花医師と王の庭 ― 癒やしの手に棘がある ―

桃神かぐら

第1話 王の庭に呼ばれた花医師 ― 花の香と呪いの夢

 王都リュシエールの朝は、花の香りで始まる。

 温室の天窓がひとつずつ開き、露を帯びた空気が石畳の路地へ流れ出す。花商たちは夜のうちに束ねた花を台車に積み、屋台に飾る。香りは層をなして重なり、甘さの下にほろ苦さ、さらに奥に湿った土の匂いが沈んでいる。花でできた薄い毛布が町全体を覆っている、――そんな錯覚を覚えるほどだった。


 リリア・アストレアは、その毛布の端を指でつまむみたいに、胸元の白百合のブローチをそっと撫でた。師であり母代わりだった人物の形見。花医師にとっては誓いでもある。毒と薬は同じ根を持つ――間違えば命を奪い、正しければ命を救う。彼女はその両方を引き受けるという意味で、朝ごとにこの白百合に触れるのだった。


 今日は呼ばれている。王宮へ。王の病を診よ、と。


 王城へ続く大路は、早朝にもかかわらず騒然としていた。王立近衛の馬蹄音、官吏の短い指示、役夫が樽を担いで走り、祈祷僧が香炉を掲げて通る。王が三か月も床に伏している――その噂はとうに王都中に広がっていて、露台の陰で人々が小声で囁いた。「若い王は呪われたのだ」「恋の病だ」「いや、魔導院の失策だ」


 門前で身分証を見せると、衛兵の目が一瞬だけ細くなった。「花医師?」という視線。リリアは頷いて通った。王の病に“花”を呼ぶ――それ自体が異例であることは承知している。王宮の医療は魔導医療と外科術が主で、植物医療は補助の位置づけに過ぎない。だが、心に絡みつく類の症状は、香りと夢に痕跡を残す。花の領分だ。


 王宮医務局の広間は、冷たい光で満ちていた。大理石の床に朝の光が薄く反射する。白衣の医師たちが円卓を囲み、その中心に王立医務局長ハルト・エルバルドが立っている。銀髪、鋭い鼻梁、金糸の刺繍。視線だけでひとを測る男。


「リリア・アストレア殿。王の症状は報せの通りだ」

「肉体には異常が見られず、眠りは深く、時折うめき、目覚めても数息で沈む」

「付け加えるなら――陛下は“毎夜同じ花を見る”と仰せだ。棘のある黒い花を」


 ハルトはそこで言葉を区切り、円卓の空気にわずかな裂け目を作った。誰かが小さく笑ったのが、裂け目から覗いた。


「心の病なら魔導院の範疇だ。植物医療とは、芳香で気休めを与える程度の……」


 最後まで言わせる必要はない。リリアは頭を垂れ、静かに言った。


「花は気休めではありません。記憶は匂いに縫われます。香りは心の針です」


 言った瞬間、彼女は自身の声の温度が一度だけ上がったのを感じた。挑発するつもりはない。だが、花を嘲る言葉には反射的に身構えてしまう。師の背を思い出す。温室の奥で、白い息を吐きながら彼女に教えた日々。「香りは目に見えない糸、結ぶことも斬ることもできる」。


「……陛下がお呼びだ」


 扉が開き、伝令の澄んだ声が広間の高い天井に響いた。わずかなざわめきが生まれ、すぐ消えた。リリアは一礼して、付き従う女官とともに廊下へ出る。


 王の寝所までは、いくつもの門と儀礼を通る必要があった。金の槍を持つ近衛が二列に並び、刀身に映る自分の顔がわずかに揺れる。王家の紋章が彫られた扉をくぐるたび、香りが変わっていく。最初の廊下は沈香、次は乾いたセージ、さらに奥は水滴を含む白檀――王が眠る部屋に近づくほど、香りは静かに、深く、内に潜っていく。


 寝所は昼なお薄暗かった。重いカーテンが光を濾し、織物の海に微かな波の影を作る。寝台に横たわる青年――王レオン・ヴァルセリウス。長い睫毛、白磁のような肌、体温の低さを隠しきれない唇の色。胸の上に、黒い花弁が一枚。


