか、と頼みに来たんだ。

ただそれだけ。


「よしいこう」


自動ドアが音もたてずにスッと開く。

機械的な動作なのに、生き物のような呼吸を感じる。

暖房の風が流れてきて、頬に当たった。

けれど、そこに「温かさ」はなかった。

まるで形だけの空気のようだ。


内装は日向の家のように白と黒。

正直、趣味が悪いと思う。


受付の奥には人が数人いた。

老若男女、それぞれが椅子に座って何かを書いている。

誰も話さない。

紙をめくる音と、ボールペンの小さな走る音だけが響いている。


「どうされましたか!」

響き渡る声で誰かがこちらに呼びかけてくる。

公的機関の受付嬢っておしとやかな感じがあるもんだと思っていたが、どうやらここは違うらしい。

これも転生の……そんなわけないか。


「あの、対面の転生説明会を受けに来たんですけど」

日向から貰った紙を差し出す。


「あー、神崎さんとお話がしたいと!少々お待ちください」


「はい」


へえー、転生作った人って神崎って言うんだ。

日向があの方あの方いうもんだから、名前出してないんだと思ってた。

少しの沈黙の後、受付の人が「あちらのエレベーターで三階まで上がって頂き、出て右手に面談室がありますのでそこで少々お待ちください」


「ありがとうございます」


無機質に3と書かれたボタンを押す。

エレベーターの扉が閉まると外の音が消えた。

モーター音も、空気の流れもない。

なのに確かに上昇している感覚だけがある。

数字のランプは“2”のまま動かない。

それでも体がわずかに沈み、耳の奥がキンと鳴った。

……これが三階に上がってるってことなんだろか。


“チン”という音もなく、静かに扉が開いた。

そこは廊下というより、病院の無菌室のようだった。

白すぎて奥行きが分からない。

天井灯はあるのに、影が落ちない。


「右手に面談室」

受付の女性の言葉を思い出して、右を向く。


そこだけ異質だった。木目が入った扉。

この場所で唯一温度があるように見えた。


「コンコン(ノック)」


返事がない…入るか。


「失礼します」


中にはひとりの男が、椅子にゆったりと腰をかけていた。

年齢は四十代から五十代、いや六十代か?分からない…。

スーツの上から白衣を羽織っていて、机の上には厚いファイルが山積みになっている。

顔立ちは穏やかで、声を掛けた瞬間にこちらを見た。


「初めまして、神崎です」

「ずっとお待ちしておりました」


“ずっとお待ちしておりました“?

僕は予約なんてしてない。

余裕そうな笑みを浮かべる男は立ち上がり、深々と頭を下げた。

その動作が妙に“人間的”で、逆に不自然だった。


「桐野さん、ささ、こちらにおかけください」


名前は名乗っていないが…受付に聞いたのだろうか…?


前に差し出された椅子に腰をかけて、周りを見渡す。

部屋の内装は白と黒で統一されているわけではなく、どこにでもあるモダンな部屋だった。

観葉植物まで置いてあり、生活感を感じさせる。

先ほどの死んだようなビルの中とは思えない。


「どうかな?結構気に入ってる部屋なんだけど」


神崎は僕の前の椅子に座り、隔てたテーブルの上にお茶を「どうぞ」と差し出してくる。


「これ、オータムナルっていう紅茶」

「最近淹れ方練習しててさ」

「是非感想を教えてほしい」


毒でもいれてるのではないかという予感が一瞬よぎったが、神崎の笑顔の前に消えていく。朗らかを体現したような笑顔、こびりついた笑いじわ、この人がそんなことするなんて思えないし、思いたくない。


こだわっているのか、妙に高貴なティーカップを口に運ぶ。

甘く優しいオレンジのような橙色の液体は、果実を引きずって喉元を通り、胃へと流れ込んだ。


「美味しいです」


そう言うと神崎は皺を深めた。

その皺は幸せの象徴とも言える笑い皺で、目の前の男性が笑みで溢れた人生であることを想起させる。

……こういう何気ないようなポイントが、この人を崇めるに至る理由なのだろうか?


「良かった」


神崎は右手の手のひらを左手の拳でうち、「そうだ」と顔を振る。


「クッキーは好きかな?紅茶に合うのがある――」


「いやあの」


僕はここに遊びに来たわけじゃない。

多分ここで止めなきゃ、永遠趣味の話をされる気がする。


「僕、お茶会しに来たわけじゃないんで」


「…あーそうだったね、すまない」


上げた腰を下ろし、こちらに目を合わせてくる。

その目は、人間とは思えないほど人間だった。

黒目が光を全て収束させ、白と黒の境界線がハッキリとしている。

二色以外は拒絶するような瞳。


「君みたいな――

「“平和を崩そうとしない人“は久しぶりだから」

「すまない」


…“平和を崩そうとしない“か。

それって転生を変えようとしないってことだよな。


「ここに来る人はさ、皆『転生は人権侵害だ、廃止しろ』って言う人ばっかだからさ」

「普通に話せる人が来てくれて、少々舞い上がってしまった」

「本当にすまない」


やっぱり、僕以外にも転生に疑問を持っている人はいるんだ。

……でも、それより、


「なんでさっきから僕を知っているみたいな話し方するんですか?」

「僕とあなたは初対面のはず」

「それなのに何で――」


「ずっと見てたからだよ」


は…?

…ずっと見てた?

何を、どうやって?いつから?


「転生に不満を抱く者や、疑問を持つものは皆監視している」

「君だけじゃないから安心してよ」


神崎は不安を拭い去ろうとするように口角を上げる。

安心できるわけないだろ……なに当たり前かのように言ってるんだ。


「だから君の名前も知っていたし、転生を変えようと動く人間じゃないことも分かってたんだ」

「できるだけ強制転生はしたくないからさ、助かったよ」


「…どうやってですか?」


神崎は座り直し、少し俯く。

「もうちょっと…おしゃべりしたかったんだけどなぁ…」まるで風船から空気が抜けていくように声が抜けた。

訪れる静寂に息を吞む。


監視方法……一番可能性があるのがスマホ、つまりデジタルによる監視…?

実際にとある国では行動に点数を付けて、道徳心を数値にする制度があるみたいな話を聞いたことがある。

僕が知らない内に似たような制度が日本にもあり、機械が、人々が監視していた…。

でも、僕にはまともに友達がいない。

僕が転生に疑問を持っていた事を知っているのは――日向だ。


日向が神崎に情報を伝達…そんなわけない。

そんなわけないと願いたい。

思考を巡りに巡らせて、あれやこれやと思索している僕に投げかけられた言葉は――


「神様の力だよ」


電波のような言葉だった。

神様?ふざけているのか?


「…あの、真面目に話してるんですけど」


「私だって至って真面目さ」


真面目か…神崎は一切の冗談を許さない真剣さで、誰の嘘もはねのけるようだ。

噓をついている感じがしない、この男は噓をつかないとさえ感じる。


「悲しいけど、談笑の時間は終わりだね」

「今からは真面目に、君が聞きにきたこと、それに対するアンサー、そして生まれる疑問」

「君は大切な一国民だし、喋っても問題なさそうだからさ」

「その全てに答えようと思う」


「長くなるし、聞いてもあの少女を止めるような材料にはならない、それでも聞くよね?」


神崎はテーブルに右肘をつき、あごに添え、こちらを一瞥する。

聞くか、だって?

そんなの当たり前だ。


「はい、もちろん。教えてください」

「なぜ日向があんな風になったのか、なぜ誰も人権侵害のような制度を当たり前のように受け入れているのか」

「転生という制度の全てを」


神崎はニヤッと笑う。

「そうか、君みたいな人間はやはりいいね」、そう息をついたのも束の間、即座に言葉を続ける。


「転生、それは欠点、短所、問題点、コンプレックス、自身の持つ嫌いな部分を消し、生まれ変わったかのような人生を送ることができる医療制度」


ああ、そうだ。

僕はそう認知している。


「だけど、実際は違う」

「実際には――“絶対“を植え付けているんだ」


「…ぜ、絶対…?」


「ああ、絶対」

「神様、つまり私という存在を植え付けている」

「君の友人も私を崇めていただろう?」


日向…ずっとあの方あの方って崇めていた。

やっぱり、転生の所為だったんだ…。

だけど、“絶対“を植え付けることで何が生まれる?

ただ神を信じる人間が増えるだけでは?


