ありあけの

躊躇いなどない背中に、かける言葉もなかった。

 近頃の和泉は機嫌が悪い。車の運転の荒さは以前より落ち着いたけれど台所に立つ背中や風呂場を洗う音、掃除のが家中に響いて辟易する。

 「ねえ、最近なんであんな機嫌悪いの?自分の家なのに落ち着かなくてしょうがないよ」

 「近頃人手不足で仕事も立て込んでる上に、この家の家事を担ってますからねえ」

 「それは和泉が他の組合員の人に任せないからじゃん」

 「居心地のいい、親父さんやお嬢が勝手の分かる家に仕上げたいからに決まってるじゃないですかあ」

 昼下がり、中庭の桜の木の前で寝転がりながら宮田と坊主めくりをしていると猛々しい掃除機の音が近づいてきた。

 頭巾をした和泉と目が合った宮田は飛び上がり、慌てて札をかきあつめる。

 「天気のいいお休みの日に坊主めくりですか。たまには自分のシーツくらい自分で干したらどうです?」

 「月一回干してるんだからいいじゃん別に」

 「ご自身で、と申し上げてるんですが」

 「あの、俺ちょっとたまちゃんのとこにおつかい行ってきますわ」

 「会合用の和菓子はもう用意してある」

 「あ、じゃあお嬢のおやつを…」

 「要らん。太る。」

 「ちょっと!失礼なこと言わないでよ」

 和泉は寝転がった私を一瞥し、鼻で笑って見せた。こめかみの血管に亀裂が入った気がする。

 「何笑ってんの」

 「いいえ別に。誰も冬の蓄えがそのままに春を迎えてぶくぶくしてきただなんて思ってません」

 「そのまま言ってんじゃん!」

 「ま、まあまあまあ。和泉さん俺も手伝いますから」

 「お前は縁側の掃除と鯉の餌やりしとけ」

 「はい!ではでは」

 くそ、逃げたな。

 短い舌打ちを打つと和泉は掃除機を止め、散り切った桜の木を見上げた。新緑が香る五月。先日誕生日を迎えた私よりもずっと長い年月を過ごしたこの桜の木を、和泉は好んで夜になると一人眺める日がある。

 「桜も親父さんも泣いてますね」

 「はい?」

 「ろくに修行もせず花盛りの一人娘がこんなとこでだらだらと。友達どころか恋の訪れも遠のきそうですね」

 堪忍袋の緒が切れた。

 立ち上がり去ろうとする私の背中に和泉が声をかけようとする前に振り返る。

 「言ってなかったけど。私、彼氏いるから。だから友達もいらないの。余計なお世話」

 和泉の冷たい突き放すような口真似をし、無表情の和泉に背を向けた。

 「で?その、彼氏とやらは一体いつできたわけ?聞いたことないですけど」

 「だーかーらー!お願い!たまちゃん、合コン組んで!」

 「あのさあ、虚しくないのそんな嘘ついて」

 「虚しいに決まってんじゃん!だからここまで来たんじゃん〜」

 泣きべそをかきながら柏餅を食らう私に、たまちゃんは呆れてものも言えない。

 勢い余って啖呵を切ったけど和泉のことだ。どうせ信じていない。信ぴょう性を持たせるためにも、男の子と接点を持たなければ。

 「紹介するのはいいけど、茅面食いじゃん。どんな子でも文句言わないでよ?」

 「言わない言わない!お願いよ〜友達になれたらそれでいいから!」

 「え?彼氏作るんじゃないの?」

 「できないよ私なんかに」

 「コーコーセーなんか一緒に下校しただけでほれたはれたできるんだから、他校のお嬢様学校の大和撫子なんてイチコロよ」

 たまちゃんは早々とスマホで連絡先をチェックし、素早く指を動かした。たまちゃんは公立の学校に通っているからツテが多くある。

 「私やまとなでしこ?」

 「黙ってればね。だから黙ってな。ニコニコ微笑んでりゃなんとかなる」

 「ねえ、それって私の事好きなんじゃなくて、ニコニコ笑ってるおしとやかな子が好きなだけじゃないの?」

 「本来の自分を好きになって欲しいなんておこがましい!ましてやあんただって同じじゃんよ。「彼氏」がほしいだけで、好きな人じゃないじゃない」

 もっともな正論にぐうの音も出なかった。

 そして私に大和撫子の素養はあるはずもない。頼みの綱は、微笑みただ一つ。

 「それにさあ。彼氏って作るもんじゃないよ。好きな人も。気づいたら、好きになってるもんなんだよ」

 「…たまちゃんは好きな人いるの」

 「いるよ」

 「え、誰」

 「教えない」

 「なんで!」

 「自分の気持ちに素直にならないうちは、私も茅ちゃんには素直にならない」

 「なにそれ!」

 「和泉さんのこと。」

 たまちゃんの言葉に呼吸を忘れそうになった。カウンターにかけた手の力が抜け、するすると落ちていく。

 たまちゃんは短くため息をつき、短い髪を耳にかけた。

 「昔はそう言ってたじゃん」

 言いすぎたと思ったのか、目を泳がせながら控えめに言った。たまちゃんは優しい。たまちゃんは何も悪くない。

 悪いのは、私だ。

 「昔の話だよ。よくある話でしょ。近くにいる年上の人がよく見えるだけ。それだけだよ」

 「あっそ。はい、サービス。抹茶どら焼き。箱入れたから持ってって」

 「え!ありがとう!」

 「いいの?本当に声掛けちゃうけど」

 「是非!お願いします!」

 ほろ苦い抹茶に齧り付き、溜飲と共に流し込んだ。

 好きな人なんて居ない。

 これから先も、出来やしない。

 誰のことも、好きになんかならない。

  「茅お嬢!どこ行かれてたんですか!」

 「どこって、たまちゃんのとこだけど」

 「和泉さんと喧嘩でもしましたか?」

 「え?してないよ」

 「じゃあなんなんですかね…今日の夕飯、激辛カレーなんですけど…」

 「ええ…」

 和泉の機嫌はその日の夕飯でも分かる。機嫌のいい日は食べ物が動物に変わる。仕事が上手くいった日は麺類。そして、苛立ちが頂点に達した日は、激辛料理。

 「何か」

 「いえ。いただきます」

 「…いただきます」

 マグマのごとく煮えたぎるカレーをスプーンですくうと湯気が立ちこめてサウナのようになった。宇治原家は激辛が得意だけれど、宮田はそうではないらしい。

 食後唇を腫らして、コンビニで買ってきた二つに割れるアイスを半分割ってくれた。

 「こんな事言うのもなんですけど、和泉さんの気持ちも汲んでやってくれませんか」

 「なにが」

 「親父さんの期待がかかってるんですよ。それは多分、お嬢以上に。いずれこの家を継ぐあなたのお目付け役です。それでなくたって、特級の仕事は過酷です。親父さんが調整してくれているのに、それ以上の仕事を取ってきてこなしてるんです。震えが立つほどの社畜ですよ」

 ホワイトソーダ味のアイスを口に含み、まだ熱を帯びる口内が冷やされていく。

 確かに最近少しやつれた気がする。表の華道の仕事で家を空けている父の呈色師としての仕事も引き継いでいるだろう。だけど、だからって私に何が出来る。

 「紫陽花あじさい交流会ももうすぐです。その下準備もえげつない量です。俺も手伝わされてくたくたですわ」

 「宮田、いつまで家の手伝いするんだっけ」

 「今月いっぱいには。来月からはまた派遣で地方飛んでいきますわ。」

 「どっか一つのところに留まろうって思わないの?」

 「俺の所属する紅海老べにえび会は本来そういう、他の組合に派遣して活動するのが主流ですから。大体どこの組合もそうですよ。極彩会ほど大きくなりゃ派遣先が手広いんで、遠くまで行く必要も無いですけどね。横のつながり大事にする呈色師の世界の習わしです。」

