第7話 『友達は突然に』

第7話 『友達は突然に』


 信吾と美沙は、マンションの上階へと引っ越してきた。もともと下の階に住んでいたこともあり、顔なじみの住人も多い。だが、改めてしっかり挨拶をするのが礼儀だ。荷物の片付けが一段落した翌日の午後、二人は菓子折りを手に隣室のインターホンを押した。


 すぐに扉が開き、朗らかな笑顔の女性が姿を現した。


「こんにちは。下の階からお隣に引っ越してきました、山之内です。改めて、これからよろしくお願いします」


 信吾は軽く頭を下げ、美沙もにこやかに会釈する。


「まぁ、ご丁寧にありがとうございます。高橋です。こちらこそ、よろしくお願いしますね。ゴミ捨て場とかで何回かお会いしたことありますよね」


 そう言って笑った彼女は、高橋雅。落ち着いた雰囲気の中に親しみやすさを持ち合わせ、やわらかな声が印象的だった。


「そうですね。あの時、一緒にいたのが正人くんですよね。今後もよろしくお願いします」


 信吾がそう言うと、雅は「ありがとうございます」と頷き、目尻を下げた。その眼差しは子を想う母の温かさに満ちていた。


 美沙が差し出した菓子折りを雅は両手で受け取り、深々と頭を下げた。


「ありがとうございます。引っ越しでお忙しいでしょうに、気を使わせちゃって」


 信吾は「いえ、こちらこそ」と答え、しばし和やかな空気が流れた。



---


 ――だが、挨拶を済ませて部屋に戻ってしばらくすると、玄関のインターフォンが鳴った。モニターを見ると、幼い声が弾むように響いた。


「こんにちわ、お隣に引っ越してきたお兄さん?」


 慌ててドアを開けると、息を弾ませた正人が立っていた。小さな手には金属の鍵が握られている。


「これ……お兄さんの落とし物だよね、エレベーターのところにあった。届けに来たんだ」


 差し出されたのは、信吾が昼間ポケットから落としたらしい鍵だった。


「あっ、ありがとう、正人くん。助かるよ。あと、この階に引っ越してきたからよろしくね」


 信吾は鍵を受け取り、言った。

 だがその瞬間、リビングから小さな音が響き、正人の視線が自然とそちらへと向いた。


 ふと見えたのは、緑色の小さな影。カッピーが、丸い頭をのぞかせてしまったのだ。


「……えっ?」


 正人の目がまん丸になった。信吾と美沙は一瞬にして青ざめ、必死に言い訳を探す。


「今のって何……?」


 小さなつぶやきに、カッピーは隠れることもせず、ただキョトンとした顔で正人を見つめ返した。


「えっと、これは――」と信吾が言いかけたが、その言葉より早く、正人は玄関へ近づいてきたカッピーに引き寄せられるように歩み寄った。


「カ、カッパ?……すごい……本当にカッパだ! かわいい!」


 カッピーはちょこちょこと足を動かし、玄関先まで出てきた。まだ少し緊張している様子で首をすくめていたが、正人の顔を見てすぐに安心したように目を細めた。


 焦る信吾と美沙は止める間もなく、正人はしゃがみ込んでカッピーに手を伸ばした。


 カッピーは小さな首をかしげ、やがて正人の手に自分の手を重ねた。すると正人は嬉しそうに声を上げ、カッピーもくすぐったそうに喉を鳴らした。


 まずいとは思いつつも、こんなにもすぐに打ち解ける二人の姿に、信吾と美沙は妙に安心してしまった。

 信吾は小声で「どうする……」と美沙に耳打ちした。


「いいんじゃない。もう部屋に上げちゃえば。この状況で追い返しても逆に騒ぎになるんじゃないの」

 美沙はあっけらかんと言った。


「うーん……またそんな楽観的な。でも、この状況なら仕方ないか」と、信吾は半分諦めるように肩を落とした。


「正人くん。部屋、来る?」と信吾が声をかけると、正人は「いいの?」と楽しそうに目を輝かせた。



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 それから正人はまるで友達に再会したかのように自然に接し、カッピーの甲羅をそっとなでたり、水差しの中の水を一緒に飲ませてやったりした。カッピーはちょろちょろと水をすする音を立て、満足そうに目を細めた。


 やがて信吾は、タイミングを見計らって口を開いた。


「正人くん、このカッパと友達になってくれてありがとう。……でもひとつだけお願いがあるんだ。このことは、他の人には言わないでくれるかな?」


 正人は少し考え込んだ。


「どうして? こんなにかわいいのに」


「カッパのことを知ったら、驚いたり怖がったりする人もいるんだ。だから、ここだけの秘密にしてほしい。正人くんが守ってくれたら、カッパも安心してここにいられるからさ」


 正人はしばし黙り、それから胸を張って頷いた。


「うん、わかった。僕、絶対に言わない」


 その言葉に信吾は安堵し、美沙も優しく笑った。カッピーはまるで理解したかのように、正人の腕にちょこんと触れ、嬉しそうに声を上げた。



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 ――その時だった。再びインターフォンが鳴る。


「すみません、こちらに正人来てませんか? 急に居なくなっちゃって……」


 慌てた声がモニター越しに響く。雅だった。


 信吾と美沙は顔を見合わせ、内心で焦る。答え方によってはいろいろと問題になる可能性がある。


 数秒の沈黙ののち、正人が自ら玄関に走り、ドアを開けた。


「お母さん! ここにいたよ」


 その後ろから、カッピーがひょっこり顔を出す。雅の視線が釘付けになった。


「……えっ? カッパ……?」


 雅は声を裏返し、思わず数歩後ずさった。目の前の光景を信じられず、息をのむように口元を押さえた。


 信吾と美沙は顔を見合わせ、観念したように深く息を吐いた。


「すいません、驚かせて。少しいいですか?」


 信吾達は雅をリビングへと案内した。



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 雅はふらりと足を踏み入れ、信吾と美沙はこれまでのカッピーとの経緯を全て話した。雅は何度も目を瞬かせ、ただ呆然と耳を傾けた。


「今聞いた話だけでは私の頭の中で整理がつきませんが……分かりました。誰にも言いません。」


 雅の言葉に、信吾と美沙はほっと胸をなで下ろす。


「でも、正人が楽しそうにしているのを見て、少し安心しました」


「安心?」信吾が聞き返すと、雅は小さく笑みを浮かべて頷いた。


「はい、正人はちょっと人見知りで、あまり友達が多い方じゃないんです。でも……あんなに楽しそうにしている姿を久しぶりに見て、私も嬉しくなりました」


 その言葉に信吾と美沙はしみじみと頷き、雅はカッピーを撫でる正人を見やった。


 笑顔の中に、秘密を共有する不思議な絆が生まれていた。



---


 こうして、信吾たちの新しい暮らしに、またひとつ大切な秘密が加わった。


 ──出会いは突然に訪れる。そこに驚きや不安があっても、笑顔や信頼があれば乗り越えられる。けして小さくない秘密とともに育まれる非日常は、確かに新しい風景の形を描き出していく。


 夜風が静かに窓を揺らした。その音は、未来への合図のように優しく響いていた。


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