「なんでそんなことを」


「桐野さん、いや、桐野君」

「君はイスラム教を知っているかな?」


「詳しくは知りません。でも、名前ぐらいなら学校の授業で」


「その宗教では豚肉を食すことが禁止されているんだ」

「なぜだかわかるかい?」


豚肉を食べてはいけない理由…宗教的な理由だよな…

汚いとかそういう理由だと思うんだけど。


「食べることで体が汚れるとかですか?」


「正解、だけど不正解」とちぐはぐな答え合わせが帰ってきた。


「君が言ったことは聖典に載ってることなんだ」

「『豚は不浄の動物だから食べちゃダメ』ってね」

「だけどね、真意は違うんだ」


「――ただ、食中毒を防ぎたかっただけなんだよ」


神崎の声は落ち着いていた。

まるで科学者が理論を説明するように、淡々と。

宗教という偶像崇拝する組織の理念とは思えないほど現実的だ。


「昔は衛生環境が悪かった」

「豚肉は寄生虫が多くて、火を通しても死なないことがあった」

「それに気付いた誰かがさ、豚肉を食べてお腹を壊す人が現れないようにしたかったんだろうね」


「でもさ、どこの誰だか分からない人間に、『豚肉を食べるな!』って言われて民衆が聞くと思うかい?」

「急に道で出会った人に言われて、桐野君は聞く耳を持つかい?」


「…多分、持ちません」


「だよね」

「じゃあ、その人はどうしたんだろう?」


僕を試すかのように、神崎は問うてくる。


「…神様という存在を作った」


「うん、その通り」


神崎は軽く頷き、テーブルの上のカップの縁を指先でくるくると回す。

その音だけが、静かな部屋に微かに響く。


「そう、“神”を作った」

「人間よりも高貴で“絶対“とされる存在を」

「その絶対が言ったことにしたんだ、『豚肉は食べちゃダメ、不浄の動物だから』って」

「“神様が言ってる”って言えば、みんなが信じて、結果的に救われる」

「合理が理解できない人間を、合理的に導くための“虚構”だった」

「それが“神様“だ」


なるほど…つまり絶対を植え付けるってのは人間より上の存在を認識、信じさせるって事か。

判断を委ねられる上司を作る。

行動を指揮してくれる上司を作る。

バイト先でも、上司がいれば楽だもんな。

自分で考えなくていい。従うだけでいい。

つまり洗脳装置、日向が個を失ったのはこれが原因。

でも、分からない。日向は諦観のような概念を話していた。

争うことは無意味と言っていた。

神様を信じることと、諦観することとの関連性が見えない。

それに洗脳なんて簡単にはできないだろ。


「桐野君の思っていることはごもっとも」

「神様がいるということが分かっても、諦観には繋がらない」

「争いがなくなったりはしない」


当たり前のように思考盗聴しやがって…

神様の力とかいうやつか…


「だから私は少し変えた」

「――最初に心を折ったんだ」


神崎の目は春の小川のように澄んでいる。

ゴミは浮いておらず、せせらぐ音すら感じる。

晴天を広げる、全てを見下ろす太陽のような瞳。


「…心を折るってのはどういうことです」


「簡単だよ、人間誰でも一度は持つ疑問『何で生きているのか』、ここを突く」

「人は一度必ず迷うんだ、自分に価値などないと」

「だけど何か生きがいを見つけて、自分にしかできないことを見つけて、“個“になり生きていく」

「だけど“個“を持つことは悪だ、誰かを悲しめる、泣かせる、格差を生む、負けを生む」

「――自分を殺す」


「だから折った」


神崎は部屋の角にあった観葉植物を、謎の引力で引き寄せ、根元の茎を折る。

そして投げ捨てる。

床に土が散漫し、植物はしなだれて床に転がっている。

力を誇示したいのだろうか……比喩なのだろうか……どちらにせよこの男は人じゃない。


「スポーツをやってる人間は転生が効きやすい」

「彼らはいつだって一番を目指している」

「だから、絶対に勝てない神の存在を植え付ける」

「そうすれば、努力の先にある“勝利”が無意味になる」

「そうすると心が折れて、生きる意味を失う」


「……嫌だよね、誰かを負かすことで自尊心を保っていたなんて」


「……でも、それだと神と戦うのを諦めるだけですよね?」

「人間同士で争うのは止まらないんじゃ…」


「いい質問だ」

「でもね、人が争うのは『自分が一番でありたい』からなんだ」

「神という絶対的な一番がいれば、その欲望が消える」

「一番になれないと分かれば、二番も三番も同じだから」


「……一番なんて目指さなくても、生きているだけでいいのにね」

あまりにも、あまりにも人間らしい言葉が神崎から聞こえた。

この男にもきっと、転生を作るまでに壮大な、劇的な何かが……?


「つまり、相対的な優劣が無意味になる」

「だから争いが消える」


顔をふり、説明口調に戻る。


「――神というのは上位互換だ」

「君の、全ての人間の」


神崎は小さく笑った。その声は慰めにも、嘲りにも聞こえなかった。

この人は人を支配したいわけじゃないのかもしれない。


「人は“個”を確かめて生きてきた」

「“自分”という形がなければ、生きる意味を見失ってしまうからね」


神崎ははゆっくりと続けた。


「転生はね、その“個”をいったん分解する医療だ」

「病気や怪我の治療みたいなものじゃない」

「“あなたという構造”を細かく砕いて、痛みや嫉妬や恐怖を抽出し、もう一度“整った形”に組み直す」

「君たちはそれを“生まれ変わる”って呼んでる」


「…心を折るって、そういうことですか」


「そう」


男はおもむろに右手を上げ、指を鳴らす。

瞬刻、先程まで床でへばっていた植物が息を吹き返すかのように、元に戻る。


「“折る”というより、“解体“するんだ」

「自分だけの痛み、自分だけの幸せ――そういう“個”をいったん外して、“神の視点”で再構成する」

「すると、他人の苦しみと自分の苦しみの境界が消える」

「争う意味も、勝つ意味も、負ける意味も消える」


「だけど、それだけではみな息を止めてしまう」

「だから、言う絶対的強者の私から」


「――『安息に身を置け』と」


日向が言ってたやつだ……

個を失ったら、同時に生きる意味を失っていしまう。

だから与えてるのか…

無気力であっても生きているように。


「残るのは、ただ“安らぎ”だけだ」


彼の瞳は透明だった。

何かを隠しているようで、何も隠していない。


「神は存在しない」

「でも、“絶対”という概念は必要だった」

「人が人を導くには基準が要る」

「だから私は“神”を引き受けた」

「みんながその基準を信じられるようにね」


「…でも、それって、洗脳じゃないですか」


「そう言っても構わない」

「ただ、誰もが“個”のまま生きるには、世界は狭すぎる」

「私は誰かが自分らしさを求めて、泣きを見るのは嫌いなんだ」


「君と同じさ、努力して報われなくて死んでしまう人なんて……生まれて欲しくなかった」

「だから“普通”というものが必要だったんだ」

「普通とは、神の前で皆が等しく呼吸できる状態」

「比較も評価もいらない、“痛みが均一化された心”のことを言う」

「それが――ほんとうの“普通”なんだよ」


神崎は微かに笑う。


「それが、君の知りたかった“普通“だよ」

「人が個を持つこの世には本来の意味を持たないものさ」


正直意味が分からない。

…いや、分かりたくないんだ。

だって、この人の言ってることを完全に理解してしまったら

――否定できないから。


「なぜ絃ちゃんを止める?」

「彼女はかわいそうだ、転生で楽にしてあげようよ」

「“努力が報われない“、これ以上の悲劇はないよ」


僕だって、頑張ってる人間が泥濘ぬかるみに沈んでいくなんて間違っていると思う。

そんな人が生まれるくらいなら…神崎が想像する世界になればいいと思う…

だって、そうなればきっと……親の死に目にも会えない不孝者は生まれないだろうし、人の目線に怯え虚勢を張る必要はなくなるし、ギターがうまくならないだけで捨てられる少女は、家族団欒に身をおけていたかもしれない。

