第4話 犬の見つめる瞳
四季は冬になり、寒さが本格的に街を包み込み、街路樹は緑の葉を落とし、瘦せこけた姿で所在なさそうにしている。歩道を行く人々はそんな銀杏の木には目もくれず、分厚い上着を着こみ、マフラーを首に巻いて忙しなく歩いている。翔はいつものように美久と二人仲良く下校していた。そして、カイトと遊ぼうと田代家の庭先に入ろうとして、驚いた。いない。カイトがいない。翔は混乱した。
「お散歩に行ってるんじゃないの?」
と実久がおそるおそる言う。
「いや……田代さんの家はいつも朝と夜に散歩に行ってるの。だからこの時間にいないのはおかしい」
ともかく聞いてみよう、と翔は引き返してインターフォンを押した。誰も出てくれない。もう一度押しても、無反応。翔は困惑の果てに、引き戸を直接叩いてみた。誰も家にいないようだ。静けさが辺りを支配していて、翔は苛立ちを覚えた。が、傍に無言で立っている美久の存在を思い出し、一旦家に帰ることにした。マンションの前で美久と別れ、急いでエントランスに入る。こんな時はエレベーターがなかなか来ないのがもどかしい。ようやく来た四角い狭い箱に飛び込んで6階のボタンを何度も押す。お母さん、今日はパート休みだよな。優美は週四日ファミレスのウェイトレスをしているが、どちらにせよ夕方には帰ってくる。自宅に転がり込むと、母は居間の深緑色のソファに寛いで座り、液晶テレビでバラエティ番組を見て笑い声をあげていた。
「あらお帰り。……どうかした?」
優美はすぐに息子の尋常ではない様子に気が付いた。翔は事情を早口で説明した。彼女の表情が一転し、すぐ傍に置いていたスマホの画面操作を始めた。翔は自室にランドセルを投げ捨て、優美の隣に座った。何人かのママ友にLIMEを打ってみた、と彼女は翔に伝えた後、握った手を鼻に添えて、考えている。
「カイトくん、何歳ぐらいだったっけ」
「まだ5歳ぐらいだよ」
「じゃあ死んだってことはなさそうだよね。お母さん、他の事でちょっと思い当たる事があるんだけど……。カイトくんは無事だと思うな」
「思い当たる事って?」
その時優美のスマホにLIMEの返事が来た。読んだ後、素早く指を動かしてお礼を打ったあと、軽くため息をつき、その後真面目な顔になって翔の顔を見て話しはじめたが、歯切れは悪い。
「えーとね……悲しい話を今からするね。田代さんの家の長男の健さん、分かる? 35歳ぐらいの人」
「うん、分かるよ。何回か会った事ある。ちょっと前もカイトと遊んでたら家から出てきた。なんか暗い感じだった」
またスマホが鳴ったが、優美は無視して、唾を一度飲み込んだ後、健さんが自殺した事、神社の裏の雑木林で首を吊っていた事、警察の捜査や事情聴取やお葬式の準備があるのだろうという事、だからカイトくんも多分どこかに一時的に預けられているんだろう、という内容を淡々と話した。翔の全身がざわついた。じさつ? 首を吊った?
「そ、そんな……自殺なんて、どうして?」
「分からないわ。でもね、お母さんたちも、健さんが、うん、心の病気だっていうのは噂で聞いてたわ。……それが原因かもしれない」
翔は最後に会った健を思い出していた。元気のない、どこか淋しい感じだった。だけれども……。うつむく翔の頭を優美はやさしく撫でた。
「人は生きていればいろんな事があるのよ。もう少し大きくなったら分かってくる。落ち着いたら一緒に線香をあげに田代さんの家に行きましょう」
翔は頭の中が混乱して、同時に幾つかの感情が沸き起こって、それらが鬩ぎあって何も言えずにいた。母はスマホを触りながら、息子の心境を慮って同じく何も言わずに、ただ彼の横にいた。窓の外の空は次第に灰色から黒に変わりつつあり、街全体が闇に覆われはじめる。しかし、地上の家々には明かりが灯り、天空にもうっすらと幾つかの星が瞬きはじめている。まだ翔はこの世界には光と影があり、それらが時に応じて人を照らし、または覆う事を知らない。いや、幼いなりに片鱗は知ってはいるが、まだそこまでだった。
一週間ほど経って、田代家に寄り道せずに帰るのにも慣れてきた頃、翔と美久がポケットに手を入れて木枯らしの中、家路を歩いていると、美久が声をあげた。
「あれっ。 ね、あの犬……」
右手にある加山稲荷神社の入り口の鳥居を、一匹の茶褐色の犬が小走りで潜り抜けてゆく。見覚えのある姿だ……首輪も同じ青色。
「あれは、カイトじゃないか!?」
「私もそんな気がする」
「行ってみよう」
二人は早足で境内に入ってゆく。あの肝試し以来、ここに来る気を完全に失っていた翔は、一瞬足が怯んだが、カイトを見つけなければ、と自分を鼓舞して足を進めた。犬の姿が見えない。厳かな造りの正殿の前で二人は立ち止まった。
「どこに行っちゃったのかしら……」
翔は思案したが、ある事を思い出した。そして、まさか、と首を振ったが、この辺りにある雑木林はここしかない、と覚悟を決めた。幸い、一人ではなく美久もいる。
「行こう、きっとこっちにいる」
翔は美久を手招きして、竹藪に切り込む土手道を歩きはじめた。美久は暗い道へ入っていくのが怖いのか、少しためらう様子を見せた。翔は思い切って美久と手をつないだ。すると、彼女は少し微笑んで一歩踏み出した。
この先には例の廃洋館があるのだが、それでも行かなければならない、と翔は不思議な確信を持っていた、それが何とは分からなくとも。やがて土手道が終わり、広く開けた向こうに廃洋館が見える場所の手前で、二人は立ち止まった。何本もの樫や楠木が並び立っているところに、柴犬はお座りの姿勢を取っていた。二人の位置からは横顔が見える。
翔にははっきり分かった。あそこで、健さんは首を吊ったのだ。その時、カイトが二人のほうを見た。翔と美久はその時のカイトの瞳を一生忘れることはないだろう。哀しみを湛え、いなくなった健の全てを知り、限りない愛を持って家族の一員として彼の死を悼んでいる黒い深い瞳を。 翔はこの時、カイトの見つめる瞳の奥に神のような何かを感じた。無常と不条理を知りつつ、見つめることしか出来ない存在。翔はそこから一歩もカイトに近づくべきではないという事は分かった。そして、優美が言っていた、大きくなれば分かることがある、と言った意味も小さな胸で捉えられた気がした。思わず強く美久の手を握りしめた。美久もしっかり握り返してきた。小さな柴犬は微動もせず大樹を見つめ続けている。二人は、どちらからともなく振り向いて、元来た土手道を戻り始めた。それは緩やかな登り坂だったが、二人はそれを必ず登らなければならない。 木々の茂みの中から数羽の四十雀がさえずる声が聞こえた。そして、一斉に橙色に染まりつつある大空に向かって飛び立った。(終わり)
少年の頃 平山文人 @fumito_hirayama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます