『猫のように生きてみれば』

紅坂

『猫のように生きてみれば』


「お疲れ様です……」


 今日もいつも通りに響く、店長の怒鳴り声を背に職場を出た。

 灰色の床を踏みしめながら、ため息が漏れる。


 ――よく毎日あんなに怒れるな。聞いてるだけで気が滅入る。


 更衣室で私服に着替え、外に出ると曇り空。

 湿った風が肌にまとわりついた。


「あぁ……そういや今日、夜から雨だっけ」


 帰り道、スーパーに寄って夕食の食材と飼い猫の好物のささ身を買う。

 レジ袋を提げ、少し重い足取りで家へ向かった。


「ただいま、ユウ――あれ? ユウ?」

「ニ゙ャ? フシッ」

「うわ、こわ……なんでそんな機嫌悪いの」


 出迎えてくれた飼い猫ユウは、どうにもご機嫌斜めだ。

 そっぽを向き、こちらを一瞥してどこかへ行ってしまう。


「もう……せっかくささ身買ってきたのに」


 職場や家でも、気難しい相手ばかり。

 仕方なく、少し窓を開けて扇風機を点けて座椅子に座り、いつものようにゲームを始めた。


 時計の針が一周するころ、疲れがどっと押し寄せてきた。

 まぶたが重くなり、そのまま意識が遠のく。


 ――強い風の音で目を覚ます。


 窓が大きく開いていて、雨が部屋に吹き込んでいた。


「うわ、やば! カーテンが濡れる!」


 慌てて窓を閉める。


「もう夜だよ……せっかく明日は休みなのに、寝落ちしてたのか」


 ふと、飼い猫の名前を呼ぶ。


「ユウ? ……ユウ?」


 返事がない。

 リビングにも寝室にもいない。


 ――まさか、窓から。


 胸の鼓動が早くなる。傘も差さずに飛び出した。


「ユウー! どこに行ったんだー!」


 雨に打たれながら、何度も名前を呼ぶ。

 街灯の光が雨粒を照らし、世界が滲んで見えた。


「寒い……ユウ、頼むから……」


 声が震える。胸の奥が痛い。

 自分の不注意で、大切な存在を危険に晒した。

 涙が雨と混ざり、頬を伝った。


 玄関を開けると、足元を何かがかすめた。


「え? ユウ!? どこ行ってたんだよ!」

「ニャ……? フン、ニャア」

「見つかってよかった……って、逃げるなよ!」


 そこには、まったく濡れていないユウがいた。

 いつものように、呆れ顔でリビングへ戻っていく。


「ニャー! ンニ゙ャー!」


 ――飯はまだか、と言わんばかり。


「ちょ、待って! 先にシャワー浴びさせて!」


 脱力しながらも、心の底から安堵した。


 シャワーを終えてリビングに戻ると、ユウが足に擦り寄ってきた。


「んにゃぁ? にゃぁんぅ」

「あ、はいはい。今準備するから」

「んにゃああ! んにゅふにゅふにゅ」


 いつの間に機嫌が良くなったのか甘えてくるおかしな姿に、笑いがこぼれる。

 ささ身とカリカリを皿に盛ると、ユウは夢中で食べ始めた。


 カタカタと食器が鳴る音を聞きながら、今日一日を思い返す。

 焦って、泣いて、必死になって……でも、結局いつも通り。


 自由で、気ままで、誰にも媚びない。

 そんな猫を見ていると、「ちゃんとしなきゃ」と自分を縛っていたことが、少しどうでもよくなった。


「少しは、猫みたいに生きてみるか……」


 いつものように晩ご飯を終え、いつものようにゲームを始める。


「こら、邪魔すんなって!」

「ギニャッ、ニ゙ギャァ!」

「痛っ! おま、結局これかよ!」


 悲鳴と笑い声が部屋に響く。ユウがこちらを見上げ、ふっと鳴いた。


『猫のように生きてみれば』


fin.

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『猫のように生きてみれば』 紅坂 @eater08

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