僕には分からない。

転生はきっと間違ってる、だけどどこが間違っているか分からない。

どうやって社会に浸透させたのかも分からない。

――だけど、


「神崎さん、僕には分からない」


「そうだろうね、君の心の声、ちゃんと聞こえてる」


「あんたの言う世界だったら」

「自分から行動しなかった癖に先輩に未練たらたらのゴミ」

「少女が心配とか言って、自分のために転生を調べていたクズ」

「友人の悩みにも気付かなかった無能」

「母親を泣かせた不孝者」

「そんな今にも沼に沈みそうな人間は生まれないんだろう」


「ああ」


「不完全で未完成で誰よりも劣った――そんな僕みたいな人間の沼」

「足元の泥が重くて、抜け出そうとするたびに新しい泥が絡みつく」

「その場で沈まないように足踏みするのが精いっぱいな沼」

「…だけど、そんな底辺で前に進むやつがいるんだよ」


神崎は目を丸くして、「何が言いたいんだ?」とでも言いそうな顔をしている。

僕の声は震えていた。喉の奥が詰まり、手のひらに冷たい汗がにじむ。


「その子はずっとうまくならないのにずっと練習してる」

「一年間ほぼ毎日見てた、落ちる汗が波紋を広げてさ、こっちにまで熱が伝わって来てさ」

「汚い音がさ、綺麗に響くんだよ」


言いながら、胸の奥が焼けるように熱くなった。

思い出すのは、汗水たらしながらギターを握っていた絃の横顔。

車の騒音にも劣らずの不協和音に美しさを覚える自分。


「何が言いたいんだい?」


「はあ…」正直、僕は今とてもカッコ悪いと思う。

二十七にもなって、まだ夢を追ってる。

感情で、正しい世界を否定しようとしてる。

思春期の心を、まだ引きずったままで。

別に否定したって世界は、神崎は、日向は、変わらない。

口にしたら、馬鹿にされるかもしれない。

「情けない」、「気持ち悪い」、罵詈雑言を浴びせられるかもしれない。

飲み込んでしまえば恥をかかない。


でも僕は醜くて汚い――夢を追い続けた愚か者の味方でありたい。


「泥の中で前に進む人間が一番カッコいい――そう信じたいだけなのかも知れないけど」

「酸いしかない世界でも、甘みを求める姿がカッコいい」

「転倒して窒息死するかもしれない泥濘の中で進むんだ」

「――何よりも美しい」


神崎は目を細めて黙って聞いている。

その沈黙に、ゆっくりと言葉を重ねる。


「僕は絃を救いたいんじゃない」

「僕が絃の転生を止め、ギタリストとして成功させる」


「そうすれば…

 ――僕の存在意義が確立される」


「世間で僕は天才アーティストを支えた功労者になるだろう」

「少なくとも絃には感謝をされる」

「僕みたいな底辺に生きてきた意味がつけられる」


「誰のためとかじゃない、僕のためだ」


言葉にした瞬間、喉の奥が熱くなった。

ずっと胸の奥に押し込めていた黒い塊が、形を持って外に出たような気がした。

神崎は何も言わない。

静かな空気の中で、時計の秒針だけがやけに大きく聞こえた。

そう、僕はずっとそうだ。

誰かのためなんかじゃない、ずっと自分のため。

彼女が転生して日向のようになることが嫌だったんじゃない。


「ハハハ!」神崎の低音からは考えられない程の甲高い声で笑う。


「つまり桐野君。君は自分の存在証明のために彼女を止めたいと」

「泥の中の人間は自分のために必要だと」


「はい」


「最高にクズだね、と言いたいところだけど」

「本当は違うんだろう?」


その一言で、背筋が冷たくなった。

部屋の温度は変わっていないのに、肩のあたりだけが妙に重い。

まるで心の奥を、何か無機質なレンズで覗かれているような気がした。

…違わない。

僕はずっと変わらない、自分のことしか考えていない。


「違うね、君はずっと誰かのために動いてる」

「絃ちゃんはそのきっかけに過ぎない」


男はまたも僕を見つめる。

全てが収束するその黒曜石のような瞳は、鏡のように僕を映し出す。

顧みることを促してくるように。

懐かしさを、暖かさを、容認を、承認を、与えてくれる視線。

ああ、そうか、僕はずっと……


「――転生なんてなくても、生きていけるって証明したいんだろう?」


「底辺にいる人間にも、生きる意味があるって」

「そう伝えたいんじゃないかな?絃ちゃんを通して」


「……」

『あなたの夢はなんですか?』、あの言葉の意味分かった…

……思い出した、僕は小説家になりたかったんじゃない。

二十七歳でそんな夢を謳いたかったわけじゃないっ…!


「醜い理由を立てて格好を付けない」

「自分にはできるわけがないという自信のなさの表れかな?」

「なんにせよ、君の悪い癖だよ」


癖って…ああそうか、ずっと見てたんだっけ。

すごいな…何でそんな事までわかるんだよ。


……そうだ僕は証明したかったんだ、家を出た日からずっと。

――全てに意味はあるって。


そのきっかけはとても馬鹿らしく、劇的でないもの。

ただ悲しかったんだあの時。


神崎は何も言わない。

心の声は聞こえているはず、生簀を眺めているように、ただ静寂に身を委ねている。

ただ、微かに笑った気がした。


「“人を利用するなんて“倫理的には間違っていると思う、だけど私は好きだよ」

「どこまでも人間らしくて」


その言葉が心臓の奥に刺さった。

痛いのに、少しだけ温かい。

まるで陽だまりの中に倒れ込んだみたいだった。


「はは…」

「好きなら、なんで…人間を支配するような制度作ったんですか?」

「それにどうやって浸透させたのか」


神崎は「確かに」と声を漏らした。


「それには理由があるんだよ」

「自分語りになっちゃうけど聞くかい?」


「はい、どうせ家帰っても惰眠と駄文が生まれるだけなので」


穏やかな笑みを浮かべ、腕を組んでテーブルに肘をつく眼前の老人。

その瞳は僕を捉えていない気がする。

ずっとどこか遠くを見つめているような…


「私には両親がいないんだ」


静寂を切り裂くように投げられた言葉は、水面に波紋を打ち響く。


「事故で亡くなったわけじゃない、捨てられたわけでもない」

「私は、今この状態で、この老いた体で生まれたんだ」


…つまり…どういうことだ?

