帝國エレキテル

リウノコ

第1話 配属初日

 軽自動車は山道を登っていて、辻本はその助手席にいた。


 運転手は夏目。辻本が配属された部署の先輩である。


 今日は配属の初日で、支社で顔合わせを済ませたあと、すぐに車に乗って、今に至る。


 夏目は背が高く、短く切られた黒髪が、車の天井に届きそうなほど。180センチはある。そのうえ、筋肉質。学生時代に、アメフトとかやっていそうだと辻本は思う。


「あの、暑くないですか?」


 夏目の太い腕の上に、汗が滲んでいたのが気になって、辻本は言った。

 しかし、反応がない。


「エアコン、強くしましょうよ。先輩、汗すごいですよ?」


 昨日から7月が始まって、まだ梅雨は明けていないが、気温は30度を超えている。それなのに車のエアコンは微風で、しかも28度設定。

 まったく涼しくない。


 こんな微風を浴びるくらいなら、うちわで仰いでいたほうがまだ涼しい。


「いえ、俺は大丈夫ですから」


 丁寧だが、有無を言わさない口調だった。


 辻本は自分の膝を軽く叩く。


「先輩が大丈夫でも、私が大丈夫じゃないんですよ。暑いって言ってるんです――もう」


 少しイラッとしながら手を伸ばし、設定温度を下げようとすると、夏目の腕に遮られる。


「――課長の口癖が『市民の血税』なんです」

「血税ったって、うちは株式会社じゃないですか!」


 行き場をなくした右手を自分の膝の上に叩きつけ、辻本は夏目を睨みつけた。

 それでも、彼は意に介した様子もない。ただ、ちらりと視線をこちらに向けて、


「半分は国が出資してます。俺達も、半分公務員みたいなものですから」


 もちろん辻本さんも、と平坦な口調で付け加えた。


 論理的には正しいのかもしれないが、今はそんな議論をしているんじゃない、と辻本は憤る。

 血税とか、会社の出資比率とか、そんなことはどうでもいい。


「お願いですから」

「駄目です」

「――バレませんよ、ちょっとくらい」

「いいえ、バレます」


 予想に反して夏目が断言したので、辻本は目を丸くした。


「課長は課員のアラを探しています。社有車のガソリン代金も、そこのドライブレコーダーの内容も確認しています」


 彼が指差した先には、確かにドライブレコーダーがついていた。


「エアコンなんかつけようものなら、1時間は説教されます」


 暇かよ、と辻本は言いかけて、慌てて口に手を当てた。

 夏目はその様子を見て、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。


「音声は記録されていませんよ」

「暇かよ! 他にやることないんですか!」

「俺もそう思います」


 辻本の叫びに、夏目が頷いた。


 しかし、車内の暑さはこれっぽっちも変わらない。

 むしろ、大声を出して余計に暑くなった。


「――先輩、よくそんな課長の下で働いていられますね」

「もう慣れましたから」


 それに、と夏目はホルダーに刺さっていたペットボトルの蓋を片手で器用に外して、口をつけた。

 スポーツドリンクの甘い匂いが香る。


「俺の場合、あまり強くは出てこないんです。萎縮せずに、堂々としているせいだと思うんですがね」


 それは、先輩の見た目が怖いからでは? と辻本は思ったが、口には出さなかった。


 ――実際、辻本自身も、夏目に若干の恐怖を感じていた。


 眼光は鋭いし、体はデカいし、歴戦の傭兵です、と紹介されても違和感がない見た目なのだ。

 車に乗り込んだ後もむすっと黙り込んで、ひたすらハンドルを切るばかり。

 この暑さがなければ、話しかけるのを躊躇うほどの『話しかけるなオーラ』が出ていたのだ。


 ――しかし、見た目が怖くて寡黙なだけで、意外と話してくれるらしい。

 辻本は、この大きな先輩に対する認識を改めた。


「辻本さんも、課長には堂々としていた方がいいですよ」

「――わかりました。じゃあ、お言葉に甘えて、堂々と言いますけど」

「いや、俺じゃなくて課長に言ってください」


 辻本は夏目の訂正を無視した。


「もし、私がこの暑さで熱中症になったら、労災ですよね? そうなったら課長も先輩も、労働基準監督署へ報告を上げて、社内で改善措置をとらないといけないはずです。課長に怒られるよりも、もっと面倒なことになると思いませんか?」


