第2話

 夕食後、結衣は自分の部屋で宿題をしていた。でも、昼間の佳織との会話や、母親との話が頭から離れない。

 自分が病気をしたことがない。怪我もしにくい。体力も同級生より優れている。そして、父親も同じような体質らしい。

 一つ一つは些細なことかもしれないが、全部合わせて考えると、やはり普通ではないような気がする。でも、それが一体何を意味するのかはわからなかった。

 机の上には、祖父からもらった考古学の本が積んである。古代文明や遺跡の写真が載った本で、時々パラパラとめくって眺めている。今夜も、宿題に飽きて手に取ってみた。

 ページをめくっていると、古代ギリシャの神話についての章が目に留まった。神々や英雄たちの物語が、美しい挿絵と共に紹介されている。

 アキレス腱で有名なアキレスは、母親の女神テティスに冥界の河スティクスに浸けられたため、踵以外は不死身の体を持っていた。ヘラクレスは半神半人で、常人を超えた力を持っていた。

「神話の世界の話よね……」

 結衣は苦笑いしながら本を閉じた。自分の状況と神話の英雄を重ね合わせるなんて、ばかばかしいと思う。でも、どこか心の奥で、完全に否定できない自分がいることも確かだった。

 窓の外では、夏の虫たちが鳴いている。もうすぐ夏休み。今年の夏は、何か特別なことが起こるのだろうか。

 そんなことを考えながら、結衣は再び宿題に向かった。数学の問題を解きながら、頭の片隅では様々な疑問がぐるぐると回り続けている。


 翌朝、結衣は いつものように早起きして学校に向かった。昨夜の疑問は相変わらず解決していないが、日常の忙しさに紛れて少しずつ薄れていく。

 教室に着くと、佳織がもう席についていた。昨日よりも顔色がよく、完全に回復したようだ。

「おはよう、結衣ちゃん! もう大丈夫よ」

「おはよう。よかった、元気になったのね」

「ありがとう。昨日はちゃんと薬を飲んで、早く寝たの。やっぱり健康管理って大切よね」

 佳織は元気よく笑った。その笑顔を見ていると、昨日の疑問が少しばかばかしく感じられてくる。

「そうね。私も気をつけなきゃ」

「結衣ちゃんは大丈夫でしょ。病気知らずなんだから」

「そんなことないよ。誰だって病気になるときはなるもの」

 そう言いながら、結衣は自分でも信じていない言葉を口にしていることに気づいた。本当に自分も他の人と同じように病気になることがあるのだろうか。

 朝のホームルームが始まると、担任の田中先生が夏休みの課題について説明を始めた。

「夏休みまであと一週間ですが、課題の確認をします。まず、国語の読書感想文……」

 先生の説明を聞きながら、結衣は窓の外を眺めた。青い空には白い雲が浮かんでいる。平和な日常の一コマだ。

 でも、心の奥では昨日から続く疑問が静かに渦巻いている。自分は本当に普通の女子高生なのだろうか。それとも、何か特別な……。

「太田さん、聞いてますか?」

 田中先生の声で、結衣は現実に引き戻された。

「は、はい! すみません」

 クラスメイトたちがくすくすと笑っている。佳織も心配そうな顔でこちらを見ていた。

「夏休みの課題についてもう一度確認してください。特に、歴史のレポートは重要ですからね」

「はい、わかりました」

 結衣は慌てて返事をした。歴史のレポート。あまり得意ではない分野だが、祖父に相談すれば何かアドバイスをもらえるかもしれない。

 そんなことを考えながら、結衣は再び授業に集中しようと努めた。でも、心の奥の疑問は消えることがなかった。


 昼休みになると、結衣と佳織は再び机を向かい合わせにしてお弁当を食べた。

「昨日の夜、お母さんと話したんだけど……」

 結衣は昨日の会話の内容を佳織に話した。父親も同じような体質だったこと、家族みんな病気知らずだったこと。

「へえ、やっぱり遺伝なのかもね。でも、それってすごいことよ。病院代もかからないし、薬代も節約できるし」