母親のお腹から老人として生まれた……いや、両親はいないって言ったよな…

その線はない。

ありえない、ありえはしないと思うが――無から生まれたって事か…?


「そうだよ、君が思っている通り」

「私は無から生まれた」


その声音に嘘は感じられなかった。

冗談を言うような空気じゃない。

信じたくはないが……信じるしかない。


「私は概念なんだ、君たちの救われたいという願いから生まれた概念」

「どこにでもいるし、どこにでも行ける概念」


だから僕を…転生に不満を持つ人間を監視できるし、24時間対応可能なわけだ。


「ほんの数年前、私はこの地で思考を持った」

「周りはコンクリートで出来たジャングルに、どこから聞こえてくるかも分からない嘆き」

「誰かの心の声がね、聞こえるんだ」

「ずーっと、『なんであの子だけ』、『どうして僕は』って」

「ずーっと、ずーっと、四六時中」


俯き、過去を思い出して拳に力がこもっているのか、肩が震えている。

心の声は聞きたくて聞いてたんじゃないのか…

だとしたら今も僕以外の声が聞こえているはず。

辛くはないのか……?


「もう慣れたよ。最初の一年は辛かったかな」

「何しろ人の形をしていると面倒なことが多かったよ」


はにかんでいる。

背負った悲しみを、苦労を感じさせない。


「救わなくちゃって思いが生まれた瞬間にあったんだ」

「誰も泣かない世界を作れって、作らねばって思いだよ」

「頭の中で反響し、離れない」

「だから転生を作った」


コップを右手でもち、中で揺らめきたっている水面を眺める神崎。

世界を俯瞰で視ているようだった。


「最初はね、なんでそんなことをしなければならないのか分からないまま活動してた」

「一生懸命努力する人を応援したり、悩みを抱える人に手を差し伸べた」

「“大丈夫だよ、君にはちゃんと価値がある”って、聞こえのいい言葉を言って回ってね」

「郷に入っては郷に従えってことで、相談事務所を立てていっぱい相談にのってた」

「楽しかったなあ…」


ふっと笑う。

さっきまでの胡散臭い笑みではない。

年老いた顔に、一瞬だけ柔らかい光が。

目元に、朝露のような涙が灯っている。


「投資で生きていこうとする人、母親に認められたかった子、自分に価値が見いだせなかった人」


「みんないい人だった…」


亡くなった人を弔うような、泣いている赤子をなだめるような、優しい…祈るような声色。

この人は一体何を見てきたんだろう…


「一人の友人……従業員…女性、女性がいたんだ」


ほのかちゃんっていうんだけど、真面目でね、一度も遅刻することはなかったし、他のスタッフからも好かれてた」


「『アイドルになりたい、幼稚園に来てくれたアイドルみたいになりたい』」

「『片手で育ててくれた母に、晴れ姿で恩を返したい』って言ってた」

「…だけど、死んじゃった」


神崎が一瞬言葉に詰まった。

死を息づくその姿は僕よりも、誰よりも、人間だった。


「ある面接の時に言われたらしい、『三十代の新人アイドルなんていない。AVなら別ですけど』って」

「それに重なって母親が亡くなった」


「そして、彼女の声が聞こえなくなった」


「彼女の体が吊られていた部屋には、『バカ娘でごめんなさい』って手紙が…」


その声は、嗚咽の一歩手前で止まっていた。

完全に――人間の声だった。


「私は背中を押したんだ、『定職に就いて、夢を捨てた方がいいかな?』と問う彼女に対して」

「無責任に……諦めちゃダメだって…背中を押した」

「どれほどの高所かも知らずに……私は押した」

「あの子が立っていた場所が…崖の縁だったとも知らずに」


神崎は目を伏せた。声の端が震えている。

テーブルに落ちた光が、ゆっくりと神崎の頬を照らす。

皺の影が涙の跡のように見えた。


「……有名大学を目指していた学生、自分の生き方が分からなかったサラリーマン、無為に息をする籠り人」

「皆押した、無責任に」


息を吞む音だけが響いた。


「生まれた意味や、生きる理由なんてどこにもないのに、みんなそれを求めて夢を追う。誰かと競って価値を見つけ出そうとするっ…!」

「そして…夢に手を延ばして焼け落ちる」


テーブルに落した神崎の手が震えている。

声にならない慟哭を外に逃がそうとしていているのだろう…

……この男は見たくなかったんだ。

夢という輝きを放つ太陽のような存在に、手を伸ばし落ちていくのを。


「君もそうだろう…?桐野君」


「……」


「皆、“個“を持つから、持とうとするから悩む」

「ただ…生きているだけでいいのに……」


「……個をどうやって奪ったんですか?」


一拍間があった。

外の風がカーテンを揺らし、光が差し込む。

夕暮れ時に近いはずなのに差し込む日は――灰色だった。


「――心の声が聞こえるんだ」

「人の心に干渉するのも簡単だったよ」


科学でも医療でもない、純粋な力による支配。

それなら色々と説明がつく……誰も文句を垂れない理由を。

力を使って、最初に官僚などを支配して意のままに、反対意見など生まれず制度を確立させる。

医師会など、異を唱えるものも全て洗脳すれば終わりだ。

あとは人々の耳に“希望”を流せばよかった。

誰もそれが鎖だなんて気づかない。


「うん、君の思っている通りだ」

「誰も泣かないように、夢を、争いを、個を無くした」

「――全世界で」


ぜ、全世界で……すべての国で自我が奪われているのか…

考えてみれば当たり前か……この人はずっと“誰も“って言ってた。

この国だけに限るわけがない。


頭がついていかない。

数十億の人間の心を一人で操る?

