第四章 第七話
中学校に入学してからのこの一年間、わたしは、母子登校の空き教室という、隔離された空間で過ごした。一年という時間が、わたしか「普通の子」でいられる最後の可能性を奪い去った。
空き教室で一人、ドリルに向かいながら、わたしは、ふと、そんなことを考えていた。
「もし、友達ができたら、わたしを教室へ連れ出してくれる強制力になるんじゃないか」
わたしが授業に出られないのは、「恐怖」と、「普通ではない自分を見られることへの羞恥心」からだ。しかし、もし、心から信頼できる友達ができて、その子が「一緒に行こうよ」と手を引いてくれたなら、その「友達の期待を裏切りたくない」という思いが、わたしを動かす、唯一の強制力になるかもしれない。それは、母の心配や、先生の指示よりも、ずっと強い力になるはずだ。
そんなことを考えていた、三月の終わり。中学二年生になる直前。
母が、職員室から戻ってきて、わたしに少し興奮した声で告げた。
「亜矢ちゃん、聞いた?新学期から、中学に何人か転校生が来るんだって」
「転校生?」
わたしは、ドリルから顔を上げた。この特例校は、不登校の子を受け入れるための学校だが、その多くは、そのまま中学部へ進学する。年度途中で外部から転入してくる生徒は、珍しいことだった。
「そうなの。普通の学校で、何かの理由で上手くいかなかった子たちが、この学校の環境を求めて転入してくるみたいだよ。亜矢ちゃんのクラスにも、女の子が一人来るってきいた」
母は、まるで「希望の光」を見つけたように、目を輝かせている。母にとって、その転校生は、わたしを空き教室から引き出してくれる「救世主」になるかもしれない、という期待があるのだろう。
しかし、わたしの中に湧き上がったのは、期待よりも、冷めた諦めだった。
「そうなんだ……」
わたしは、すぐにドリルに目を戻し、淡々とした声で答えた。
「でも、あんまり期待できない」
わたしがそう言うと、母は、驚いた顔をした。
「どうして?新しいお友達よ?その子と、仲良くなれるかもしれないじゃない」
わたしは、母の顔を見ることなく、ポケットの中のキーホルダーを握りしめた。
「だって、この学校に来る人は、みんな、普通と違うんだもん」
わたしがそう言うと、母は言葉に詰まった。
この特例校の生徒たちは、わたしと同じように、かつて「普通」の世界で傷つき、弾き出された子たちだ。
わたしは、この一年間、時折、廊下ですれ違う生徒たちを見てきた。彼らは、見た目は普通の中学生だ。中には、わたしと同じように無理に明るく振る舞い、冗談を言い合っている子もいる。
だが、わたしにはわかる。わたしが、無理に明るく振る舞って、心の中で絶望しているのと同じように、彼らもまた、その「明るさ」の仮面の下で、深い「暗さ」を抱えているのだ。
この学校の生徒たちは、みんな、「一度、壊れた子たち」なのだ。
わたしは、四年の時、かつて「明るい振りをしているが暗い」沙織と友達になった結果、裏切られた。「お金持ちで浮いている」莉子には、拒絶された。わたしと同じように傷を負った子たちとの関係は、脆く、そして、お互いの「異質さ」を突きつけ合うだけだった。
新しい転校生が、どんな子であっても、この特例校を選んで来たということは、彼女もまた、「普通」のレールから外れた子だということだ。
わたしは、自分の心を深く覆っている闇と、その子の持っているであろう闇とが、再び衝突し、お互いの傷をえぐり合うのが怖かった。
「この学校の人はみんな、明るい振りをしていても暗い。そして、わたしも同じだ」
わたしは、その事実を、最も重い現実として受け止めていた。わたしは、「普通」に戻ろうと足掻いた結果、「普通の子」ではなく、「壊れた子」が集まる場所に来てしまった。
その「壊れた子たち」の中で、わたしだけが「普通」になりたいと願っている。この矛盾した状況が、わたしを何よりも苦しめた。
わたしは、母に背を向けたまま、静かに言った。
「ママ、わたしは、ここにいるのが辛いよ。みんな、わたしを『普通』にはしてくれない」
母は、わたしを抱きしめた。
「亜矢ちゃん……」
母の温もりは、安心を与えてくれるけれど、その温もりは、わたしを「普通ではない、母に依存する子」という、現実から引き離すことはできない。
四月から、転校生が来ようと来まいと、わたしは、この「壊れた子たちの避難所」で、「普通」への叶わない願いを抱き続けたまま、孤独な中学二年生を始めるのだ。
希望はシャボン玉のように脆くて、綺麗で掴もうとすると自分で壊してしまうものだ。それなのに掴んで、壊して、壊して、わたしは傷つく。
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