アガルタ・クライシス ー接点ー

来栖とむ

第1話

 七月の太陽が校舎の窓ガラスを容赦なく照らし続けている。もうすぐ夏休みだというのに、教室の中はまだ授業の余韻で重苦しい空気が漂っていた。

「はぁ、やっと終わった……」

 太田結衣は机に突っ伏しながら、深いため息をついた。現代文の授業で扱った古典の内容が頭の中でぐるぐると回っている。歴史的な背景だの、当時の文化だの、そういった話には正直あまり興味が持てない。

 でも、祖父の話は違った。

 祖父は考古学の教授をしていて、今でもたまに家に来ては昔の遺跡や発掘調査の話をしてくれる。同じ歴史の話でも、祖父が語る古代の人々の生活や、土の中から出てくる不思議な遺物の話は、なぜかとても興味深く聞けるのだ。きっと愛情を込めて話してくれるからだろう。

「結衣ちゃん、お疲れさま」

 顔を上げると、友人の折田佳織が席に戻ってきたところだった。佳織は結衣と同じクラスで、小学校の頃からの親友だ。いつもは元気いっぱいの佳織だが、今日は少し顔色が悪いように見える。

「佳織、大丈夫? まだ夏風邪の具合悪いの?」

「うん、まだちょっと……。二日も休んじゃって、みんなに迷惑かけちゃった」

 佳織は申し訳なさそうに頭を下げる。彼女は責任感が強くて、ちょっとしたことでも自分を責めてしまう性格だった。

「そんなこと気にしなくていいよ。具合悪いときは休むのが当たり前でしょ?」

「でも、夏風邪なんて恥ずかしいじゃない。暑いのに風邪ひくなんて、体調管理がなってないって言われそう」

 佳織は頬を膨らませながら言った。その表情がおかしくて、結衣は思わず笑ってしまう。

「ぷっ、何それ。風邪なんて誰だってひくものでしょ?」

 そう言いながら、結衣はふと自分のことを振り返った。そういえば、自分は風邪をひいたことがあっただろうか。記憶を辿ってみても、熱を出して学校を休んだという覚えがない。インフルエンザで学級閉鎖になったときも、自分だけはなぜかかからなかった。


 昼休みのチャイムが鳴ると、結衣と佳織は机を向かい合わせにしてお弁当を広げた。

「わあ、今日のお弁当も美味しそう! 結衣ちゃんのお母さん、お料理上手よね」

「ありがとう。でも佳織のお弁当だって負けてないよ」

 二人はお弁当を交換しながら、他愛もない話をしていた。佳織は風邪をひいていた間のことを話し、結衣はそれを聞きながら相槌を打っている。

「それにしても、夏風邪って本当に辛いのね。熱は38度まで上がるし、のどは痛いし、鼻水は止まらないし……」

「大変だったね。でも、もう大丈夫なんでしょ?」

「うん、薬を飲んで安静にしてたら治った。結衣ちゃんは風邪ひかない? いつも元気だよね」

 佳織の何気ない一言が、結衣の心に引っかかった。

「そうかな……そういえば、あまり風邪はひかないかも」

「あまりじゃなくて、全然でしょ? 私が知ってる限り、結衣ちゃんが病気で休んだことなんて一度もないわよ」

 言われてみれば、確かにその通りだった。小学校、中学校、そして高校に入ってからも、結衣は病気で学校を休んだことがない。風邪をひいたこともなければ、お腹を壊したこともない。周りのクラスメイトが次々とインフルエンザにかかっても、自分だけは平気だった。

「それって、すごいことよね。体が強いのかな?」

「うーん、どうなんだろう」

 結衣は箸を止めて考え込んだ。体が強いと言えばそうかもしれない。体育の成績はいつもクラスで上位だったし、持久走でも短距離走でも、同級生の中では一番の記録を持っている。でも、それが特別なことだという自覚はなかった。

「そういえば、怪我もしないよね。体育の時間に転んだりしても、いつもかすり傷程度で済んでるし」

 佳織の指摘で、結衣はさらに記憶を辿ってみた。小学生の頃、自転車で坂道を下っているときにバランスを崩して転んだことがある。その時も、膝に小さなかすり傷ができただけで、翌日にはもうかさぶたができていた。