 夏目は無言だが、辻本は手応えを感じた。

 さらに畳み掛けるために、自分の額に手を当てる。


「ああ、暑さで少しクラクラしてきました。このままでは、熱中症になってしまうかもしれません」


 ああ暑い、と辻本は手で首筋に風を送ってみせた。


「はああ――わかりましたよ」


 彼はこれみよがしにため息を付いて、大きな左手で、小さな調節ネジを操作して、エアコンの送風を中にした。

 設定温度も25度まで下げてくれた。


 よし、と小さくガッツポーズを作る。


「ありがとうございます! おかげさまで、だいぶ良くなってきました――あ、でもあと30分くらいはそのままじゃないと、また熱中症にかかってしまうかもしれません!」


 辻本が元気よく言うと、呆れたような視線が返ってきた。


「――辻本さん。君は、今日が配属初日だということがわかっているんですか?」

「もちろんわかってますよ! でも、初日だから大人しくしていろ、なんて嫌です。そもそも、私はこんなことをしたくて、入社したわけじゃなかったのに」


 最後は愚痴のようになったが、それは、紛れもなく辻本の本心だった。


「やっぱり、君もですか」


 夏目は視線を前に戻して、肩の力を抜くように息を吐く。


「第四部門へ配属される人は、大抵、君と同じことを言いますね」


 辻本はそれを聞いても、でしょうね、という感想しか出てこなかった。


「先輩もそうじゃないんですか?」

「俺は違いますよ」

「え、そうなんですか? てっきり、社会人スポーツチーム採用枠からの転籍かと思ってました」


 辻本が入社したこの会社――株式会社帝國電力は、アメフトのチームを持っていた。

 53名いた同期の中でも、数人がスポーツ採用だ。てっきり、夏目もその枠で入社して、後から第四部門へ配属されたものとばかり思っていたのだ。


「辻本さん、俺のことを何だと思ってるんですか? スポーツなんてからっきしですよ」


 耳を疑う発言だった。


「高校のときの部活は何を?」

「弓道です」

「弓道はスポーツじゃないんですか?」


 素朴な疑問を無視して、彼は強引に話を戻した。


「――ともかく、俺はこの仕事がしたくて、この会社に入ったんです。辻本さんがどう思っているか知りませんが、仕事は真面目にやってくださいね。――思っていた仕事と違うとしても、君はこの会社を背負って、お給料をもらって仕事をするんです。権利を主張するなら、義務を果たしてからにしてください」


 確かにこの仕事は、辻本が入社時に思い描いていた仕事ではない。不満を持っていることも事実だ。


 しかし彼女は、それを理由に、仕事から逃げるなんてことは考えていなかった。

 そんな無責任な人間に見えているのか――と辻本は少しだけイラッとする。


「もちろん、仕事は一生懸命にやります」


 辻本がツンとした態度で言うと、夏目は片眉をあげた。


「――今日は夕方まで現場の巡回をして、夕方からは新規営業を1件やります」

「わかりました」

「君は初日だから、基本的には俺の後ろで、見てるだけでお願いします」

「え、見てるだけ、ですか?」


 思わず聞き返し、彼の横顔を見る。

 彫りが深く、容姿は整っていたが、三白眼の目は鋭い。


 その目がギロリ、と辻本を見た。


「そうです。まずは現場になれることから始めてください」


 辻本は、肩甲骨を後ろでくっつけるようにして、負けじと胸を張る。


「置物でいたら、先輩の言うところの『義務』が果たせないんですけど?」

「置物でいろ、とは言ってません。が、俺の指示には、絶対に従ってもらいます。君からの提案も、勝手な行動も一切許しません」

「それじゃ、ロボットと同じじゃないですか」

「そんなに怒らないで、落ち着いてください」


 辻本の言葉に怒気を感じた夏目は、なだめるように低い声で言った。

 

「――これは、我が社のルールなんです。男でも女でも、新卒でも中途採用でも関係なく、現場では先輩社員の指示に従うことになっていますし、特に初日は、作業をしないことになっているんです」


 わかるでしょう? と彼は続ける。


「危険がまったくない仕事なんて、この世には存在しません。けど、俺や辻本さんがこれからやろうとしている仕事は、そこらの仕事よりも危ないんです。そのうえ、君はまだ試用期間中です」


 入社から6ヶ月間は試用期間となり、正式な採用はその後になる。

 その間に自分が働く現場を知り、よく考えて、この会社で働くかどうかを決めてほしい、とタバコを咥えた部長に言われたのを、辻本は思い出していた。


「正式に採用もされていない人間が怪我をしたとなったら、それこそ、会社の体制を疑われます。だから、少なくとも今日は見ているだけにしてください」


 いつの間にか、車は山中にある駐車場をゆっくりと進んでいた。


 駐車場は、自動販売機とトイレが併設されている小規模なもので、駐車スペースも10台分くらいしかない。そのうえ、今は平日の昼間。この近くには観光地もないから、車は1台も止まっていなかった。


「守れないなら、この車から出ないでください」


 夏目はそう言い残し、エンジンを切ると車から出ていった。

 エアコンの送風が止まり、申し訳程度に空いた窓の隙間から、熱が侵入してくるのがわかった。


 卑怯だ、と辻本は思う。


 エンジンを止められてしまったら、車の中が灼熱地獄になるのは時間の問題だ。

 そんななかでじっと待っているなんて、それこそ本当に熱中症になる。


 かといって、車から出てしまえば、夏目の指示を了承したことになってしまう。


 負けた気分になりながら、辻本はシートベルトを外して外に出る。

 勢いよくドアを閉めると、夏目がスポーツドリンクを差し出した。


「どうぞ。自販機で買ってきました」

「――ありがとうございます」


 辻本は、水滴がたくさんついたペットボトルを、唇を尖らせて受け取った。

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