はじめてのおしごと②
一歩、また一歩と、重厚な扉に近づく。ひんやりとしたドアノブに手をかけ、ゆっくりと息を吸う。
(
真鍮の鴉に、心の中でそっと声をかける。
扉の中央に鎮座する、精巧な鴉の装飾。これは、イレクトさんがこの店にかけた、いちばん最初の魔法なのだと教わった。訪れる者の心の色を、ほんの少しだけ覗き見るための――小さなまじない。
私の声に応えるように、鴉の眼に埋め込まれた小さな黒曜石が、一瞬だけ、紫の光を瞬かせた。途端に、私の脳裏に、扉の外の光景が流れ込んでくる。
そこに立っていたのは、私よりも少し年上だろうか――亜麻色の髪をゆるく三つ編みにした、不思議な雰囲気の女性だった。べっ甲縁の眼鏡の奥にある菫色の瞳は、深い疲労と、助けを求めるような切実な色を宿している。その手には、何かを
大丈夫、この人は、怖くない。
ただ、何かに、とても困っている人だ。
魔法がもたらした光景がすっと消える。私はもう一度、今度は決意を込めて息を吸うと、その扉をゆっくりと開いた。
カラン、と澄んだベルの音と共に、私の、まだ少しだけ上ずった声が店の中に響く。
「ようこそ、『木漏れ日』へ。」
扉の向こうに立っていたのは、先程、鴉の瞳を通して見た通りの女性だった。ハーブの刺繍が入ったエプロン。その姿に、私はどこか親近感を覚えた。
「あら、イレクトったら、お手伝いさんを雇ったのね?」
女性の親しげな声に、私はどう返すべきか一瞬迷う。私が何かを言うより早く、ソファに腰掛けたままのイレクトさんが、穏やかな声を響かせた。
「やあ、ロゼ。客が来たと思ったら君だったか。」
その声に、ロゼと呼ばれた女性はハッとしたように顔を上げる。そして、店の奥にいるイレクトさんの姿を認めると、安堵と焦りが入り混じったような複雑な表情で、早足に店の奥へと駆けていく。
「イレクト!やっぱりいたのね。あなた以外に、もう頼れる人がいなくて……!」
切羽詰まった様子の彼女――ロゼさんの視線が、私とイレクトさんの間を行き来する。吸い込まれそうな2つの菫にじっと見つめられると、思わず背筋がぴん、と伸びた。
「……彼女、違う匂いがするわ。また、迷子を拾ったのね?」
ロゼさんの言葉に、どきり、と心臓が跳ねる。違う匂い。それはきっと、私が「マヨイビト」であることを見抜いている、ということなのだろう。私が返答に窮していると、イレクトさんがくつくつ、と喉の奥で笑った。
「鼻がいいのは相変わらずだな、ロゼ。彼女はマリ。君のいうとおり、マヨイビトだよ。向こうへ帰る手伝いをしているところ。」
イレクトさんの言葉に、ロゼさんは心底驚いた、というように目を丸くした。
「ふーん……帰りたがるマヨイビトがいるなんて。まあそれは置いておいて……聞いてちょうだい!」
ロゼさんはそう言うなり、テーブルに革袋を置くと、がさり、と乾いた音を立ててその中身をぶちまけた。転がり出たのは、無残にかじられた薬草だった。銀色に輝く葉脈を持つ、見たこともない植物だ。
「私の薬草庫が……荒らされているの!ここ数日、夜な夜な何者かが忍び込んでは、一番大事にしている棚の薬草ばかりを……。これは、今朝見つけた『月の涙』の残骸よ。」
早口に、けれど切実に訴えるロゼさんの声は、怒りと悲しみで震えている。
「一度だけ、影を見たわ。小さくて、まんまるで、全身が綿毛みたいにふわふわで……。でも、とにかくすばしっこいの!罠を仕掛けても、全部すり抜けられてしまうし……!お願いイレクト、あなたの知恵を貸して!」
イレクトさんは静かに話を聞いていたが、かじられた薬草を指先でそっとつまみ上げると、ふと、その視線を私に向けた。悪戯っぽく、それでいて、全てを見通すような不思議な瞳だった。
「きっと
唐突に、全ての決定権が私に委ねられた。
驚いてイレクトさんを見ると、彼の翠の瞳は、楽しそうに細められている。これは、きっと試されているのだ。私が、ただ守られるだけの「迷子」でいるのか、それとも、この不思議な世界の当事者として、一歩を踏み出す覚悟があるのかを。
私の視線が、テーブルの上の無残な薬草と、祈るような眼差しのロゼさんとの間を往復する。怖い、という気持ちがないわけじゃない。未知の存在。
私に、一体何ができるというのだろう。
けれど、それ以上に、目の前で困っている人を放ってなどおけない。きっとイレクトさんは、私を信じてこの問いを投げかけてくれている。
――その信頼に、応えたい。
私は、一度だけ、きゅっと唇を結ぶと、顔を上げてまっすぐにイレクトさんを見つめ返した。
「……はい。やらせて、ください。」
か細いけれど、自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。その返事を聞いて、イレクトさんは満足そうに頷いた。
「貴女、マリちゃんって言うのね。まあ、少し不安だけれど、マヨイビトは私たちと違う性質を持つから……もしかしたら、あの毛玉を捕まえることができるかもしれないわね。」
ロゼさんの言葉に、私は思わず彼女の顔を見つめた。胸にちくり、と小さな棘が刺さったような気がした。
(私たちと違う、性質……?)