 中学生の時には、階段を踏み外して転んだこともあった。その時は足首を捻ったかと思ったが、痛みはすぐに引いて、腫れることもなかった。

「確かに……大きな怪我はしたことないかも」

「羨ましいなあ。私なんて、この前も角で足をぶつけて青あざ作っちゃったのに」

 佳織は右足のすねを指差して苦笑いを浮かべた。確かに、薄っすらと青い痕が残っている。

「でも、それって普通のことじゃない? みんなそんなものでしょ?」

「ううん、結衣ちゃんは明らかに違うよ。保健室に行ったところ、見たことないもの」

 そう言われてみると、確かに保健室にお世話になった記憶がない。頭痛で早退したこともなければ、体調不良で保健室のベッドで休んだこともない。

「なんか、改めて考えると不思議ね」

「でも、いいことじゃない! 健康が一番よ」

 佳織は明るく笑ったが、結衣の心の中にはもやもやとした疑問が残った。


 午後の授業も終わり、結衣は一人で家路についた。佳織は体調がまだ完全ではないということで、今日は部活を休んで早めに帰ることになったのだ。

 結衣が所属しているのは陸上部だ。短距離を専門にしていて、県大会でも入賞するほどの実力を持っている。でも今日は、昼休みの会話がずっと頭に残っていて、練習に集中できそうになかった。

「ただいま」

 玄関で声をかけると、キッチンから母親の返事が聞こえてきた。

「お帰りなさい。今日は早いのね」

「うん、ちょっと用事があって」

 結衣は鞄を置いて居間に向かった。母親の太田恵は、エプロンをつけて夕食の準備をしているところだった。40代半ばとは思えないほど若々しく、結衣によく似た整った顔立ちをしている。

「お母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

「何? 改まって」

 恵は手を止めて振り返った。結衣は少し躊躇してから口を開く。

「私って、子供の頃から病気になったことってあったっけ?」

「病気? 急にどうしたの?」

「友達が夏風邪をひいて、それで話になったんだけど……私、風邪をひいた記憶がないなあって」

 恵は少し考えるような表情を見せてから、微笑んだ。

「そうね、確かにあなたは病気知らずの子だったわ。熱を出したことも、お腹を壊したことも、ほとんど記憶にないかも」

「やっぱりそうなんだ。なんでだろう?」

「体質なんじゃない? お父さんも同じような感じだったし」

「お父さんも?」

 結衣の父親の太田義明は、商社に勤めていて、現在は海外出張で外国にいる。半年ほど前から中東の某国に派遣されていて、連絡はメールや電話だけだった。

「ええ、お父さんも子供の頃から病気をしたことがなかったって、お義父さんから聞いたことがあるわ。風邪をひかないし、怪我もしにくいし、本当に健康そのものだったって」

「そうなんだ……」

 結衣は居間のソファに腰を下ろした。父親も同じような体質だったということは、遺伝的なものなのだろうか。でも、それにしても不思議だった。

「でも、いいことじゃない。健康で元気なのが一番よ」

 恵は佳織と同じことを言った。確かに、病気をしないというのはいいことのはずだ。でも、なぜだろう。どこか腑に落ちない気持ちが残っている。


 夕食の時間になると、恵と結衣は向かい合ってテーブルに座った。テレビをつけると、ちょうどニュースの時間だった。

「今日の主なニュースをお伝えします」

 アナウンサーの声が居間に響く。最初は政治のニュース、次に経済の話題が続いた。結衣は箸を動かしながら、なんとなくテレビに目を向けている。

「続いて、国際ニュースです。C国の調査船が、再び我が国の領海内で調査活動を行っていることが確認されました」

 画面に映し出されたのは、灰色の調査船の映像だった。海上保安庁の船が並走している様子も映っている。

「C国の調査船『海龍号』は、今月に入ってから頻繁に日本の領海内での調査活動を行っており、政府は抗議を続けていますが、C国側は『正当な科学調査』だと主張しています」

「また? このところ、こんなニュースばっかりね」

 恵が眉をひそめながら言った。確かに、最近はC国の調査船のニュースをよく目にする。

「何を調査してるんだろう?」

「海底の資源調査とか言ってるけど、本当のところはわからないわね。でも、勝手に他の国の領海で調査するなんて、ちょっと問題よね」

 結衣は画面を見つめながら頷いた。政治的な問題はよくわからないが、なんとなく不穏な雰囲気を感じる。

「現場は、東シナ海の南西諸島周辺海域で、この海域では過去にも同様の事案が発生しています。専門家は、C国が海底資源の詳細な分布を調査している可能性があると指摘しています」

 アナウンサーは淡々と事実を読み上げているが、その内容は決して軽いものではない。

「お父さんの出張先は大丈夫かしら……」

 恵がぽつりと呟いた。確かに、父親の出張先も情勢が不安定な地域だと聞いている。

「大丈夫だよ、お父さんは頑丈だから」

「そうね、あの人も病気知らずだから」

 恵は少し微笑んだが、どこか心配そうな表情は隠せなかった。

 テレビでは引き続きC国の調査船についてのニュースが続いている。専門家のコメントや、政府の対応についての解説が流れていた。

「こういうニュースを見ると、平和って当たり前のことじゃないのね」

「そうね……」

 結衣は箸を置いて、テレビに映る調査船の映像を見つめた。遠い海の上で起きている出来事が、なぜだか自分と無関係ではないような気がしてくる。根拠のない感覚だったが、胸の奥で何かがざわめいているのを感じた。

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