第四章 第五話
五月、わたしは特例校の小学部へ転校した。わたしにとって、小学生の間で二回目の転校だった。
特例校の校舎は、通常の学校よりも小さく、色遣いが明るく、どこかアトリエのような雰囲気だ。教室は、少人数の生徒たちが、それぞれ自由に好きなことをしている。先生たちは、みんな穏やかで、生徒一人ひとりに、とても優しく接してくれた。
わたしは、ここで六年生の残り、九ヶ月間を過ごすことになった。
最初の数日、わたしは、その「緩やかな雰囲気」に、大きな違和感を覚えた。
校則は、実質的に一個も存在しない。制服はなくて服装は自由、持ち物も自由、登校時間も自由。授業中も、疲れたら横になる生徒がいれば、一人で絵を描いている生徒もいる。誰も、誰かを責めたり、監視したりしない。
それは、わたしが前の学校で経験した、高圧的な権力や、厳しい規則とは、真逆の世界だった。
しかし、わたしは、このぬるい雰囲気が、嫌で仕方がなかった。
わたしが求めていたのは、「普通」の学校だ。整然とした制服とか、明確な規則や、みんなが同じ時間割で動く、「普通」の空間。わたしは、そこで「普通の子」として紛れ込みたかったのだ。
この特例校には、「普通」の要素が、一個も見つけられない。
先生たちは、心から優しい。それはわかる。けれど、この「何でも許される」という空気が、わたしには、「不登校児のための避難所」という、わたしが最も認めたくない事実を、突きつけてくる。
「ここは、わたしが『普通』から脱落した場所だ」
そう思うと、どんなに先生が優しくても、この環境が辛くて仕方がなかった。
毎日、家に帰ると、母がわたしの様子を尋ねる。
「亜矢ちゃん。新しい学校、どう?先生、優しいでしょう?」
母は、わたしが新しい学校で再び傷つくことを、心底恐れている。わたしは、母の顔を見て、また嘘をついた。
「うん。楽しいよ。みんな、優しいし、先生も、すごくいい人だよ」
そう言わなければ、母はまた、わたしのために新たな「逃げ場」を探し始め、わたしが「普通」からさらに遠ざかることになる。母に心配をかけたくない。それは、わたしの最後の「体裁」だった。
わたしは、九ヶ月間、その「楽しい」という嘘と、「普通じゃない場所」にいる辛さに耐えながら、特例校の小学部を卒業した。
四月。わたしは、そのまま特例校の系列中学校に進学した。
ここでの生活は、小学部の「緩さ」を、そのまま受け継いでいた。自由な雰囲気、優しい先生たち。すべてが、不登校の子たちが、無理なく社会に慣れるための環境だった。
けれど、中学校の校舎に足を踏み入れた瞬間、わたしは、小学部の頃とは違う、新たな「嫌な感覚」を覚えた。
中学部の雰囲気は、小学部よりも少し「ぬるい」だけではなかった。どこか、生徒たちの中に、諦めのようなものが漂っている気がした。学校全体が、「どうせ、わたしたちは、普通の子とは違う」という、暗黙の了解を共有しているように感じられるのだ。
そして、わたしは、もう、「辛いのに楽しいフリ」を続けることができなくなっていた。
小学部での九ヶ月間、無理に笑顔を貼り付け続けたことで、わたしの心は、限界を超えて疲弊している。
「ママ……」
中学に進学して、数週間が経った頃。わたしは、朝、外用の服に着替えることができなくなった。
「行きたくない。もう、無理」
わたしは、再び、登校拒否をした。
母は、一瞬、絶望した顔をしたけれと、すぐに我に返った。わたしが、これ以上、自分を偽って無理をすることを、恐れたのだろう。
そして、わたしは、特例校の中学部に入学したにもかかわらず、再び、母子登校に逆戻りした。
わたしは、母と一緒に、中学部の空き教室で、教材を広げる。
「先生たち、みんなあなたのことを理解してくれているからね。ここなら、大丈夫だよ」
母は、そう言ってくれたけれど、わたしはもう、辛くて仕方がなかった。
なぜ、わたしは、どこへ行っても、「一人で教室にいられない子」という特別扱いを受けなければならないのだろう。わたしは、ここで「普通」に戻れると信じて、前の小学校から「不登校児の烙印」を押される道を選んだのに。
そして、わたしは、ここの先生たちを信用できなかった。
前の学校の担任、教頭先生、そして適応指導教室の先生たち。わたしを助けてくれるはずの「大人」は、最後はみんな、わたしを高圧的に責めたり、理不尽な条件を突きつけたりする。
わたしは、特例校の先生たちが、どんなに優しく話しかけてきても、その優しさの裏に、いつか裏切りや、理不尽な怒りが潜んでいるのではないかと、疑わずにはいられなかった。
「先生たちなんて、すきになれない」
わたしは、心を固く閉ざしたまま、開くことが出来なくなっている。母の隣にいるという、物理的な安全はあったけれど、わたしの心は、家族以外は誰も信用できないという、深い孤立の中にいた。
家族には、何をされても、信じないことが出来ない。それが、余計に辛くなることだと知っていても。特例校という、最後の避難場所でさえ、わたしは「普通」を見失い、「安全」を信じることができなくなっていた。
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