第2話 廃洋館でのこと
加山稲荷神社の鳥居をくぐると、樫や杉の木が敷道の左右に並び立ち、陽の光が遮られた陰鬱な中を進まねばならない。翔は先を行くクラスメイトの二人の後ろを気の進まない足取りでついてゆく。土曜日の午前中の静かな神社内には、背中の曲がった老婆と数羽の鳩がいるのみだった。 三人は本殿前で立ち尽くしている彼女を横目で見ながら、更にその奥を目指し進む。本殿横に鬱蒼とした竹藪が広がっており、その隙間を縫うように細く蛇行した緩やかな下りになっている土手道があり、翔は露出した石に危うく躓きそうになった。
「大丈夫か、気を付けていこうぜ」
そう言ったのは先頭を行く、背の高い短髪の白井勇一で、空手道場に通っているので、まだ幼いながらも筋肉質な体をしている。
「あと少しで着くぞ。もう見えてきた」
その後を歩いている道重浩太が白い歯を見せて翔に呼びかける。浩太は少年野球チームで捕手をやっているからか、やや太った体躯ではあるが、走るのも案外と早かったりする。
「うん、だいじょうぶ」
と翔は返事をする。瘦せた体の彼は特に習い事などはしておらず、しかし不思議と徒競走はクラスで1,2番を争うほど早く、その事で彼らと意気投合して、仲良くしているのだった。
「着いた……すげえなやっぱり」と勇一が呻いた。
部分部分に木の根が張り出ている歩きにくい土手道を数分進むと、目的地である大きな洋館前に辿り着いた。そこは開けた空き地のようになっていて、周囲は鬱蒼と樹木が囲んでいる。その向こうに目的の建物が妖しく建っていた。外壁には蔦が静脈のようにまとわりつき、見える限りの窓は全て割れていて、近づいていくと、朽ち果てた建物の裏手に細い川が流れているのが木々の隙間から見える。翔の足元の土も少し湿っていた。左手には泥に汚れた白いブランコが淋しく佇んでいて、その周辺に倒れた薄汚れた椅子が2つ寝転がっていた。翔が見上げた空は、見渡す限り不吉な灰色だ。翔は下腹の辺りが縮こまるのを感じた。
「開けてみる」
浩太が玄関の大きな引き扉を両手で思い切りよく引いた。すると、軋む音を立てながらも普通に開いた。三人がこわごわ中を覗き込むと、微かな光に照らされた何かが床を走るのが見えた。館内は全体的に薄暗いが、目視で何があるかは分かる程度である。
「今のなんだよ。ネズミかな」
「俺ネズミなんか見た事ないぜ。噛んだりしてくるのか?」
「ネズミは噛んではこないよ。蛇とかいたら嫌だな」
そう言いながら勇一はポケットから黒い皮手袋を取り出して手にはめる。怪我しないように持ってきたんだ、と得意げである。浩太も右手に軟球を持ち、翔に見せてくる。
「ヤバいのが出たらこいつで退治してやるさぁ」
この不気味な廃屋はこの街に住んでいる者なら誰でも知っていた。明治維新で開国した後、外交官の居住する邸宅として建てられたものだが、場所がやや辺鄙なので戦後は利用されることがなくなり、そのまま放置されているのだった。乾いた黴の匂いが翔の鼻をつく。玄関を入ってすぐの広間に倒れた棚や足の折れたテーブルや大きな時計などが散乱している。誰かが運んだのか、中央に集めてあるそれらの向こう側に、二階に上がる階段が見えるが、その経路の途中に大きな蜘蛛の巣が幾つもある。勇一は足元から棒を一本拾ったが、ヘドロのようなものがへばりついていて思わず声を上げた。
「汚いなぁ……手袋が汚れちゃったよ」
そう言いながら汚い棒を振り回して蜘蛛の住処を容赦なく振り払ったが、その時ヘドロが翔の顔に飛んできた。しかめ面でそれを取る。翔が思っていた以上に中は荒れ果てていて、今すぐにでも帰りたくなった。しかし、ここで一人だけ弱音を吐くことは出来ない。
「なあ、二階に行く前にこっち行ってみない」
浩太の提案で、三人はまずは右手側にある部屋に入ってみる事にする。左手側の部屋の扉は既になく、角度によって陽の光が入らないので中はよく見えない。勇一が蝶番の軋む音に顔をしかめながら、右側の部屋のドアを開けた。室内には中央に傾いた大きめの長方形のテーブルがあり、稲妻のような罅が入っていて凄みを感じさせる。その周囲には、汚れているが、上等なものであったであろう背中部分に皮の張った椅子が四つ並んでいた。無論皮は全て破れ散らかしている。勇一がさらに奥に進むと、そこは台所であった。埃が積もりまくったシンクには数枚の変色した皿があり、確かに誰かがここで生活していた事を想起させた。まだ食卓のある部屋にいた翔は、足元に一体の人形が転がっていることに気づいた。髪の色はブロンドで、西洋人形に見えるが、首が真逆に曲がって、肩も捻じれているので顔は見えない。翔は思わず床に伏せている人形をひっくり返そうとしゃがみこんだ。が、伸ばした手が止まった。見てはならない、と誰かに言われた気がした。思わず立ち上がると、どこかから視線を感じる。すぐ傍に割れて裂けた窓があり、その淵に小さな黒猫がいる。その黄色に燃える瞳が彼に何かを伝える。次の瞬間、黒猫は身を翻し姿を消した。翔は例えようもない恐怖と不快感に全身が震え、全身から汗が吹き出し、何かを叫んでその場から逃げ出した。
深い闇そのものの洋館を飛び出し、更に脇目も振らず走り続けた。後ろから何か声が聞こえ、肩を掴まれたところで走るのを止めた。必死に追いかけてきた勇一と浩太が驚愕の表情で、一体何があった、と聞いてきた。
「あそこにいちゃ駄目だ。無理だ。ごめんだけど帰るよ」
翔はそれだけしか言えなかった。二人は納得がいかないので、しつこく理由を尋ねたが、翔はそれ以上何も言語化出来なかった。仕方なく三人は土手道を歩き神社へ戻り、二人と一人になって別れた。翔は今なお悪寒に震えながら、黒猫の覆いつくしてくるような瞳を思い出しては首を振った。翔は産まれて初めて禁忌を知った。人には、触れてはならないもの、知らないほうがよいものがあることを知った。
翌週になって、小学校の教室で勇一と浩太に会ったが、どちらもよそよそしく、二人だけでなくクラスメイト全員がどこか翔に冷たかった。きっと、例の洋館の肝試しで怖がって逃げた、と噂になったのだろう。仕方ないな、と翔はうつむいて授業を受けていた。彼は気づいていなかった。斜め後ろの席の美久だけは彼を同情と心配の目で見つめていたことを。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます