第47話 短編エピソード④ 赤荻さん編

第47話 短編エピソード④ 赤荻さん編


『赤荻さん、カッピーに“なで方”を教わる』


 夕方。

 ドアが開く音に、信吾は顔を上げた。

 赤荻さんが立っていた。手に小さな袋——表向きの理由は「工具を貸しに来た」だが、その仕草はどこかぎこちなく、落ち着きのない視線が部屋の奥をちらちらとうかがっている。


 信吾は悟っていた。

 (本当の用件はそっちじゃないよな。でも、まぁいいか)


「……あー、その。ついでにカッピーに会っていくか」

 普段なら素っ気ない声なのに、語尾が妙に丸い。

 その微妙な柔らかさが、逆に分かりやすかった。


 部屋の奥では、カッピーがいつもの桶では無く、ぬるま湯を張ったタライに身を沈めていた。

 寝そべるように腹を下にし、皿だけが沈まないよう、上手くバランスを取っている。

 小さな波が皿の周りでゆらりと揺れ、カッピーがリラックスしていたのが分かった。


「クゥッ!」


 赤荻さんを見つけた途端、カッピーの体が跳ねた。

 タライの水面がぱしゃりと揺れ、カッピーは縁につかまりながら、ずりずりと身を乗り出して近づいてくる。


「お、おいおい、そんなに動くと皿の水こぼれるだろ……」


 赤荻さんは慌ててしゃがみ込む。

 その手元を、カッピーが雑に“ぐいっ”と引いた。

 指でなく手首くらいをつかみ、雑な加減で背中のあたりへ押しやる。


 背中の甲羅を撫でてほしい——それがカッピーの精いっぱいのアピールらしかった。


「……ここを撫でろってか?」


 赤荻さんの指が、遠慮がちに背中の甲羅へ触れた。

 かたく緊張しているのが分かるぎこちない動き。

 だがカッピーは満足しなかったのか、しょんぼりと肩を落とし、「クゥ……」と小さくしぼんだ声を出した。


「な、なんだよ。違うのか?」

 困惑する赤荻さん。

 するとカッピーは、両手で赤荻さんの指を“わしっ”とつかみ、背中の端のあたりを雑に押しつけた。

 精緻に教えるなど無理で、大雑把に「このへん、このくらい」と示すだけ。


 それでも必死に伝えようとしているのが、仕草から分かる。


「お、おう……こうか?」

 赤荻さんがその動きを真似ると——

 カッピーの目がふっと細まり、背中がゆるりと伸びた。

 水に揺られながら、全身がほっと溶けるように緩んでいく。

 そこに誇張はなく、ただ「気持ちいい」という素直な反応がにじんでいた。


「……そんなに違うのか……」

 赤荻さんは照れくさそうに、こめかみをかいた。


 その様子を近くで見ていた信吾と美沙は、顔を寄せてひそひそと話す。


「今日の赤荻さん……何かめっちゃおじいちゃんじゃない?」

信吾が言う。

 目の前の光景がどう見ても“孫に甘い祖父”にしか見えない。


「うん……孫の“好きな撫で方”を一生懸命覚えようとしてるおじいちゃんって感じ……」

美沙も苦笑する。


 赤荻さんは二人の声に気づかない。

眉間に少ししわを寄せ、真剣な目つきでカッピーの反応を確認しながら、何度も撫でる角度を調整している。

 カッピーは身をゆだね、皿の水をこぼさないよう細かく体勢を変えつつ、うっとりと目を細めた。


 やがて帰り際——

 赤荻さんは信吾の肩をぽんと叩き、小声で言った。


「……今日のこと、女房には言うなよ」


「いや、別に言いませんって」

 信吾が苦笑して言った。


 赤荻さんがタライから離れようとすると、カッピーが「クゥ♪」と満足げに鳴いた。

 その声はまるで「また来てね」と言っているようだった。


──こうして赤荻さんの“カッピー撫でスキル”は、ひっそりと一段階レベルアップしたのだった。



―――――――――――――――――――


短編エピソード


『屋上プールと赤荻さんの小さな改造』


 休日の昼下がり。

 屋上では、赤荻さんが工具箱を広げてちょこんとしゃがみ、カッピー専用プールの横で作業していた。


「……よし、あとは試運転だけだな」


 カッピーが近づくと、赤荻さんは振り向いて言った。

「今日はな……ちょっと改造したんだ」


「クゥ?」

 首をかしげるカッピー。

 赤荻さんはプール脇に取り付けた小さな銀色のハンドルをくるりと回した。


 水面がゆるく揺れ、弱い水流がプールの中に生まれる。


「“軽い水流”だ。寒い日は水が止まってると体が冷えやすいからな。

 少し動いてたほうが、水温が均一になる」


 カッピーは手を入れて「クゥッ!?」と驚いたあと、ぱぁっと表情が明るくなり、チャプチャプと手足をバタつかせて泳ぎだした。

 水流に合わせてくるんと回ったり、小さく潜ったりと、とにかく楽しそうだ。


「……お、楽しそうだな」

 赤荻さんは鼻の下をかきながら、照れたように笑う。


 そこへ信吾が屋上へ上がってきた。

「うわ、また改造してる……! これ、いくらかかったんです?」

信吾は眉を上げ、半ば呆れたように笑いながら問いかけた。


「聞くな。趣味だ」

 胸を張る赤荻さんに、信吾はため息まじりの苦笑を返す。


「いや、また翡翠さんに怒られますよ?」

 信吾は肩をすくめ、もはや止められないと分かっている者の顔でつぶやく。


「……黙っとけ」

 赤荻さんは工具を持つ手を止め、ちらりと鋭い目を向けて釘を刺した。


 それでもカッピーは「クゥッ!」と水面から手を振るように鳴いた。


「気に入ったみたいですね」

  信吾は水面ではしゃぐカッピーを見ながら、思わず笑みをこぼした。


「おう。……またなんか作ってやらんとな。次は……水の上に“休憩スペース”でも作るか」

  赤荻さんは腕を組み、すでに頭の中で設計図を描き始めている職人の顔をした。


「クゥ!!」

 冬空に響くカッピーの嬉しそうな声。

 赤荻さんの目尻が、また自然と下がった。



―――――――――――――――――――


短編エピソード


『赤荻さんとカッピー、ひなたぼっこの午後』


 冬の晴れ間。冷たい風が吹いているのに、太陽はぽかぽかと暖かかった。


 赤荻さんは折りたたみ椅子を広げ、隣にはカッピー専用プール。

 今日は何も作らない。ただの休憩。


「……よし。今日は何もしねぇ。休む日だ」

  赤荻さんは椅子に深く腰を下ろし、肩の力を抜いて宣言した。


 コーヒーをすすって空を見上げる。

 プールではカッピーが陽を浴びて、気持ちよさそうにぷかぷか漂っていた。


「……昔なぁ。かなえが小さかった頃、よくこうして昼寝したんだ」

  赤荻さんは遠くを見るような目で、思い出をたぐるように静かに話し始めた。


 いつもより柔らかい声。

 その声に反応して、カッピーが水面から顔を上げ、赤荻さんへ寄ってくる。


「クゥ?」

 まるで「どうかしたの?」と尋ねるような、あたたかい目。


「聞いてくれるのか……お前は優しいな」

 赤荻さんはほんのり笑い、カッピーがふちに置いた手がそっと彼の足に触れる。

 慰めるような、小さな動き。


 赤荻さんは皿を避け、優しく背中の甲羅を撫でた。

 カッピーは安心したように目を細める。


 しばらくして、信吾が屋上の扉をそっと開けた。


「うわ……二人とも寝てる……」

 屋上に出てきた信吾は、ほほえましい光景に思わず小声でつぶやいた。


 折りたたみ椅子にもたれ、静かに眠る赤荻さん。

 足元のプールでは、カッピーが丸くなって小さく揺れている。


 信吾はそっと毛布を赤荻さんの肩にかけた。

 赤荻さんは薄く目を開け、ぼそっと言う。

「……ああ、悪いな」


「相変わらず仲良しですね」

 信吾は毛布を整えながら、あきれ半分・微笑ましさ半分の声で言った。


「……まぁ、孫みたいなもんだ」

 赤荻さんは眠気の残る声でつぶやき、目尻をやわらかく下げた。


 そのとき、カッピーが「クゥ……」と小さな寝言を漏らした。

 赤荻さんは優しく目を細め、ひとつ息をついた。


――真竜を見守る守護者であっても、

 このひなたぼっこの午後だけは、ただの“優しいおじいちゃん”だった。

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