もはや人間じゃない。


ああ、そうだった。この男は人間じゃない。

どこにでもいて、どこにでもいける、概念だ…


「数年後にはこの世界は生まれ変わってる」

「誰も泣かない、君の救おうとする人間はいない」

「桐野君、君はどうする?」


“どうする“か。


……何に対してなのだろうか。

僕はずっと変わらない。

社会がどう変わろうと、世界が変わろうとどうでもいい。

二十七歳フリーターという真っ暗な現状を改善する方が先だ。

……そして転生で未来を失う人間をわずかでも減らす方が――


「僕はあなたの作る世界が概ね好きです」

「基本的には転生を強制することなく、希望制にしているところとか」

「“普通“だって存在している」


「でも……たぶん好きだからこそ怖いんです」

「誰も泣かない世界って、誰も笑わない世界と同じ気がして」


僕がここにきた意味。

訴えるために来たんじゃない、確認しに来たんだ。


「……辛いんですよ」

「この年齢になると、友達って…できないんです」


無意識に声が震えた。

拳に力を込めても、込めても、何かが溢れそうになる。

自分の肩が小刻みに揺れているのが分かる。


日向は大切な友達だった。

家を出た日も駅まで見送りに来てくれた。


神崎は何も言わない。

ただ静かに、僕を見つめている。

その目に同情は無く、矢のように鋭い視線。

折れることなどありえないと思えるほどの――どこかで見たことがある気がする。

……多分何年も前に。


「日向を転生前に戻してやることはできないんですよね?」


「できるが、しない」

「私が目指す世界には必要がないのでね」


断言。

一切の同情などなく、何かを見据えているような。

あの目の既視感――僕だ。

この人は、僕なんだ。


純粋に夢を追いかけている青年。

絶対に曲がらない、僕が一番分かっている。


そうか……じゃあもう僕がここにいる理由はない。

拳を握りしめても、何も変わらない。

日向はもう、あの日向じゃない。

僕が知っている、笑顔が眩しかった友人は――もういない。


「……そうですか」

「それじゃ、僕は帰ります」


テーブルを立ち、冷気を放つドアノブを握る。

聞きたいことは全部聞いた。

やっぱり僕は転生を否定できなかったなぁ…

何となくわかっていたけど。

はあ……物語の主人公とかだったら、きっと感情に訴えたりして間違っていても正しく見えたんだろう。


「桐野君、最後に聞かせてくれないか?」


背中から聞こえた声に振り返り、神崎に顔を向ける。

――人じゃない。

神聖な、気圧されるような雰囲気を漂わせ佇んでいる。

――神様だ。


「なぜ“わざと“自分を不幸にしてまで、底辺を救おうとする?」

「君は人だ、概念わたし概念じゃない」

「どうしてそこまでする?」

「過去に何があったんだ?」


「聞かせてくれ。私はみんな救いたい」


優しさなのだろう。

“救いたい“という言葉もきっと、相談して欲しいくらいの感じで転生を強要しているわけじゃないのだと思う。


「何もないですよ。大した理由は何も」

「僕の人生はずっとそうです」


「君は理由もなしに手を伸ばすのか……?」


沈黙が落ちた。

時計の針の音だけがやけに大きく響いていた。

困惑を浮かべている神様の顔は面白い。

こういうのを絵にすればいいのに。


「はい、自分の存在証明のためだったら何でもする」

「僕は誰かの夢の礎になりたい」


苦笑を浮かべる老父。

神様の姿は失われている。


「……ホント、悪い癖だね」


「ありがとうございます」


「うん、また新世界で」


世界はきっといい方向になっていくと思う。

知性を、意思を、自分をなくす代わりに。

夢という言葉は消える、涙は重力を受けない。

人は足を失う。

代わりに“普通“を得る。

それはきっと間違ってる。

神崎の世界なんてありえちゃいけない。

――“普通“なんてあってはいけない。


人は間違えても、進んでいくのが美しいのだから。


「通常、普通とは」


答えは得た。




冬の朝を告げる鳥の鳴き声。朝露を落とす茶色の雑草。

移り変わってしまった。

だけど、僕は変わらない。

早朝朝四時四十分。

黒ずんだ柱の脇、鼠色のコンクリートに腰を掛ける。定位置。

ゴミが、雪が沈んでいく川の側には、誰も寄り付かない。

僕はここで少し仮眠をとる。外で寝ることは気持ちがいいから。

――音楽を聴きたいから。


上で鳴り響くせわしい車の音ではない、もっと汚い音。

泥のように粘っこく、深い傷を想起させえぐる――言うなれば黒板に爪を立てたような音。

最初は不快だった。

「上手」って言ったのも皮肉のつもりだった。

だけど、少女は感謝をしていた。

「馬鹿だなぁ…」って思ったのは僕も一緒だよ、絃。

皮肉って言葉を覚えた方がいい、君は優しすぎると思う。

人見知りの癖に僕なんかに感謝を告げてくれた。

……一年後だけど。

絃と母親の間に何があったかなんて知らないし、知るつもりもない。

でも、一般的には捨てた母親に戻って来てほしいとは思わないんじゃないかな。

“異常“だよ。


“ガタン“

ギターケースを柱に立て掛け、赤毛の少女が腰をかける。


「おはよう、おじさん」


「はろー、雪切さん」


「絃でいいよ。そのために名前教えたんだし」


朝焼けに溶けていく挨拶。

吐いた息が白く揺れた。


「久々だね、何してたの?」


「君を止めるための説得材料を探してた」


「ふーん、で、見つかった?」

「転生以外で私がギターが上手くなって、対人関係がまともになる方法」


「なかったよ」


「じゃあ――」


「だけど、やっぱりやめて欲しい」


少女は啞然とし、こちらを眺めている。

いつものカッコいい横顔とは裏腹、汚い川に似合う顔。

推しの意外な一面って奴だな。


「そっか、でも私変えないよ。だって、おじさんの願いと私の意志は関係ないから」


「・・・」


まあそうだよな。

大丈夫、そのために実家まで行ったんだ。

僕の夢を叶えるために。


「――一生養っていくから、転生やめてくれない?」


「は!?」


透き通った冬の空気に絃の破裂音のような声が響き渡る。

あまりにも突飛な叫びに思わず耳を塞ぐ。


「……びっくりしたなぁ、どうしたの急に」


「ど、どうしたのって、だって、だって、おじさんが急にいうから……!」


「あ、ごめん。そうだよ――」


「わ、私も……おじさんのこと、嫌いじゃないよ。でも、でも結婚はできないよ!」

「だって、まだ付き合ってもないし……」

「ちゃんと話したのもつい最近だし……」

「それに、私、女子校だから……そういうの、わかんないし……!」

「パン屋の子供だしっ…!」


「……?」


頬と耳を紅潮させながら、前髪を撫でて、意味の分からないことを言っている。

結婚、付き合う?僕が絃と?一週間前初めて話した少女と?

いやいやいや、ないないない。

だって僕ロリコンじゃないし。

そもそも恋愛感情持ってないし。


「何の話?」


「……えっ、だっていま、養うって」


「いや、違う違う!結婚じゃなくて!」

「単純に時間を作るって話」


「ほら、この社会だとお金がなきゃ生きていけないだろ?」

「そのためには働かなきゃいけない」

「そこを僕が賄うから、君にずっとギターを練習してほしいってこと」


「……な、なんだぁ~」

「…言葉足らず過ぎるよおじさん」


「ごめん」


沈黙が包む。

少女は高鳴った心臓が飛び出ないように胸部を抑えている。

なんて言われるんだろうか……?


