九九パーセントの痛み

如月幽吏

プロローグ

プロローグ 第一話

わたしの世界は、いつもガラスの破片が散らばっているようだ。

そのガラスは、鋭くて、どこに触れても指先を切ってしまいそうなのに、なぜかとても綺麗に見えて、拾い集めずにはいられない。



母は、とても自己中心的だ。

そんな母が、わたしの世界では唯一で、絶対的な支配者なのだ。母の機嫌は、天気予報よりも当てにならない。晴天だと思ったら、一瞬で雷雨になる。その雷は、いつもわたし目掛けて落ちてくる。

朝、目が覚めると、まず最初に考えるのは、自分の朝食でも、学校の宿題でもない。

母の起きる時間と、床に落ちているゴミのことだ。わたしは、ゴミにも満たない価値のない人間なのかもしれない。

「ねえ、亜矢ちゃん。これ、何?」

母の声は、たったそれだけの言葉でも、わたしには手錠をかけられたようにずしりと重く響く。母の言う「これ」は、たいていホコリの塊か、髪の毛、あるいはわたしがうっかり落とした消しゴムのカスだ。一個でも、たった一欠片でも、床にその証拠が残っていれば、それは必ずわたしのせいになる。


言われた訳ではない。

一度も「起きる前に掃除しろ」なんて、母の口から直接聞いたことはない。

けれど、わたしは知っている。母が起きる前に、部屋の隅々まで確認することが、わたしにとって唯一で、最低限の義務なのだ。


見えない責務に追われながら、わたしは毎朝、這うようにしてリビングや廊下をチェックする。床に顔を近づけ、目を凝らす。秘密警察のようなのに、それより過酷で、そんなに格好良くなくて、わたしにはそれも上手くできない。

もし、母が見つける前にわたしが見つけて、処分できれば、その日の平穏は保証される。そう信じて、わたしは神経をすり減らしている。

けれど、わたしは不器用なのだ。

この不器用さが、わたしの人生をどれほど難しくしているだろう。頭ではわかっている。床に物を置かない。使ったものはすぐ片付ける。完璧に。完璧に、完璧に。

それなのに、気づくと、鉛筆が転がっている。教科書が開きっぱなしになっている。脱いだ靴下が、まるで小さな反逆者のように、ベッドの横に丸まっている。

「亜矢ちゃん!これ、どういうこと?ねえ、どうして亜矢ちゃんはいつもそうなの?」


罵声が飛ぶ。それは、ただの言葉ではない。わたしの胸を突き刺す、鋭利な刃物だ。

怒られる。傷つけられる。わかっている。予感している。それでも散らかしてしまうわたし。まるで、わざと母の怒りを引き出したいと願っている、もうひとりの意地悪なわたしが、体の中に潜んでいるようだ。


わたしは、そんなわたしが、きらいだ。


完璧にできないわたし。母の理想に応えられないわたし。毎朝、震える手でゴミを探し、それでも見落として責められるわたし。そして、散らかすことで自分自身を罰しているようなわたし。

わたしは、何か特別に悪いことをした訳ではない。ただ、部屋を片付けられない、普通の子供なだけかもしれない。なのに、どうしてこんなにも自分を嫌い、自己嫌悪に囚われてしまうのだろう。

それは、母が、わたしの全てだからだ。

母に傷つけられている。怒鳴られ、責められ、価値のない人間だと思わされている。そんなことは、わかっている。頭では理解している。

けれど、それでも、わたしは母が好きで、愛してしまう。

母が少しでも優しくしてくれると、昨日の罵声なんて綺麗さっぱり忘れてしまう。たまに見せる笑顔。たまにしてくれる抱擁。その一瞬の温もりが、わたしの心を満たし、生きてゆくための全てのエネルギーになる。砂漠の中で、一滴の水を求める旅人のように、わたしは母の愛情を渇望している。

わたしを傷つける母を、わたしは愛さずにはいられない。この矛盾が、わたしの心を永遠に引き裂く。痛い。とても痛い。まるで、心臓が二つに割れて、それぞれが逆方向に引っ張り合いをしているようにどちらもわたしを誘惑するのに結局どちらにも行けない。


母は、わたしによく、父の文句を言う。

「パパはね、本当にだらしがないのよ」

「給料が安いくせに、偉そうにふんぞり反って」

「あの人さえいなければ、わたしはもっと幸せだった」

母の口調は冷たく、蔑むような響きを帯びている。

それでもわたしは父も好きなのだ。

父は、怒鳴らない。いつも優しく、わたしの不器用さを笑いに変えてくれる人だ。夜、遅く帰ってきて、こっそりお菓子を買ってきてくれる。わたしの味方でいてくれる唯一の人。

その父を、母が罵るのを聞くのが、つらい。

わたしの中で、愛している二人の人間が、永遠に敵対している。母に同調すれば、優しい父を裏切ることになる。父の味方をすれば、母の怒りがわたしに向かってくる。

だから、わたしはいつも、黙っていることしかできない。

沈黙。それが、わたしの唯一の防衛手段であり、同時に、最悪の逃避だ。

わたしは母の愚痴を聞きながら、心の奥で父に謝っている。

「許してパパ。わたしには、何も言えないよ」

そう思うのに、どうしても行動にできない私は本当に最低なのだろうか。

自己嫌悪と矛盾した愛と、板挟みの苦しみ。これが、亜矢──わたしの、毎日の生活だ。ガラスの破片の上を、裸足で歩き続けるような、痛いけれど止められない、わたしの人生だ。

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