灰の谷の炉火

ReiN._Lily

触れられぬ手で撫でる愛を

灰は静かに降っていた。

風が起きるたび、色を失った粒子が空のどこかから剥がれ落ちて、頬に、肩に、髪に触れては音もなく溶ける。谷は深く、陽は薄く、遠くで岩が崩れる鈍い響きだけが世界の境界を教えていた。


その縁に、崩れかけた工房があった。梁は傾ぎ、壁は裂け、屋根の穴から灰が降る。それでも、奥の炉だけは生きているらしく、赤い火がほの暗い空間を揺らしていた。


入口は二つあった。

ひとつは人間用、もうひとつは巨人用。

人間用の扉は肩の高さで、軋む木がかろうじて形を保っている。巨人用の扉はその三倍の高さがあり、石で縁取られ、取っ手はわたしの背丈よりも上――人間が手を伸ばしても届かない位置にあった。そこを見上げると、まるで洞窟の入口のように感じられた。


わたしはその洞窟に吸い込まれるように歩き出した。

喉は渇き、靴底は磨り減り、言葉はもうほとんど出てこなかった。戸口の影が揺れ、わたしは反射のように一歩退く。低い天井に届くほどの影が、炉の赤に切り取られる。影は椅子に腰をかけた。燃える鉄の匂い、焼けた革の匂い、古い灰の匂い。そのすべてを背負ったような静かな気配。


巨人だった。

無言で伸びてきた手は、わたしの頭ほども大きい掌だった。思わず目を閉じる。けれど、その掌はわたしを掴まなかった。代わりに分厚い毛布が肩に掛けられ、木の椀が胸許に押し当てられる。椀の中で水が微かに揺れて、わたしの喉が勝手に鳴った。


「……ありがとう」


言葉にならない声が、灰に吸い込まれて消える。巨人は頷きもしなかった。炉がぱちりと鳴って、赤い光が影を長く引き伸ばす。わたしは毛布を抱え、火のそばに腰を下ろした。熱が膝から染みてくる。こわい、より先に、温かいが来る。自分が、自分の順番を取り戻してゆくような、不思議な安堵がそこにあった。


顔を上げる。

巨人の輪郭は暗く重く、口元にだけ赤が灯っている。顎の線と厚い唇の影。その大きさは、わたしの顔とほとんど変わらない。目は見えない。見えないのに、見られていると思った。視線の高さは遠く、けれど、火と影のどこかに確かにわたしが映っている、と直感だけが告げる。


「……ここは、あなたの工房?」


灰に沈む声で尋ねると、影が微かに動いた。巨人は椅子から身を起こし、ゆっくりと膝を折った。床がきしむ音が一度だけして、世界がわたしの方へ降りてくる。巨人はそのまま、片手を地に、もう片方の手を膝に置いて止まった。炉の赤に溶けるように、口元が近づく。唇の端がわずかに動き、低い声が、炉の中の空洞みたいに柔らかく響いた。


「……エイラ」


名乗りだけが置かれ、また炎の音に戻る。

エイラ――その音を口の中で転がす。硬いのに、どこか温かい。わたしは肩の毛布を握り直して、今度は自分の名を言った。


「エルシア・ブレイヴェン。旅の……途中で、迷って」


巨人は頷かなかった。頷く代わりに、爪先でわたしの頬の灰を払った。指の腹ではない。大きすぎるその指は、わたしの顔を押してしまうだろうから。爪の尖りをほんの少し傾けて、風のように肌をなぞる。触れたか触れないか、そのあいだ。けれど確かな温もりが、そこに残る。


火のそばで夜を過ごした。

わたしはほとんど喋り、巨人はほとんど黙っていた。わたしが谷の向こうの町のことを話すと、赤い唇の影がわずかに動いて、低い息の音が返ってきた。わたしが道に迷った理由を話すと、椀は満たされ、毛布は肩から落ちないように整えられた。言葉の代わりに、仕草が。説明の代わりに、火が。世界の秩序が静かに入れ替わってゆくのを、身体の奥で感じる。


