境神

@muchimou

境神


母方の伯父が亡くなって昨日から通夜なので両親ともに出かけている。


伯父は元来から漂泊人とでもいうような言葉が似合ういいかげんな人間で、そんな浪費家のために一族がたいした葬式をあげてやるわけもなく、結果として高校生の桜子と小学生の和樹は家で留守番していることになった。


子供達が出席する必要はないだろう、というのが親の判断だったようだ。


そういうことがあって、桜子は学校が終わるなり知り合いの家庭教師である朋子さんの家に預けてある和樹を迎えに行って、それから弟を連れて家に帰り彼の泥だらけの体操着を洗濯しなければならないのだ。


どうしてもそうしなければならないわけではなかったのだが、母親はたいして重要でない伯父の葬式で疲れて帰って来るだろうし、出来ることなら、家事の仕事を少しでも減らしてあげることが日頃世話をしてくれる母親への孝行になると桜子は考えたのだ。


 直接出席しているわけではないが、葬式という非日常的な行事がありそれに両親が参加している事実を考えると、やはり桜子の心の中にもいつもとは違った感慨のようなものがふつふつと湧き出てくる。


ほとんど伯父とは面識がなかったにせよ、その伯父が死んだのである。桜子にとってはそれは何か特別なことを意味しているように思えた。だが、彼女のなかでまだ自分が高校生であるという自覚があり、その自覚が深く考え込む事にたいして一種の妨げになっていた。


自分はまだ子供の範疇なのだから、人の生き死にに関することなど分からない。頭の中を占めているのは、明日のテストで教科書の何ページ目が出るかとか、そういうことばかりであると思い込んでいる。


だがそう思い込んでいるだけで実際には彼女は人間の生死に関して大人とおなじくらい深い考えを持つことのできる頭のつくりをしているのだ。ただそれが日常の雑事の波にのまれて、うまく発揮されていないだけなのである。


 泥に汚れた和樹の体操着を洗濯槽に放りこみながら、桜子のモヤモヤした心は漠然とそんなことを感じていた。


顔もよく憶えていない伯父の死でさえこれほど心がかき乱されるのだから、もっと近しい人間が死んだらどうなってしまうのだろう。たとえば、両親とか。


そう考えるとふっと洗濯物を掴む手が止まる。窓の外ではシトシトと降る雨が景色の色を物哀しい水色に染め上げている。昼間だというのに採光が悪く風呂場の脱衣所は凍えるほどに寒い。桜子は無意味な物思いを絶ち切るとさっさと服を洗濯槽の闇の中に突っ込んで蓋をしめ、スイッチを押した。





 洗濯機の画面に表示された鮮やかな赤い数字が刻一刻とゼロを目指していくあいだ、桜子は制服のままリビングのソファに横になって天井を覆う薄暗い空気を眺めていた。二の腕を額に当ててみるとヒンヤリと冷たい。髪をかきあげると、濡らしてもいないのに氷にでも触ったかのように冷たかった。


部屋一つ挟んだ脱衣所では洗濯機がすすぎを終わらせて、脱水モードに移行しているのだろう、ゴトゴトとなにやら物騒な音を立てている。


前に父親が洗濯機の下に敷くための板かなにかを買ってこようと言い出したことがあったのを思い出した。床が傷つくと思ったのだろう、それほどまでに洗濯機は激しく動き回るのだ。ただ、脱衣所に板など置くと腐るのが目に見えているし、お隣さん家とは十分な距離がある新興住宅街なので騒音による苦情の心配もなく、洗濯機はそのまま起動のたびに小躍りすることとなったのだった。


 ふいに人の気配を足元に感じて跳ね起きると、弟が立っていた。桜子はふうと胸でため息をつくとまた額に手を当ててソファに倒れ込んだ。弟の和樹はそんな姉のだらしのない姿をじっと見つめていたが、やがて今日の晩御飯でもたずねるかのような平坦な口調で言った。


「姉ちゃん、外に変な人がいるよ」


 んー? と桜子は生返事をする。和樹の言葉を脳が意味のあるイメージに変換するのにちょっと時間がかかった。外に、変な人がいる。変な人。つまりは普通の人間ではないのだ。郵便配達や、新聞の勧誘や、ご近所の知り合いのような。