「……黒薔薇(ノクス・ロサ)」


 思わず名前が漏れた。女官の肩がびくりと跳ねる。ハルトの視線がすべり、彼は言う。


「見えるのか。私には見えん。花など、どこにも」


「香りが示しています。これは夢の縁に咲く花。心が何かを守るために生やす棘の象徴」


 リリアは肩から下げた革の箱を机に置き、留め金を外した。中身は瓶と小さな乳鉢、銀の匙、薄い羊皮紙に貼られた押し花、乾いた根を編んだ短い束――花の道具たち。彼女は淡い青の花弁を数枚取り出し、小盃の水に浮かべ、指先でそっと崩す。溶けた色はすぐに透明へ戻り、代わりに微細な光粒が生まれた。


「《夢露診》。患者の無意識に触れ、花の結び目を探ります」


「危険は?」ハルトが問う。


「あります。互いの心が強く結び合うと、痛みの共有が始まる。ですが――」


 そこまで言って、リリアは王の横顔を見た。夢の底から遠い波が返すように、微かな苦悶が瞼の端に走る。若い。そして、ひどく疲れている。


「必要な危険です」


 青い花液を王の額にひと滴垂らす。リリアは目を閉じ、指でその滴を円に広げた。香りが広がる。白い光の薄膜が部屋を覆い、誰かが短く息を飲む気配。リリアの意識はそっと沈む。糸を手繰って、最初の結び目へ。


◇ ◇ ◇


 ――夜の庭園。


 目を開けると、そこにあった。黒い。けれど黒の中に青、紫、澄んだ銀が混ざっていて、星を細かく砕いた粉が風に舞っているみたいだった。薔薇の花畑。棘のひとつひとつが細い音を立て、触れもしないのに皮膚の表面がひやりとする。


 リリアは慎重に進む。花を踏まないように、棘の陰影を読みながら。足の下で石が鳴る。花畑の真ん中に小径が一本通っており、その先に人の影が膝を抱えて座っていた。


 王。夢の中のレオン・ヴァルセリウス。現実よりも少し背が高く見え、色が濃い。瞳は金で、月を含むと琥珀に傾く。彼はリリアを見上げた。驚き、安堵、そして――警戒。夢の住人は、来訪者をすぐに愛したりはしない。


「君はだれだ」


「花医師、リリア・アストレア。あなたの心の庭を診に来ました」


 王は低く笑った。「心の……庭」


「庭は手入れを怠れば荒れます。必要な枝を残し、過去の枝を剪定し、枯れた根を抜く。花は残酷に見えて、実は秩序を好むのです」


「秩序……。ここに秩序はない。見ての通り、棘が増え続けている。毎夜ここで、私は誰かの名を置いて来る。朝、目覚めると、その人の顔が思い出せない。愛していたはずなのに、名だけが抜け落ちる。名を呼べない愛は、影だ」


 胸が痛む。心は時に、自分を守るために記憶を手放す。強すぎる悲しみ、耐えられない喪失、言葉にできない罪――それらは香りの層に潜り、別の香りで封じられる。黒薔薇は、その封印の形だ。


「誰を――置いて来たのですか」


 王は答えない。代わりに、棘の間から一つの小さな物を拾い上げ、リリアの掌に置いた。細い指輪。古い金属。内側にわずかに刻印。「×××××」――読み取れない。花の香りに削られている。


「ここでは、名前が剥がれる」


「……痛みは?」


「痛みは残る。不思議なことに。形は消えるのに、重さだけが残る。胸の奥がいつも、すこし痛い」


 リリアは王の手を取った。棘が衣の袖を裂き、彼の肌に薄い線を引いた。血の珠が上がる。彼は驚き、すぐに手を引こうとしたが、リリアは強くは握らず、ただ温度だけを渡す。


「その痛みは、生きている印です。愛は痛みから逃げると影になり、痛みを抱くと光になります。どちらを選ぶかは、あなたの自由です」


「光……?」


「棘は、光に弱い。試しますか」


 リリアは胸の前で指を組み、短い呟きを漏らした。呪文ではない。香りを結ぶ言葉。白百合の花弁の記憶を呼び出し、その香りを黒薔薇の香りと重ね合わせる。相反する二つの匂いが、微かな中和を起こす。世界が震え、月光がひときわ強く落ちた。黒薔薇の雨がふいに白へ転じ、短い時間だけ棘の尖りが鈍る。