「なんで私にそこまでしてくれようとするの?」


どこかで聞いたことがある質問。

本を渡した時も言われたっけ。


沈黙。

川のせせらぎだけが聞こえる。


「ファンだから」


「噓」


「・・・」


恥ずかしいけど言うしかないか。


「夢をまた追い始めたんだ」

「でもそれは僕じゃできない」

「君にしかできない」


「おじさんの夢って?」


「僕みたいな人間にも意味があると証明すること」


絃は黙って足元の石をつま先で転がした。

川の水が当たって小さな波紋が広がる。


「なにそれ、私に関係ある?」


「ああ、君は“ダメ人間“なんだろ?そういう人間が日の目を浴びるとき、僕の夢は叶う」


石を拾い上げ、水面に投げる。

跳ねることはなく沈んでいった。


「意味わかんない…何それ。おじさんに何のメリットがあるの?」


「僕のメリットとかはどうでもいい」

「ただ君の姿を見て――」

「生きたいと思える人間を、無価値だと悲観する人間を、友人を失う人間を」

「そういう人たちを減らしたいんだ」


「君は、同じような人間を救いたいとは思わないか?」

「頑張っても頑張っても、報われなくて、誰にも見てもらえなくて」

「泣いている誰かを、命を止める誰かを救いたいとは思わないのか?」

「きっと君にもあったと思う、誰かのギターを聴いて『こんな風になりたい』とか、『この音楽は私をわかってくれる』とか」

「君はそうなるべきだし、そうなれるし、そうなってほしい」

「自分のことを脇役だと、無名のモブキャラだと思っている人に諦めて欲しくないんだ」

「僕は今にも沈みそうな人達に手を伸ばせばしない、だけど、肩を貸してやることはできる」

「そして君が手を伸ばす」


「それが僕の夢」


高架下に寒気が突き抜ける。

絃は何も言わない。

ただ川のそこを眺めている。

少女の目線の先には、転がっていく石。


彼女の人生だ。僕の意志など簡単に跳ね除けてしまえるだろう。

「夢など知ったことではない」と言われてしまえばそれで終わりだ。


川が赤に染まる。沈んだ石が照らされる。


「……知らないよ」

「おじさんの夢なんて……」


木が揺れる。黒い影が消える。

鳥が飛び立つ。何かに向かうように。


「飴が目の前に差し出されてるんだよ……取るに決まってるじゃんっ…!」


「うん、そうだよね。ごめ――」


遮るように雪が振り出す。

街の輪郭が白に染まっていく。


「でもっ!」


少女の白い声が響く。

それはきっと高架下だけじゃない。

この街で、世界で響いた気がした。

神様にさえ届いただろう。


「私も、私と同じような人を救いたい!」


吐く息は少女を包む。


「気持ちが分かってあげられるから」


雪が外界の音を消し去り、息をつく音だけが僕と絃の世界を支配する。


「――涙を拭ってあげられるから!」


叫んだ。


「転生しても、お母さんは戻ってくるか分からないけど」

「転生しなければ、救える人がいる」

「おじさんは言った。私なら手を取れるって」

「おじさんが信じた私が残る!」


「私、転生辞める!」


朝焼けが差し込む。彼女のためだけに。

でも、それが照らす光なのか、焦がす光なのかは分からない。

この世界には“絶対“が存在しないから。

努力したって報われない時は報われない。

――それでも、確かに、彼女はこの世界に“帰ってきた”。


僕はただ見つめていた。

雪の上で震える小さな手を。

泣きそうで、でも泣かない顔を。


「あんなこと言っといてなんだけど。僕はその選択に責任を持てない。君が成功する補償なんてどこにもないし、沈むだけかもしれない」

「絶対に成功するなんて分からない」

「それでも転生をやめてくれるの……?」

「僕の夢なんて君の人生には邪魔なだけだ……」


「おじさんのためじゃない、私のため」

「転生したら証明できないもん、私のありのままの自分に価値が合ったって」


雪上に季節外れの花が咲いた。

それは今にも折れそうな茎に、しわがれた花びら、蝶々も近づきはしないだろう。

きっと見る人もそれに憎悪を、嫌悪を憶えてしまうかもしれない。

だけど僕には分からない…それがとても美しくて――誰かに共有をしたい。

この感情に支配された馬鹿らしさに、感動を覚えてくれる人がいるはずだから。


「なんか……ごめん……」


「何で謝るの?」


「いや、何となく」


「なにそれ」


絃は笑った。

それがどこか嬉しくて、つられて笑ってしまった。


「おじさんが笑った顔初めて見た」