 ではいったいどんな人が来たというのか。そこまで考えて初めて桜子にはことの重要性がわかったような気がした。変な人、が来たのだ。この家に。母も父も出かけていていなくて、高校生の自分と小学三年生の弟しかいないこの広い一軒家の住宅に、得体の知れない人間が訪れた。


 その時桜子の心を支配した気持ち悪さ、もっと正確にいうなれば心細さは彼女の目を醒ますには十分すぎるほどだった。


桜子は誰から隠れるでもなくそっと物音を立てないようにソファから身を起こすと、裏庭へと続く窓の方へ顔を向けた。そんな姉を少し怪訝な表情で見ていた和樹には、変な人という言葉の意味する本当のところがいまいち理解できていないようである。


つまり、彼にとって変な人とは、言いかえれば珍しい感じの人もしくは面白い感じの人なのであって、そこに桜子が感じたような変質者に対する危機感のようなものはほとんどないのであった。


「どこ?」


 桜子は弟に顔も向けずに言った。窓にはカーテンがかけられていて、その隙間から、雨粒の漂う中途半端な曇り空が灰色の光を放っている。裏庭には誰もいなかった。ただ雨の滴の重さで植え込みの葉が上下に揺れただけである。


「玄関の、門の外」


 後ろにトコトコついてきた和樹は姉の背中にむかってそう言った。カーテンの陰に隠れるように裏庭の光景を覗いていた桜子は、弟の言葉を聞くと彼の小さな手を握って部屋を出て、玄関に向かった。


暗い廊下の突き当たりを左に曲がり、ドアの前に立った。この家の玄関には強化ガラスが碁盤目のようにはめ込んであるつくりをしているから、外の景色は一目で見渡せる。桜子はそっとガラスに顔を近付けて見たが、とくに怪しい感じの人間は見当たらなかった。というよりも、誰もいない。


 それもそうだと桜子は思った。なんにしろ、ここはかなり最近に出来たばかりの郊外ベッドタウンなのである。総人口量はさほど少なくはないはずだが、日中は通学や通勤でほとんど人がいないのが特徴だ。商店街なども駅前に申し訳程度にあるだけだから、桜子達の住む番地のような奥まったところまで来る人間は居住者以外にはいないのではないかと思われた。


 おおかた散歩中の人でも見ただけだろう。桜子はそう思って弟の顔を見おろす。和樹は丸くて整った顔を桜子の方へ向けたまま、何かを問いかけるように動かない。彼の落ち着いた表情を見るに、別段恐怖を感じているわけではなさそうだった。ただそうであるとしてもなぜ弟は「さっきまでそこにいたんだよ」などの言いわけをしないのだろうか。ますます桜子には不可解だった。


 和樹がまたドアの窓から外へ視線を向ける。それにつられて桜子も外を見やった時、彼女は自分が見落としをしていることに気付いた。コンクリートブロックで造られた塀の上に、白い両の手がひたりとのせられていた。


 子供の手ではない。細く痩せさらばえた大人の手だった。その両手は指先をきっちりとそろえて、まるで家の中の桜子達にむかってお辞儀でもしているかのように恭しく配置されていた。


 風が止んでいるのだろうか、ドアから覗く外の光景は完全に凍りついていた。塀の上の白い手も動かない。桜子はしばらく何も考えずにその両手を遠くから観察していた。


 誰かが塀のうしろに隠れているんだろうか。


 しばらく経ってから、そういったごく普通の推察が彼女の頭の中に芽生えた。実はあの白い両手は身体から切断されたもので、桜子の思いもよらないような経緯であそこの塀の上に鎮座することになったなどと、そのようなことがあるものか。


 いったい誰が隠れているんだろうか。


 桜子は自分の視線がズッとその白い両手に吸い込まれていくのを感じていた。ますますドアのガラスに顔を近付け、もっとよく観察する。しだいに鍵を開けて外に出たい衝動にかられた。


「ねーちゃん」


 気がつくと、和樹が制服の袖を引っ張っていた。桜子は弟の顔を見て、そこに初めて不安の表情があらわれているのを感じた。怖い? と簡単な言葉をかけようとして、やめた。何も怖いことなんかないのだ。あそこにはただ誰かが隠れているだけだ。誰だかはわからないけれど。


 弱い力で袖を強く引っ張る弟の態度は、明らかにこの場から離れようという提案を示していた。が、桜子は弟の言う通りにする気がなかった。彼女は弟を宥めすかすか、説得するかするように曖昧な笑顔でほんの申し訳程度に「大丈夫」ということを言葉の外で伝えると、またドアに向き直って塀の上の白い手を見た。


 じっと見ていると、塀の向こうから頭がせりあがってきた。


「あ」


 桜子はほとんど無意識的に声を出していた。白い両手の主がゆっくりと姿を現し始めたのだ。それは見たこともないような白髪の老人だった。ざんばらに散った髪の毛は、塀の上に置かれた両手の肌よりも白い。まるで曇天から差し込む鈍い光が銀板に反射しているかのように、その白髪にはある種の神々しささえ感じられた。


 シワだらけの額を経て、目と鼻が塀の上に現れた。やけに大きな目だった。顔の皮膚にはいたるところに深いシワが走っていて、まるで布のほつれた皮袋が二つの大きな目玉に纏わりついているかのような顔をしていた。鼻は高く、そのてっぺんはまっすぐ桜子の方に向けられていた。


 あれは誰だろう……。桜子の中で、さきほどまで感じていたような強い警戒心が、少しづつではあるものの溶解していった。と同時に、老人が桜子の視線をつかまえ、黄ばんだ歯をむき出してニタニタと笑った。細い指先をまるで蜘蛛の脚のように踊らす。



 ◆



 ふいに思い出した。


 たしか、学校でクラスメイトの宮野麗美達が話していたことだ。


 転校生である桜子は最近引っ越してきたばかりなのでよくは知らないのだが、この地域には昔からよくわからない怪談があるのだ。


妖怪かなにかで、名前を通り悪魔といって、白髪の老人のような風体をしているらしい。そしてその老人は夕暮れ時の庭先に姿を現す。現れる場所は必ず家の塀の向こう側で、最初はそこからじっと中の様子を伺っているだけのようだ。


しかし塀から顔を出しているその姿をこちらが発見して気を取られていると、どんどんと塀を乗り越えて、しまいには家の敷地の中に入ってきてしまう。そうなったが最後、老人の姿に魅入られた人間は気が違って、侍であれば刀を抜いて誰かれ構わず斬りかかるし、女房であれば包丁を持って子供を追いかけまわす。


 話はそれだけで、どうにも気の利いた怪談とは言えない。ゾッとはするものの、話として面白みにかけるし、なんだかどうにも、腑に落ちない。


 もっとも、昔は動機の良く分からない殺人や犯罪を「通り悪魔の仕業だ」といって説明を与えていたから、そういう理解不能な衝動を投影した姿が白髪の老人という妖怪なのかもしれないけれど。教室の端の席で一人座っていた桜子は、宮野達の話が風に乗って流れてくるのを聞きながらそう思ったのだった。


 しかしそもそも、なぜ今になって通り悪魔なのだろうか。そう考えると、宮野達の子供っぽい考えに呆れたことを思い出した。たしか、宮野達のような昔からこの土地に住んでいた人間は、新興住宅街を嫌っていた。山腹を削って造られた街には、主に都会の人間が移り住んで、山麓の人々とは歴然とした生活感の違いが出ていたのだ。桜子がいまいち新しい学校になじめないのはそのせいもあった。もっとも、両親を始め誰ひとりとして彼女のストレスに気付いてくれる人間はいなかったが。


 ともかくも、宮野達は桜子のような都会から移り住んだ人間が嫌いだったから、なんとかして追い出したかったらしい。追い出すことはかなわなくても、嫌がらせ程度はしなければ気が済まなかったようだ。


そこで彼女が持ちだしたのが通り悪魔の話だった。こういう妖怪が出るという噂話を流せば、新興住宅街に住む人も減るのではないかと、そういう考えだったらしい。なんとも幼稚としかいいようがないが、当の通り悪魔役に用務員のお爺さんをも巻き込んで計画だてていた行動力には、少し目を見張るものがあった。


用務員のお爺さんは宮野の知り合いで、郷土愛に溢れる人だったようだ。住宅街のための道路が整備される際、山間にある道祖神が取り壊されることに猛抗議したのもこの老人だった。学校の門のところで掃除をしながら、しきりに生徒達にむかって地蔵様のありがたさを説いていたのを、桜子は覚えている。しかし住宅街に住んでいる桜子は気まずくなるだけだった。


「アレを壊したら、境の神さんがこっちに来るぞ。あっちから、こっちに――」


 そんなことを用務員のお爺さんは言っていた。だが桜子には全く意味が分からなかった。


 それにしても、本当に偽の通り悪魔をねつ造して、噂話を流そうとしているなんてやはり宮野のやることは馬鹿げている。それに協力する用務員も用務員だ。皆郷土を守る心が強いということだろうか。それとも、皆一様に都会の人間が嫌いということだろうか。どちらにせよ、桜子は宮野達を動かす異様な熱気に田舎者の団結力の恐ろしさを見たような気がした。


 気がつくと、白髪の老人が塀をひょいと飛び越えて庭の中に入ってきてしまっていた。


 枯れ木のような細い手足をぎこちなく動かしながら、白い襦袢一枚の姿で、緑の芝生の上をゆっくりゆっくりとこちらにむかって歩いてきている。


「……」


 桜子は黙ってその姿を見ていた。


 老人は相変わらず笑っていた。彫ったようなシワくちゃの顔だった。



 ◆



 ほんの少しの時間が経った。洗濯機は弟の体育着を綺麗に洗い上げると小躍りするのを止め、シンと静まりかえる。外では相変わらず霧吹きで湿らせたかのような空気がゆっくりと漂い、鳥が濡れた翼を重たそうに羽ばたかせながら止まり木を探していた。


 体育着を干さなくちゃ。桜子は林檎を剥くナイフの手をはたと止めると顔を上げた。洗濯物を干すにしても、早くしておくにこしたことはない。外に干すわけにはいかないから、部屋干しになるだろう。あんまり生乾きの臭いが充満しているのもよくないから、両親が帰って来る前に取り込めるように、今干すのだ。そう思って彼女は立ち上がりかけた。


 剥いて、半分に切った林檎が皿の上に置かれている。テーブルの反対側には何かを心配そうに見つめている和樹の姿があった。


 桜子は弟と目が合うと、なんとはなしに笑った。


「――林檎食べる?」


 何気なくそう聞くと、和樹は首を小さく横に振って、


「いらない」


 と答えた。桜子は少し手持無沙汰で、手にした果物ナイフの柄を弄んでいたが、その刃に自分の顔を反射させて髪を少し整えると、フッと苦笑して皿の上に置いた。部屋がほんの少しだけ暗い。そろそろ電気をつけても良い頃かなと思った。が、母がいればまだつけるなとうるさいだろう。


「私も、いらないかな」


 桜子はスッと立ち上がると二つに切った林檎を見おろしながら言った。身体を伸ばし、背骨を鳴らす。どうにも、何でもない日常の午後だと思った。本当に、遠くで親戚の葬式をやっているような日だとは思えなかった。


 と思ったら突然足元がぐらついた。


「――あ」


 やはり、いくら何でもないと思っていても、心のどこかでは疲れを感じているのかもしれない。家のことでも、学校のことでも。桜子は眩暈を感じて、椅子の背に手をつきながら目頭を押さえた。和樹が心配そうにこちらに来る。大丈夫、大丈夫というと桜子はもう一度立ち上がった。


 まぁ、これで普通なのだ。彼女は深呼吸してそう結論づけた。なぜとはいえ、親戚が死んだのだから。それが一つの引き金として、今まで溜めこんでいた言葉に出来ない色々なものがとめどなく流れてきても、人間として普通だろう。ましてや自分はまだ高校生なのだから、何も我慢することはない。


 玄関の方で鍵を開ける音がした。両親が葬式を終えて帰ってきたようだ。


「ただいま」

「おかえりなさい」


桜子はしまったと思った。まだ和樹の体育着を干していない。母は怒るだろう。どうして、洗濯物を干しておいてくれなかったの。私はこれからご飯を作らなくちゃいけないっていうのに、本当に気のきかない子ね。


そう言うに決まっている。


「桜子、桜子」


 母が呼んでいる。どうにも、疲れて気が立っている口調だ。玄関まで来て荷物を運んでほしいということだろう。桜子はふらつく足をなんとか動かしてテーブルを離れようとした。


 その前に、皿の上に置いたナイフと、そこに映る自分の姿が見えた。桜子は何とはなしにその柄を取って握ると、部屋を出た。


 なんだろう、ひどく疲れている様子だ。どうしてこんなにも疲れているんだろうか。


やはり伯父が死んだからだろう。


顔もよく憶えていない伯父の死でさえこれほど心がかき乱されるのだから、もっと近しい人間が死んだらどうなってしまうのだろう。


たとえば、両親とか。

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