 王は目を見開いた。棘の影が遠ざかる刹那の軽さに、彼の肩から硬さがほどける。


「……胸が、楽だ」


「長くは続きません。けれど、道の端を見せることはできる。あなたが歩くべき道の」


 彼はリリアの顔を見つめた。金の瞳の奥に、遠い火のような色が灯る。


「君はだれだ、と私は問うた。けれど、今は知っている気がする。小さな温室。白い蒸気。指先に土を残して笑う人の影……」


 それは、リリアの記憶の風景だった。彼女の中の香りが、彼の夢に滲み出てしまったのだ。心結合の兆候。強く結びすぎれば危うい。だが、彼をここから出すには、結び目が必要でもある。


「戻りましょう、陛下。朝が来ます」


「君も一緒に来るのか」


「私はあなたの庭師で、あなたの夢の来訪者。――境界線のこちら側に、長くは留まれません」


 白に変じていた薔薇が、名残惜しそうにまた黒へ戻り始めた。風が逆向きに流れ、香りの層が元の順番に重なる。リリアは王の手を離し、花の列の切れ目を探して歩き出す。振り返ると、王はじっと彼女を見ていた。名を呼ぼうとして、呼べない。まだ結び目は細すぎるのだ。


◇ ◇ ◇


 現実へ浮上する感覚は、薄い水面を破るときに似ている。まつ毛が震え、瞼の裏に光の粒が走る。


「……っ」


 リリアが目を開けるのと、王の指がシーツを掴むのは、ほとんど同時だった。金色の瞳が細く開き、焦点を探すみたいに彼女の顔を映す。室内の空気がいっせいに動き、女官の小さな叫び、ハルトの短い息、近衛の鎧のきしみ。王が、目覚めた。


「君は――夢で、会った」


 王の声は乾いていたが、微かな安堵の湿り気を含んでいた。リリアは頭を垂れる。


「花医師リリア・アストレア。陛下の心の庭に、お邪魔しました」


「胸が痛い」


 王は正直だ。彼は自らの胸に手を当て、わずかに笑った。「だが、悪くない」


 ハルトが前に進み出る。「陛下。ご気分は」


「長く眠っていた気がする」


「三か月でございます」


「そんなに」王は驚いた顔をしたのち、ふと視線をずらす。「花の匂いがする」


「花医師の術です」ハルトが言葉を選ぶ。「……説明を」


 リリアは簡潔に告げた。夢露診、香りの結び、棘の一時的な鈍化。王が理解したかどうかは分からない。ただ、彼は彼女から目を離さなかった。視線は熱ではなく、光だった。感謝と、名づけ前の愛情の種のようなもの。危険な兆し。


 式次第に従い、医師らは陛下の脈と舌、瞳孔、魔力の脈動を診た。数値はいずれも平常に近い。驚きと警戒が混ざったざわめきが、白衣の輪の中を回る。王は休息のために寝台の角度を変えられ、薄い湯を勧められ、ようやく皆が引く。


 出る間際、王が呼んだ。「リリア」


 名前。夢の中で呼べなかった音。彼はもう、言えた。


「はい」


「また来てくれるか」


 頼みごとにしては幼く、命令にしてはやわらかい。彼は自分でもその甘さに気づいたのか、わずかに頬を赤くして目を伏せた。リリアは胸に手を当てて礼をし、言う。


「呼ばれれば、何度でも」


 彼の唇が、ほっと緩んだ。小さな微笑。リリアの心臓が一度だけ強く打つ。棘が内側から刺す音が、聞こえた気がした。


◇ ◇ ◇


 王が目覚めたという報は、日の傾く前に王都の隅々へ達した。鐘楼が三度鳴り、人々の声が広場に溢れる。露台でワインの瓶が開き、窓辺で祈りの手がほどける。「花医師が王を起こした」――噂は事実を美化し、花を奇跡に変える。奇跡は常に反発と嫉妬を呼ぶ。


 医務局の廊下を歩くと、白衣の背中がわずかに硬くなるのが分かった。正面から礼を言う者もいたが、多くは目をそらした。リリアは気にしない。気にしないふりを、した。


 執務塔の高みにある会議室で、臨時の評議が開かれた。王の覚醒を受け、今後の治療方針、王の公務再開の段取り、情報統制、祈祷院との調整。議題は多岐にわたる。リリアは傍聴者として後列に控えた。


「花医師の術は継続するべきか」誰かが問う。「結果を見れば効果は明白だが、危険も未知数だ。心の結合などという、不穏な言葉を私は認めたくない」


「だが、陛下ご自身のご意向は」別の声。「陛下は花医師を求めておられる」


「王の“好み”を医療に持ち込むのか。王は若い。若さはときに――」


 言葉が明瞭な棘を持ち始めたところで、ハルトが手を上げて制した。


「感情は脇に置け。結果と手順だけを見ろ。花医師の術は、本日の覚醒に寄与した。以後の介入は医務局の監督下で、頻度、時間、方法を定める。必要なら魔導院の監視官を同席させる」