 佳織は相変わらず明るく受け取ってくれる。その反応に、結衣は少し安心した。

「でも、ちょっと不思議よね。普通の人とは違うっていうか……」

「みんな何かしら普通じゃないところがあるものよ。私だって、妙に記憶力がいいし、結衣ちゃんだって運動神経がいいじゃない」

「そうかな……」

「そうよ! それに、健康なのは本当にいいことよ。私なんて、風邪ひくたびに辛い思いするんだから」

 佳織の言葉には説得力があった。確かに、病気をしないというのは恵まれたことなのかもしれない。

「ありがとう、佳織。なんかすっきりした」

「どういたしまして。でも、もしも本当に特別な体質だったとしても、結衣ちゃんは結衣ちゃんよ。私の大切な友達に変わりはないから」

 佳織のその言葉に、結衣は心の底から救われたような気がした。そうだ、たとえ自分が他の人と違っていたとしても、それで自分の本質が変わるわけではない。

「佳織って、本当に優しいのね」

「えへへ、照れちゃう」

 二人は顔を見合わせて笑った。教室には他のクラスメイトたちの賑やかな声が響いている。何気ない日常の一コマだが、結衣にとっては大切な時間だった。

 午後の授業が始まる前に、結衣は携帯電話を確認した。父親からメールが来ているかもしれないと思ったのだ。でも、新着メッセージはなかった。

 時差の関係で、父親からの連絡は夜になることが多い。今夜こそは、父親に直接聞いてみようと結衣は心に決めた。自分たち家族の体質について、もっと詳しく知りたかったのだ。


 その日の夕方、結衣は陸上部の練習に参加した。短距離走のタイムを測る練習で、結衣はいつものように好記録を出した。

「太田、今日も絶好調だな」

 顧問の山田先生が満足そうに頷いている。結衣はいつものことだと思っていたが、改めて考えると、確かに自分の記録は安定している。体調の波がほとんどないのだ。

 練習後、更衣室で着替えながら、同級生たちの会話が聞こえてきた。

「最近疲れやすくて……」

「私も。夏バテかな?」

「結衣ちゃんは元気よね。羨ましい」

 みんな何かしら体調の不調を抱えている。それに比べて、自分は確かに恵まれているのかもしれない。


 家に帰ると、母親が心配そうな顔でテレビを見ていた。

「どうしたの?」

「C国の調査船の件よ。また新しい動きがあったみたい」

 テレビでは、昨日と同じような調査船のニュースが流れている。でも今度は、複数の船が確認されたという内容だった。

「大丈夫かしら、お父さん……」

 母親の不安そうな表情を見て、結衣も心配になった。父親の出張先は直接関係ないとはいえ、世界情勢が不安定になっているのは確かだった。

 その夜、結衣は父親からの電話を待った。でも、いつまで経っても電話は鳴らない。時差を考えると、もう少し遅い時間になるかもしれなかった。

 窓の外では、相変わらず夏の虫たちが鳴いている。平和な夜の音だが、どこか不安を感じさせるものがあった。

 結衣は自分の手のひらを見つめた。今まで大きな怪我をしたことがない手。病気で震えたことも、熱で火照ったこともない手。

 本当に普通の人と同じなのだろうか。そして、もしも違うとしたら、それは一体何を意味するのだろうか。

 夏休みまであと一週間。きっと何かが変わる予感がしていた。でも、それが良い変化なのか、それとも……。

 結衣は深いため息をついて、ベッドに横になった。明日もまた学校がある。普通の日常が続いている。でも、心の奥底では、何かが静かに動き始めていることを感じていた。

 外では相変わらず虫の声が響いている。そして、遠い海の向こうでは、灰色の調査船が静かに波を切って進んでいるのかもしれなかった。

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