 「ふーん…」

 「和泉さんが元々いた極彩会傘下の青彩会もそうですよ。傘下といっても実質肩並べですけどね。そういえば、会長のご子息が遠征から戻られたとか」

 「え?和泉のお兄さんが?」

 「ええ、そう聞いてます」

 和泉の機嫌の悪さはそれか。やってしまったと頭を抱えた。

 和泉の家庭は家以上に複雑で、家族仲がよろしくない。元々和泉が家にヘッドハンティングされたのも、遠からずその理由も含まれている。

 跡継ぎの長男は和泉に比べてどこか浮世離れした、と言えば聞こえは柔らかいが実際はかなりの放蕩息子で、女好きで身持ちが悪く、金遣いが荒い人物という印象が強い。

 何度か会合で顔を合わせたことがあるが幼い私になど目もくれず、父に媚びを売っては酒を飲み明かし泥酔して、女性の呈色師に絡んでは青彩会会長である和泉の父に叱責されていた。

 懐の広い父は和泉が頭を下げる度に、「お前が謝る義理はないだろう。お前はもう、宇治原の人間だ」と背中を叩いていた。

 和泉が呈色師として飛び級で準二級の称号を得たのは十五の年。その後、特級にまで駆け上がったのは父の力添えもあってのこと。

 それを僻んでいると、呈色師の中ではもっぱらの噂。

 そんな当の本人は和泉よりも五つ上でありながら、未だに準一級。和泉の昇級が早すぎたというのもある。

 出来すぎた弟を持つ苦労も伺えるけれど、後継者となるには特級の昇級が必要不可欠。

 家族の溝は、想像しがたく深いはずだ。

 「まだ起きてたんですか」

 「やっぱりいた」

 中庭に向かうと和泉は珍しく酒を飲んでいた。好まないと言って父との晩酌も時々しか付き合わないのに。

 隣に腰かけ、宮田から貰ったアイスを一つ分けると素直に受け取った。

 「これ美味しいよ」

 「二個目ですか?腹下しますよ」

 「そんなヤワじゃないって」

 「夜はまだ冷えます」

 和泉は自分の羽織を私の肩にかけた。和泉が焚いた沈丁花の香木の品のある香りが鼻を掠める。

 かけられた羽織を寄せ合わせる。

 「カレー、美味しかった」

 「辛くなかったですか」

 「丁度良かったよ?」

 「すみません」

 「それは宮田に言ってあげて」

 吹き出すと、和泉も釣られたように目尻を下げた。昔から目だけで笑うのが癖で、分かるようになるのに一年かかった。

 分かりづらいだけで、和泉にだって感情はある。

 「珍しいじゃん。お酒飲むなんて」

 「なんだか眠れなくて」

 「明日の仕事響くんじゃない?送り迎えしなくてもいいよ」

 「そんなヤワじゃないです」

 「ああそうですか」

 「ありがとうございます。」

 アイスから和泉に目を移すと、和泉も私を見ていた。夜闇に紛れる吸い込まれそうな黒い瞳。濡れたような黒髪が、風に揺れる。

 「べつに、私だって気遣う心くらいあるよ」

 「ええ。ありがとうございます。俺は大丈夫です」

 「はいはい」

 「お嬢」

 笑って流した私の腕を掴んだ和泉の手は、いつになく力が抜けていてなんだか不安になった。

 いつも私より低い体温の手が私と同じくらいの温度で溶け合うみたいで、なんだか落ち着かない。

 「好きな人が、いるんですか」

 目を逸らせなかった。

 自分のついた嘘が胸に引っかかる。

 こんな形でその話題に触れてくるとは思いもしなかった。もっと茶化したり、真に受けたりせず笑いの種にされるかと思っていたのに。

 「なに、急に」

 「恋人のことを、愛してますか」

 「変だよ和泉」

 「茶化さないでください」

 言葉に詰まる。自分のついた嘘が、和泉の瞳を揺らすのか。

 夜空に浮かぶ月がやけに明るい。そのせいでしらじらと和泉の表情も、瞳も私の嘘を明かすようで逃げ出したくなった。

 和泉の腕を払う。

 「もう寝る、おやすみ」

 廊下に響く自分の足音が闇に吸い込まれるように消えていく。振り返ることが出来なかった。

 「え。和泉いないの?」

 「はい。何やらご実家の方でトラブルだとか、朝早く出かけられました。なので今日の送迎は俺が代わりに。」

 宮田は和泉が愛車を盗まれていた間の代車を指して言った。昨日の夜の和泉を思い出すと、胸が詰まるようだった。

 「シートベルトしました?」

 「うん。大丈夫」

 「ありゃ、まただ」

 「どうかしたの」

 宮田は小型の電子機器を小突きながら眉間に皺を寄せた。霊波を感知する呈色師が持つものだ。

 「いやあ、近頃霊波を感知した途端に発信が消えるんですよ。壊れてるのかなって思ったら、和泉さんのもそうみたいで。ここの管轄は極彩会の組合員なので、事情聞いてみたんですけどさっぱりで」

 「ふーん…」

 「お嬢も持っといた方がいいですよ。交流会の表彰式のときにもらったでしょ?」

 「部屋のどっかにあると思う」

 「またそんな…ただでさえ彩力に当てられて訳わかんないのが寄って来やすいんですから、ちゃんと備えてくださいよ。俺や和泉さんが近くにいないとき困りますから」

 和泉が私のそばを離れたときなど、片時だってなかった。どれだけ仕事が忙しかろうが、一日以上かかる仕事を請け負ったことなどない。過密スケジュールの中でも必ず家に帰ってきて夕飯の支度を、あのフリルの着いたエプロンでしていた。

 その和泉が、私に何の連絡もなしに出かけて行った。そんなのは、和泉が家に来てから初めてのことだった。

 「そういえば、和泉さんってなんであのふりふりの似合わないエプロンしてるんですか?めっちゃ面白いんですけど」

 「あれはお母さんの形見。小さい頃、私が着てって頼んだの。それを律儀に守ってるだけ」

 「へー…和泉さんって、変なとこ思いやり深いですよね」

 思いやり。

 和泉の思いやりは、いつだって分かりづらい。

 だけど昨日の和泉を放ったらかしにしたのは、やっぱりまずかったかもしれない。でも自分から連絡するのはなんだか怖かった。

 「今日帰り、迎え大丈夫だから」

 「またたまちゃんのとこですか?」

 「まあ、そんなとこ」

 不安定な宮田の運転に少し酔ってしまい、授業中気持ち悪くなった。

 乗り物酔いは酷いほうだったけど、唯一和泉の運転だけは薬を飲まなくても乗っていられた。それは和泉が最大限、私に配慮してくれていたおかげだ。

 そんなことにも気づけないくらい、和泉の思いやりが当たり前になっていた。

 