「……そう」


「ねえ、おばあちゃんのパン屋にご飯食べに行かない?」


「ああ、いいね」


降雪量が多いのか既にいたるところに積もっていた。

この時期の雪、この量、――例年にない。


踏みしめるたびに、靴底がきゅっと鳴る。


「パン、焼けてるといいな」


「焦げてる方がうまいよ」


「おじさんは何でも焦げてる方がいいって言いそう」


「そうかも」


白い息がふたつ灯りのついてない街灯の下で並ぶ。

見慣れた街も、雪が積もるだけで別世界に見える。


「おじさん、ホームレスじゃなかったんだ」


「当たり前だろ、この街は家がなければ生きていけない」

「こう見えても貯金一千万あるんだよ」


「いっ、一千万!」

「ホントに?」


「ああ、ほら」


ポケットから通帳を取り出し見せびらかす。

まあ、このためだけに姉さんからお金借りただけなんだけど。

「使わないし、すぐ返すから」って。


「前回の記入時から一気に五百万円近く増えてるんだけど……何の仕事してるの?」


「・・・」

「……あっ、ほらパン屋見えてきた」


「えっ、あっ、うん」


セーフ!

パン屋の前のガラス戸は曇っていて、中の灯りが滲んでいた。

誰かが焼いたパンの香ばしい匂いが、雪の中に溶けていく。

五時にやってるパン屋なんて珍しいな。


「店内に食べるスペース無いからさ、寒いけど前の場所で待ってて」

「亀のやつ持ってくるからさ」


嘲るような視線を飛ばす。

「恥ずかしくて買えないんだろ?」と言わんばかりだ。

全く、どうしてえくぼの似合う人間たちは僕の嫌な記憶を思い出させようとするのか。


「はあ…」


雪は降り続けている。

止むことを感じさせないほどの豪雪。


「はい、持ってきたよ」


「ありがとう」


「「いただきます」」


パンをかじる。温かい。

冷え切った指先が少しだけ痺れる。それも悪くない。

痛みがあるってことは、生きているってことだ。

前に進めるってことだ。


「ねえ、おじさん」


「ん?」


「いつかさ、曲作ってよ」


「曲?」


「うん。おじさんの音、ギターにしてみたい」


「まずはまともに弾けるようになろうな」


「うるさい」


雪の中食べるパンはこの前より甘くて美味しい。


「雪強くなってきたね」


「そうだね」


「今度、おじさんの家遊びに言っていい?」


「は?」


「私が将来養ってもらう家でしょ?内見だよ。な・い・け・ん!」


「ははは……」


定職につこう。

僕はそう誓った。


他愛のない会話。

少女は楽しそうに息をしている。

この一週間、かなり色々あったなぁ…

先輩、母さん、日向。

失ってばかりだったけど――得たものもある。


「わ!」


な、何で頬に、急に、手を…!


「あっ、ごめん。雪がついてたから」


「あ、ありがとう」


「あのさ、聞いてもいい?」


「何?」


「何でおじさんは同じ人を助けたいと思ったの?」


神崎にも同じこと聞かれたな。


「きっと何かあったんだよね?」


きっと少女は僕には劇的な過去があると思っているんだろう。

しかし、僕には何もない。

あるとしたらあれだ。


昔、ニュースで泣いてた人がいた。“普通に生きたい”って言ってた。

それが妙に忘れられなくてさ。


「絃はさ、“普通“って、なんだと思う?」


顎に手を当て思案している。


「……わかんない」


「ないんだよ」

「存在しない」

「少なくとも、指標として存在してはいけない」


「普通ってのは、人の中にあるものなんだ」

「十人十色なんだ」


「コミュニケーション能力が低いことが普通の人だっているし、高いことが普通の人だっている」

「ギターが下手なことだって普通だよ」


「そっか……そうなのかな」


「ごめん脱線しちゃった」

「僕の夢の始まりだよね」


「うん」


ふう……


「ないよ」

「あの事件の日以来、ただ自己悲観して諦める人を見たくなかったってだけ」

「それだけ」


「本当に?」


「うん」


「・・・」


「・・・」


「…アハハ!何それ!」


「はは、じゃあパン食べ終えたし帰るよ」


「うん、また明日」


「また明日」


雪は止まない。

春はまだ遠そうだ。

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異常 涼風 @suzukaze-

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