亡者の帰り道

東雲 千影

『亡者の帰り道』


 残業が続いていた。今日ももうこんな時間だ。

 オフィスから駅までの十分間。

 疲れきった顔のサラリーマンとOL達が亡霊のように歩いている。

 

 …私もその一人だ。目的なんてない。

 …来る日も来る日も、朝早く、夜遅くに同じ道を行ったり来たり。


 アルコールと人の汗の臭いが混じった臭い街を今日も歩く。

 ネオンの光がチカチカと目を差した。

 一日中履いたパンプスの踵が痛む。タイトスカートに締め付けられた脚がむくむ。



「あっ…ハンカチ……。」


 人混みの中、私は誰からともなく落ちてきたハンカチを拾った。

 ロボットのワッペンが付いた青いハンカチ。


 拾おうとしゃがみこんだ時、後ろから舌打ちをされた。

 …それでも拾いたかった。


 小さな子供がいる人が落としたのだろうか…。

 可愛いハンカチ。

 落とした人に手渡してあげたがったが、人が多くて分からなかった。


 私はフワフワとした優しい手触りを確かめるように、その薄汚れたハンカチを撫でた。

 誰かの温かい生活の痕跡に触れ、冷たく無機質だった私の手に温もりが戻ってくる。



 カツッ、カツッ、カツッ。

 パタッ、…パタッ。

 カツッ、カツッ、カツッ。


 革靴の足音に混じって、不規則でおぼつかない軽い足音が混じった。


 振り返ってみた。

 突然立ち止まったものだから、再び男の人に舌打ちをされた。


 ……通りの向こう、五十メートル程先に五歳くらいの男の子が見えた。

 黄色い帽子を被って、白い半袖に茶色い半パン。リュックを背負っている。


 …こんな時間の飲み屋街に子供。一人なのだろうか。

 ……このハンカチの持ち主だろうか。…いや、後ろにいるから違うか。


 私はしばらくその男の子を眺めた。

 男の子は動かない。


 …声をかけた方が良いだろうか。

 ……いや、これだけ人がいる。困っているなら既に誰かが声をかけているだろう。



 私は踵を返して再び歩いた。


 カツッ、カツッ、カツッ。

 パタッ、…パタッ。

 カツッ、カツッ、カツッ、カツッ。



 駅のホーム。

 向かいのホームにその男の子がいた。


 …こちらを見ているような気もする。

 ……帰り道は分かっているようだ。


 ふと目を離した隙に男の子は人混みに紛れて消えてしまった。



 ブォーーー。


 けたたましい警笛の音を立てながら電車が来た。




 扉が開く。

 …満員だ。

 酔っぱらったのおじさんの汗とアルコールの混じった息の臭いが充満している。それに混じって甘ったるい女の臭いがする。


 私はミイラになって乗り込む。

 意識のない三十分の時が流れる。


『パタッ、…パタッ。』


 頭の中であの足音が繰り返されていた。


 

 家の最寄りの改札を抜けた。…統率を失った虫のように人が散り散りになっていく。


 生暖かい風が頬を撫でた。


 カツッ、カツッ、カツッ、カツッ。

 パタッ、…パタッ。


 足を止めた。


 パタッ、…パタッ……パタッ。


 振り返ると、その男の子がいた。


 迷子…?……それとも。


 私は歩を進めた。


 カツッ、カツッ、カツッ、カツッ。

 パタッ、…パタッ。

 カツッ、カツッ、カツッ、カツッ、カツッ。


 ……人がいない。…迷子だったら警察に連れていったほうが良いかもしれない。


 振り返ってみる。

 やはり、いた。


 私はそっと近づいた。


 カツッ、カツッ、カツッ、カツッ、カツッ。


 男の子は動かない。


 私は腰を屈めて言った。


「…どうしたの?…大丈夫?」


 


 返ってきた声は、地鳴りのように低い男の声。


『…連れてって。』




 ……あぁ、そうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

亡者の帰り道 東雲 千影 @chikage_shinonome

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説