 「カンパーイ!」

 チカチカ光るライトと、色鮮やかなジュースのコップがぶつかり合う音が響き渡る。音響の狂った音楽が耳に暴力的に鳴り響いて顔が引き攣る。

 「よろしくね茅ちゃん!」

 「よ、よろしくお願いします…」

 「茅ちゃん女子校だから、あんまガツガツ来ないでね。」

 「たまみにこんな可愛い友達いたなんて聞いてねーよ!もっと早く言ってくれりゃいいのにー!」

 「いや、そんな」

 「謙遜もかわいー!」

 「まじでかわいいな」

 「ほんとかわいー!」

 これが、合コンか。これが、同年代の男の子。これが、カラオケ。

 空気に飲まれる私の肩をたまちゃんが叩き、冷えた目で眺める。

 「ゴメン。まともなのはもう彼女いたわ。うるさいけど、友達としては良い奴ばっかだから。そのつもりで」

 手刀を作ったたまちゃんに首を振る。

 「いやいや、こんなすぐ誘ってくれてありがとう」

 「なーに二人で会議してんの?もしかして俺らのランクチェック!?」

 「そんじゃ特典アップのために歌うわ!茅ちゃん、歌何が好き?一緒に歌お!」

 「いや私、歌とかあんま得意じゃなくて」

 「得意も不得意もないって!ね、歌えるやつ一緒に歌お!」

 隣に座った松岡まつおかくんは、上手い返しのできない私にも積極的に声をかけてくれて、飲み物が空いたりすると代わりに取りに行ってくれたり、すごく良くしてくれた。

 何度も持ってきてくれる味の濃い甘いジュースに歯が溶けそうだ。

 他の二人は女の子どうこうよりもこういう集まりが好きなようで、それぞれが場の空気を楽しんでいるみたいだった。

 「疲れちゃった?」

 「あ、え?」

 トイレから出ると、ちょうど飲み物を取りに来ていた松岡くんが眉を下げて心配そうに伺った。

 「あ、いやそんなことないよ」

 「嘘。茅ちゃん分かりやすいな」

 「…ごめん。私、友達とこういうところ来るの初めてで」

 「うっそ、マジモンのお嬢様じゃん。すごいなー。逆になんかごめんね、品がないって言うか」

 「いや、そんなことないよ。むしろ盛り上げてくれて、楽しいよ」

 「本当?じゃあ、良かったら今度はゆっくり話せるときに二人でどっか出かけない?」

 松岡くんの問いかけに体が固まった。

 「う、うん。私で良ければ」

 「っしゃ!行きたいとこあったら教えて。俺バッセンとか、そういうのしか分かんないからさ」

 「バッセン?」

 「バッティングセンター」

 「ああ、それでバッセン」

 「茅ちゃんほんとにお嬢様だな!はは」

 「はは、ほんと、世間知らずで、ははは」

 家について部屋に入った瞬間、ベッドに倒れ込んだ。

 疲れきった。それはもう、彩力さえ果てるほどに。

 あのあと松岡くんはずっと隣にいて気をつかってくれた分、こっちまで変に気を使ってしまって気疲れしてしまった。

 優しい子だった。それに応えなきゃと、変に自分を着飾った。本当の私はあんなに笑ったり、歌を歌ったりする子じゃない。

 帰り道、方向が一緒だからと家の近くまで送ってくれたけど嘘をついているのが色で分かった。わざわざ遠回りをしてまで、送ってくれた。

 私本当に、こんなことがしたかったんだっけ。

 「茅、いるか?」

 「あ、はい」

 父の声がして起き上がると、小さく手招きされた。居間に向かうと和泉の作ったカレーうどんが並べられていた。

 和泉に声をかける前に席に促され、伺いながらも手を合わせる。

 「いただきます」

 「いただきますっと。それでだ。明日から旺二郎が出張に出るから、その間のことは宮田が引き継ぐ。数日のことだから問題ないよな」

 「え、出張?」

 「ご実家で何かあったんですか」

 私と宮田が驚いて聞き返すけれど、和泉は無表情のままお茶を注ぐ。

 「愚兄が怪我をしまして。その間、少しあちらの手伝いに」

 「え…、具合大丈夫なの」

 「かすり傷です。全治一ヶ月ほどの」

 「それ、かすり傷とは言わないんじゃ…」

 「青彩会を背負って立つ人間に弱音を吐かれては青彩会の名折れです。荷造りしてきます」

 和泉はエプロンを解いて台所にかけ、自室に行ってしまった。明日から、和泉がいない。

 呆然とする私を宮田が見遣る。

 「力不足でしょうけど、何かあれば俺に申しつけてください」

