少年の頃
平山文人
第1話 陽が沈む頃
心地よい秋風が吹いてきて、下校途中の思い思いに歩いている子供たちを優しく撫でる。一匹の赤蜻蛉が、豊かな黒髪に天使の輪の出来ている少年の上を、愉快そうに旋回している。頭上になにかの気配を感じた曽我翔は、あっ、赤トンボだ、と両手を挙げて捕まえようと試みたが、上手くいかない。彼の右手は虚しく空を掴み、左手は電柱の作った影をまとう。そのうち赤蜻蛉を見失った彼は、少し肩からずれた無機質な黒色のランドセルを、軽く飛び上がって背負い直した。翔の歩く歩道沿いの幅の広い四車線の国道は、空が橙に染まりゆく今頃から車の量が増え、砂利を積んだ汚れたトラック、スーパーへ急ぐ軽自動車、家路をひた走る原付スクーターなどがそれぞれの目的のために疾走している。
沈みつつある夕陽に照らされる膨らみあがった積雲の壮観さを時折り見上げながら、翔は帰り道を歩く。国道を逸れ、住宅街へと入る歩道を少し歩いたところにある、やや年季の入った和風の一軒家の前に辿り着くと、翔は門扉の向こうに手を振った。玄関ドアの横にある、塗装が部分部分削げ落ちた犬小屋の前に座っていた柴犬が嬉しそうに一声吠えて、勢いよく尻尾を振って、つながれているリードのぎりぎりまで走ってくる。
「ただいま、カイト!」
ここ田代家の家族には許可を貰っていて、カイトと遊ぶために前庭に入ってもよい事になっていた。翔はこの茶褐色の毛皮を纏った愛らしい犬が大好きで、毎日下校の際には彼とひとしきり遊んでから家に帰るのだった。顎の下を撫でてやると、カイトは気持ちよさそうにしている。その時、玄関の引き戸が音もなく開き、無精髭にジャージ姿でサンダル履きの男性が現れた。
「あ、こんにちは」
と翔が慌てたように挨拶すると、軽く会釈だけ返して猫背の男は横をすり抜けて去ってゆく。健さん、なんだかすごく変わったな……と翔は首を傾げた。以前何度かカイトを散歩させている時に会ったことがあるが、もっと明るくて優しかったのにな。翔がそんな事を回想していると、カイトが体を寝転がせてお腹をさすれ、と息を上げてくる。翔がくすぐるようにお腹を撫でまわすと、満足そうに瞳を閉じた。おそらく田代家からであろう、美味しそうなシチューのような温かい匂いが鼻をつく。もう晩御飯の時間か、と俄然空腹を感じてきた翔は、薄暗くなりつつある辺りを見回し、立ち上がって、気持ちよさそうに目を閉じている柴犬を見下ろして
「それじゃ今日は帰るね。またね」
と声をかけた。するとカイトは瞳を開け、体を起こしてまっすぐに翔を見て不満そうに唸った。その純粋な意志を伝える深く黒い瞳を正視していると、永遠に帰れなくなる気がして、翔は慌てて踵を返し、錆びた音を鳴らす門扉を閉じた。
太陽が地平線の向こうに沈もうとし、翔の小さな体から伸びる影が長く伸びる。右手にある境内の広い神社のほうから聞こえる鴉の鳴き声を背中にし、急ぎ足で家に向かっていると、向こうから二人連れが歩いてくるのが見えた。距離が近くなり、顔がはっきり見える。黒髪をポニーテールに結んでいるのは同じクラスの野沢美久、みくちゃんだ。大きな目が印象的で、肌が白く優しい顔の女の子。なにか声をかけようと思った時、隣にいる人の容姿に気づき、声を出せなくなってしまった。肩までウェーブのかかった茶髪で、化粧は濃く、アイシャドーは紫。女性は翔と目が合っても何の反応も示さなかった。服装は黒を基調としていて、ジャケットの開いた胸元から赤いキャミソールが見えている。美久が翔に軽く頭を下げて、そのまま親子は行ってしまった。残り香の甘さに首を軽く振った後、あれが、みくちゃんのお母さんなのか……と翔は驚いてしまった。おとなしく静かな性格の彼女とはまるで違うんだな、と翔は納得のいかない気持ちで帰り着いたマンションの暗証番号を押した。
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