ロゼさんの言い方は、まるでそれが、何か特別な力になる可能性があるとでも言いたげだった。
「その通りだね、ロゼ。この世界の理に染まっていないマリの存在は、魔物にとってはイレギュラーなものだ。君の罠をすり抜けるような賢い子でも、マリの存在は予測できないかもしれない。」
「……賭けてみる価値は、あるのよね?」
ロゼさんはそう言うと、期待と不安が入り混じったような複雑な表情で、もう一度私を見た。
私だから、できることがあるかもしれない。
その事実はずしりとした重圧と、胸が熱くなるような不思議な高揚感とを、同時に私にもたらした。
「というわけだ。決まりだね。」
イレクトさんは、私の肩をぽんと軽く叩いた。
「ロゼ、その依頼、僕らの『木漏れ日』が正式に受けよう。」
「ええ……ありがとう、イレクト、マリちゃん……!」
「ただし、報酬はきっちりもらうよ。」
「少しくらいは、まけておいてちょうだいね。」
ロゼさんは、小さなほくろのある口元をニヤッとあげてみせた。その悪戯っぽい挑戦的な笑みに、イレクトさんは少しも動じず、穏やかに微笑み返す。
「考えておくよ。」
「宜しく頼むわね。」
二人の間で交わされる軽妙なやり取りは、長年培われた信頼関係があるからこそなのだろう。私は向こうの世界の親友を思い出しながら、その光景を眺めていた。
「ふふ……さて、と。」
イレクトさんはソファからすっと立ち上がると、テーブルの上に散らばった『月の涙』の残骸を、慈しむように指先で集めた。
「まずは、相手を知ることから始めようか。ロゼ、もう少し詳しく話を聞かせてくれるかい?その……『毛玉』が出没する時間や、薬草庫の様子をね。」
「ええ、もちろんよ。」
ロゼさんは、待ってましたとばかりに頷くと、指を折りながら説明を始めた。
「現れるのは、決まって真夜中。月が一番高く昇る頃よ。薬草庫には、精霊除けの術を張っているのだけれど、なぜかあの子には効かなくて……。それに、あの子が狙うのは、月の光を浴びて育つ、魔力の高い薬草ばかりなの。」
「なるほどね。光り物が好きな、食いしん坊、か。」
イレクトさんは何かを納得したように頷き、楽しそうに目を細めた。
「マリ、君が相手にするのは、たぶん『マヴリガータ』と呼ばれる、光の精霊の子供みたいなものだ。本来は人懐っこくて、悪さをするような子たちじゃないんだが……どうやら、とびきりグルメな子が、ロゼの薬草庫を気に入ってしまったらしい。」
「マヴリガータ……?」
初めて聞く名前に、私は首を傾げる。光の精霊。その響きはとても綺麗で、薬草を無残にかじるような乱暴な姿とは、どうにも結びつかなかった。
「性質は、そうだな……好奇心旺盛で、きらきらしたものが大好き。見た目は綿埃にネコの耳が生えたようなもの。彼らは頭が良いから……この世界の理でできている罠を、光のようにすり抜けてしまう。だから、ロゼの仕掛けた罠も効果がなかったんだろう。」
イレクトさんの視線が、私に向けられる。
「でも、マリは違う。マリという存在そのものが、メルミュールの理から外れた、いわば『イレギュラーな罠』みたいなものなんだ。だから、毛玉はきっと君に興味を持つ。君がそこにいるだけで、最高の『おとり』になれるのさ。」
「おとり、ですか。」
「そう。だから、今夜は僕と一緒に、ロゼの店へ行こう。君には、毛玉の大好物の『月の涙』の代わりに、薬草庫に座っていてもらう。きっと、まんまるな毛玉が、君に会いにやってくるはずだよ。」
イレクトさんはまるでこれから楽しい夜の散歩にでも出かけるかのように、軽やかに言った。私の心臓は、不安と、そしてほんの少しの期待で、とくん、と大きく音を立てた。
私のはじめてのおしごとは、どうやら――きらきらしたものが大好きな、食いしん坊の毛玉を捕まえることになるようだった。
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