 監視。つまり、信用されていない。いい。信用は時間で育てる。花と同じだ。


 会議が散じ、石の階段を降りるころ、細い声が背後から呼んだ。「リリア殿」


 振り返ると、艶やかな黒髪の女官が立っていた。年はリリアと同じくらい。深い緑の瞳。


「陛下から」


 差し出されたのは小さな封筒。封緘に黄金の獅子。開くと、白い紙に短い一文があった。


『香りが消える前に、もう一度来てほしい。――レオン』


 呼び捨ての署名に、思わず息を呑む。王は通常、私信でも称号を付す。名だけ――危うい親密さの合図だ。


 女官は微笑んだ。「陛下はわがままではありません。ただ、ときどき、お若いのです」


 リリアも微笑を返した。「あなたは陛下のお側近?」


「側仕えのカミラと申します。……花の匂いが似合う方」


「そんなことは」


「いえ。似合います」カミラは軽く礼をして去った。廊下に白檀の香りが薄く尾を引く。


◇ ◇ ◇


 夜は静かに落ちた。王宮の客間に与えられた机に、リリアは診察記録を広げる。《黒薔薇反応:夢中構造安定。ただし棘の再生早い。心結合:微弱発現。患者側からの呼名回復》――淡々と書くほど、胸の熱は増した。冷静であるべきだ。医師である限り。


 窓を開けると、庭の池に月が浮かんでいた。白百合の群れが月を抱き、風が花を揺らすたび、銀の破片が水に落ちる。美しい。美はときに、心の戒めを緩める。


 背後で気配がした。振り返ると、テーブルの上に一輪の花が置かれている。さっきまではなかった。黒薔薇。中心に薄い刻印――黄金の獅子。


「……陛下」


 声は自然に零れた。いつ誰が、どうやって置いたのかは問題ではない。香りが答えを連れてくる。黒薔薇は甘く、しかし針のように細い刺激を含み、直接心臓へ降りてくる。


 そっと花弁に触れる。柔らかい。すぐあとに棘の硬さ。指先に浅い痛み。血は滲まない。だが、痛みだけが確かに走る。


 ――恋か、呪いか。


 どちらでも、香りは似ている。違いは量と、順番と、記す言葉の選び方。


 リリアは花を胸に抱いた。心臓の鼓動が、花弁をわずかに震わせる。窓の外、庭の暗がりで、誰かが小さく足音を立てた気がした。カミラかもしれない。あるいは、もっと別の影。王を“若い”と嫌う者たち。


 机に戻り、記録の末尾に一文を加える。《患者の自発的接近の兆候。香りの媒介による連絡あり》


 筆を置いたとき、まぶたが重くなった。今日一日で、魂の糸をずいぶん使った。椅子に背中を預け、目を閉じる。花の香りが夢との境界線を柔らかくし、薄い幕の向こうで誰かが名を呼ぶ。


『リリア』


 王の声だ。夢の中よりも現(うつつ)に近い声。彼は境界に立っている。危うく、愛おしい。


 彼が境界を越えてこちらへ来るなら――迎えるのは、医師か、女か。リリアは決めねばならない。だが今夜はまだ、決めない。香りは急ぐと壊れる。


「癒やしの手に、棘がある」


 師の言葉を、もう一度、胸の内で繰り返した。棘は護りでもあり、誓いでもある。触れれば刺す。だが、刺すことで距離を測れる。


 遠く、鐘がひとつ鳴った。夜半。王宮の灯がひとつ、またひとつ消える。暗さが濃くなるほど、花の匂いははっきりする。彼女は黒薔薇を枕元に置き、横になった。


 眠りに落ちる直前、扉の外で足音が止まり、そして去っていくのを聞いた。誰かは分からない。名は、まだ要らない。名は、いつでもあとから香りに縫いつけられる。


 月が雲に入り、部屋はさらに暗くなった。暗さの中心で、黒薔薇がかすかに光る。


 ――第1話、幕が上がる。


◇ ◇ ◇


 同じ夜、王は目を閉じたまま、天蓋の帷の縁を指で探っていた。布の端に縫い込まれた金糸の粒が、幼いころに数えた星座の形のまま残っている。彼はそれをひとつ、ふたつ、みっつ……と指でなぞり、呼吸を整えた。胸の奥の痛みはまだある。だが、その痛みは刃ではなく、灯火に似ていた。