眠気が、炉の熱に溶けてわたしの脈へ入り込む。わたしは膝を抱え、椅子の脚にもたれて目を閉じた。硬い床の感触。毛布の重み。遠くの崩落音。近くの火の音。そして――


心臓の音が聴こえた。

はっとして目を開ける。巨人は椅子から身をずらして、床に横たわっていた。胸の前に広い平ができ、そこに毛布ごとのわたしがそっと運ばれる。驚く間もなく、視界は胸の曲線と、炉火の影だけになった。厚い胸板の下で、規則正しく、深い振動が響く。世界でいちばん確かな音。わたしはその上で丸くなり、耳を押し当てた。


巨人は動かない。寝返りを打たない種族だと、あとで知った。

今はただ、静かな上昇と下降が、眠りの底へと誘う。


夜の半ばに、一度だけ目が覚めた。

炉はまだ赤く、灰はまだ降っている。唇の影が、すぐそばにあった。大きな息がふっとかかって、頬が熱を覚える。わたしは声にならない声で自分の名を呼ばれた気がして、答えの代わりに指を伸ばした。指先が胸の上に触れる。固いのに、あたたかい。触れたところから、小さく明かりが灯るみたいに血が巡っていく。巨人の爪先が、今度はわたしの髪を避ける。髪の流れに沿って、爪の角でそっと梳く。壊さないように。まるで、火の粉を集めるみたいに。


朝が来る前、灰の谷の色はさらに薄くなる。

わたしは胸の上から起き上がり、床に降ろされた。布を畳み、水椀を返す。出ていかなくては、と頭は言った。ここはわたしの家ではない、と。わたしは戸口の方へ歩き、ふと振り向く。巨人は椅子に戻り、まだ火を見ている。口元だけが、朝の気配にかすかに白く浮いていた。


「……行くね」

言ってみて、胸の奥が痛んだ。理由は分からなかった。ここに長くいるべきではない、という理性の声と、ここに、という別の声が擦れ合って、痛みになった。


巨人は、立たなかった。立ったら、また世界が遠くなる。代わりに、膝を折った。昨日と同じように。床が一度だけきしんで、顔が降りてくる。わたしはようやく、その目を見た。鈍色の、炉火を映した瞳。そこに、わたしがいた。わたしの小さな姿が、火と、灰と、彼女の中に、きちんと収まっていた。


低い声が、火の底から汲まれるみたいに、ゆっくりと言葉になった。


「……また来なさい、でもいい」

「うん」

「でも、できれば――」


言葉がそこでわずかに途切れ、厚い唇が迷うように動いた。わたしは息を呑み、背筋を伸ばす。炉がぱちりと鳴る。灰の粒が一つ、唇の影に落ちて消えた。


「……あなたが、いなければ」

巨人の爪先が、わたしの頬の寸前で止まる。触れないほどの優しさで、触れる。


「火も、冷えてしまう」


世界が、静かになった。

風も、灰も、崩落も、すべてが遠ざかって、胸の内側だけが鮮やかになる。わたしは頷いた。理由も方法も分からないけれど、頷く以外にできることがなかった。頷く動きが自分の中心から始まって、全身に広がっていった。


「……わたし、また来る。何度でも」


巨人の唇が、返事の代わりにわたしの額の上をかすめた。

全てを覆うほど大きいのに、触れたのはほんの一部だけ。炉火の息みたいに軽く、けれど確かな温度が残った。わたしは目を閉じ、手のひらを胸に当てる。昨夜の鼓動が、まだそこにいる。


戸口から外へ出ると、灰は相変わらず降っていた。谷は深く、陽は薄い。けれど、振り返ると、赤い灯がひとつ、工房の中で揺れていた。わたしはそれを確かめるように、長く見た。やがて灰が視界を埋め、灯は霞む。わたしは歩き出す。足跡に灰が積もって、たちまち消える。それでも、炉火の色は胸の内側に残った。消えない灯の形で。


――また来なさい、でもいい。

――できれば。

――あなたが、いなければ、火も、冷えてしまう。


言葉が、歩くたびに呼吸と混ざって、わたしの中で熱に変わる。谷の風は冷たい。けれど、指先は温かい。わたしは毛布を抱き直し、もう一度だけ振り返った。赤はまだそこにあって、灰の間で小さく瞬いた。


その灯は、わたしを待つ火だった。

そして、わたしが守る火になった。

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