 扉が叩かれ、侍従長が入ってきた。年老いた灰色の目が、若い王を気遣う。


「陛下、御気分は如何に」


「眠り足りた。いや、眠り過ぎたのか」


「本日はご回復の報を国中が喜んでおります。明朝、御母堂様と御面会の予定。大臣らが次々と拝謁を願い出ております。……それから、医務局長殿が、花医師の術式の記録を」


「記録はハルトに任せる。……それより」王は言葉を探し、唇の内側を噛んだ。「花の匂いが残っている」


「は」侍従長は窓を少し開けた。夜風が入る。「池の百合がよく香りまする」


「それではない。黒く、甘く、針のような香り。……名は何といったか」


「黒薔薇でございますか」


「そうだ」王は目を閉じ、あの夢の来訪者の名を心の内で繰り返す。「リリア」名は舌に甘く、喉に棘を残す。「彼女は、ここに来るのだろうか」


「ご所望とあらば、いつでも」


「所望……」王は苦く笑う。「王の所望は、国の命令になる。私は、命令したくない」


 侍従長は頭を垂れ、答えなかった。それが賢明だった。欲は命令に姿を変えやすい。若い王はそれを恐れている。恐れを抱ける王は、まだ良い王だ。侍従長は胸の中でそう呟いた。


◇ ◇ ◇


 明け方、王は寝台を抜け出した。足元に布靴を履き、誰にも告げずにバルコニーへ出る。冷たい空気が顔に触れ、肺に落ちていく。池の上に白い霧が漂い、薄い金の帯のような朝焼けが街の屋根を撫でる。


 欄干に、一羽の鷹がとまっていた。王の相棒だ。長い眠りのあいだ、彼を待っていたのだろう。王はそっと腕を差し出す。鷹はためらいののち、爪で彼の腕をつかんだ。重さ。確かな現実の重量。


「長く寝ていた」


 鷹は返事をしない。代わりに、首を傾げた。羽根に宿る朝露がひと粒、地面へ落ちる。その落ちる音さえ聞こえるほど静かだった。


 欄干の向こう、庭の白百合の中に人影が動いた。緑の裾。カミラだ。彼女は手に水差しを持ち、花の根元に静かに水を注いでゆく。彼女は王がここにいるとは気づかない。だから、彼は見ているだけだった。花に注がれる水の音は、眠りと現の間をつなぐ細い糸のように続いた。


「……香りが消える前に」王は低く呟いた。「もう一度、来てほしい」


◇ ◇ ◇


 午前、王の前に三人の大臣が跪いた。財務、軍務、宮内。それぞれが、王の覚醒を喜ぶ辞を述べ、そして“通常運転”に戻すための議題を差し出す。財務は税の延期により生じた穴をどう埋めるか、軍務は北辺の備えが緩んだ隙に隣国が交易税を上げた件、宮内は王の婚姻の噂に対する対処。最後の紙に、王は眉をひそめた。


「婚姻の噂?」


「はい、陛下。長くお休みでいらしたため、縁談の家々がざわついております。王にふさわしい家の娘を、という声が強く……」


 王は紙を置いた。「今、話すことではない」


「しかし、国は世継ぎを求め」


「今、話すことではないと言った」声は静かだったが、鋼の芯が通っていた。三人は同時に下がる。王は疲労に目を閉じ、指でこめかみを押した。香りが一瞬、濃くなる。黒薔薇。彼は笑ってしまう。滑稽だ。婚姻の紙の上で、黒い花が咲く。


 そこへ、ハルトが入ってきた。白衣の下に鎧のような硬さを纏っている男。


「陛下。術式の記録を」


「あとにしてくれ」


「しかし、花医師の介入頻度は定めねばなりません。心結合の進行は監視下に置くべきで」


 王はおだやかにハルトを見た。「私は、監視されることに慣れている。だが、彼女は?」


「彼女は医師です。監視は職務の一部だ」


「医師は人だ。監視は人を石に変える」


 ハルトはわずかに目を細めた。王とやり合うのは骨が折れる。だが、王は目覚めたばかりだ。今は退くべき時だ。


「承知しました。――本日は、夕刻にもう一度、短い介入を」


「短くなくていい」王は即答した。自分で笑って、首を振る。「……いや、短くていい。君の言う通りだ」


◇ ◇ ◇


 夕刻。リリアは第二回の夢露診に備えて、温室で材料を選んでいた。王宮の温室は広く、四季の花が同時に咲く。香りがぶつかり合わないよう、道は巧みに曲がり、植床の高さが少しずつ変えられている。ここを設計した庭師は、香りの楽譜を読める人だ。尊敬する。


 白百合の列の陰で、気配が動いた。「お探しのものは?」カミラだ。両手を袖に入れ、控えめな笑いを浮かべている。


「夜明けの露を吸った花がほしいの。夢の端を掬うには、新しい水が必要」


「なら、こっちです」カミラは奥の棚へ案内した。ガラスの杯に、小さな青い花が集められている。朝露がまだ芯に留まっていて、香りがかすかに鈴を鳴らす。


「ありがとう」


「いえ。……王は、やさしい?」


 唐突な問い。リリアは一拍おいて、答えた。「やさしいと思う。怖がっているけれど」


「何を」


「いろいろ。愛すること。命令で愛させてしまうこと。愛した相手が、呪いに触れること」


 カミラは小さく肩をすくめた。「若い王はいつも怖がります。怖がれる王は、長く続きます」


「あなたは、王をよく見ている」


「側仕えですから」カミラは微笑んだ。「それに――」そこまで言って、ふと目を伏せた。「私も、花が好き」


 それで充分だった。花が好きな人は、言葉の順番が似る。


◇ ◇ ◇


 二度目の夢露診は、最初とは違う道を辿った。黒薔薇の庭の端ではなく、中心にある泉へ。泉は暗く、底が見えない。水面に星が浮かび、覗くたびに自分の顔が違って見える。王はそこで立ち止まっていた。


「ここは?」


「心の底に降りる入口。痛みの根が沈んでいます」


「降りれば、何が見える」


「たぶん……名前」


 王は息をのんだ。「名前を、取り戻せるのか」


「分かりません。けれど、名を呼ぶことは、誰かを現に連れ戻すことです。試みる価値はある」


 彼は頷き、泉の縁に膝をついた。リリアも隣に座る。二人の影が水面に落ち、重なり、離れる。香りがわずかに変わった。黒薔薇に、白百合の筋が差し込む。


「君の名は、リリア」王は水面に向かって言う。「リリア」


 水が震え、底から泡が上がった。泡の中に、ひとつの文字が光る。掻き消え、また別の文字が浮かぶ。名は完成しない。


「焦らないで」リリアは囁く。「名は、呼びかけの回数で縫われる」


 王はゆっくり頷き、手を伸ばしてリリアの指を握った。彼の指は少し冷たく、しかし確かな力があった。二人の手を包むように香りが巻き、泉の縁で棘が一瞬だけ引いた。


 その瞬間、遠くで鐘が鳴った。現の鐘が、夢に届いた。糸は細い。今夜はここまでだ。


「また来よう」王は言った。「君がよければ」


「はい」リリアは答えた。心臓が、また強く打つ。棘の音。だが、その痛みはもう、恐ろしくなかった。


◇ ◇ ◇


 夜更け。客間に戻ったリリアは、長い息を吐いた。窓を開けると、雲がほどけて星が見えた。机の上の黒薔薇は、昼よりも甘く香り、花弁の縁がわずかに白く光った。白百合のブローチを指で撫でる。師の声が脳裏に落ちる。


『癒やしの手に棘があるのは、患者を突き放すためではない。互いを血で繋がぬようにするためだ。愛は血になる。血は甘く、あたたかい。だが、甘さは判断を鈍らせる。棘は、覚悟の印だ』


 覚悟。


 机に向かい、記録の下に一行を足す。《本日、泉を視る。名の欠片が浮上。次回、縫合試行》


 書き終え、ペン先を拭き取り、目を閉じる。香りが静かに重なって、彼女は眠りに落ちた。


 眠りの淵で、誰かが扉の前に立った気配がした。沈黙。やがて、その人影は去る。残ったのは、靴音のない香りだけ――黒薔薇と、白百合。


 遠くの塔で、夜警が笛を鳴らした。短く、二度。合図は平穏を意味する。平穏は脆い。翌日、最初の噂が生まれる。『王は花医師に恋をした』。噂は軽く、しかし、刃物より早く広がる。


 そして、物語は静かに、深く進んでゆく。


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