 「そんなことないよ」

 「そうだぞ宮田。派遣なのに使いっ走って申し訳ないなあ」

 「いえいえ。宇治原の家に世話になってる身です。なんなりとお申し付けください」

 笑い合う二人の声が耳から遠のいていく。遠ざかる和泉の背中から、目を逸らせなかった。

 しばらく晴れの日が続いて、毎日夜にはぽっかり月が浮かんでいた。

 その月は和泉の揺れた瞳を照らしたあの月と同じ。

 なんだか不安を煽られるようで見ていられなくなった。

 「和泉、」

 「母さん、泣くなよ」

 荷物を車に積んだ和泉に声をかけようとして、和泉の母と電話している声に口を噤んだ。

 和泉のお母さんは百合の花のように白く、儚げな美しい人だった。和泉の綺麗な顔は、お母さんから、すっと伸びた手足や背格好はお父さんから譲り受けたのだと思う。

 「そんなこと言われたって、俺はもう宇治原の人間だよ。兄貴がいるだろ。…そんなの知ったこちゃねーよ。親父が選んだのは、兄貴だろ」

 すすり泣くような声に和泉がいくつか相槌を打って、スマホをポケットにしまった。

 「お見送りしてくれるんですか」

 どきっと肩が震える。気づいてたのか。

 「もう出るの」

 「急ぎの案件があるみたいで。行きたくないですけど」

 和泉はタバコに火をつけ吐き捨てるように言った。私は、和泉に何を言えるだろう。

 「和泉、大丈夫?」

 「だから大丈夫ですって。なんの心配ですか」

 「帰ってくるよね」

 語尾が震えていた。情けなくなって目を伏せると、和泉の大きな手が頭に被さる。面を上げると、月に照らされた和泉が口元を弛め微笑んでいた。それは二日月のように細い、弦のようだった。

 「お嬢は寂しがり屋ですね」

 「そんなんじゃ、ないけど。…元気なさそうに見えたから」

 「元気ないですよ」

 「え、じゃあ」

 「親離れされた気分です」

 「…え?」

 和泉の手が離れる。途端に迷子のような気分になって、不安になる。

 「俺が居なくても恋人がいるでしょ。慰めてもらってください」

 目を細められかっとなり、考える前に和泉の胸を突き飛ばしていた。

 「やめてよ、そんな言い方するの」

 「なんですか急に」

 「子供扱いしないでって言ってるの」

 「なにをそんな怒ってるんですか?」

 温度のない声で言われ、息を荒らげている自分がよっぽどおかしいと気付かされる。

 そうだ。私は何をこんなにムキになっているんだろう。

 「なんなの昨日から、人の事つつくような言い方ばっかして」

 「成長を心から喜んでます」

 「茶化さないでよ!」

 声を荒らげるとスマホが鳴った。着信は松岡くんからだった。こんなときに、と苛立つ自分がいることに申し訳なくなった。

 松岡くんは、あんなに優しい人なのに。

 「噂をすればじゃないですか?」

 「やめてって言ってるでしょ」

 「まだまだ子供ですね。そんなんじゃ恋人の手にも負えなくなりますよ」

 「うるさい!」

 怒声が響き、木に止まっていた野鳥が羽ばたく音が虚しく空に消えていく。

 月が卑しく照る。照らされるのは、醜い嘘をついた汚い私の心。

 「早く行けば」

 「ええ。行ってきます」

 和泉は振り返ることなく車に乗り込み、あっという間に遠ざかって行った。

 また、私は。


 「茅ちゃん?」

 「え、ああ、ごめん。なに?」

 「いや、…ごめん。俺といてもつまんないよね」

 放課後、松岡くんと駅前のカフェで集まった。松岡くんは野球部らしい。ポジション一つ一つを丁寧に説明してくれて、キャッチャーの難しさを熱弁していたような気がする。

 「ごめん、私」

 「いいんだ。俺の方こそ、つい野球の話になると熱中しちゃって。茅ちゃんが好きなものって何?」

 優しい松岡くん。私にはもったいないくらいの人だ。

 「…私が、好きなもの。…和歌と、和菓子かな」

 「和歌?あの、いとをかしとかってやつ?」

 「そうそう。百人一首知ってる?すごい色んな歌があるんだけど、」

 言いかけて、松岡くんの意識が離れていくのを感じた。きっと私も、同じだったんだろう。こんな思いをさせてしまったのかと自己嫌悪に陥る。

 「あ、ごめん!俺その、勉強得意じゃなくて」

 「なんか私たち、謝ってばっかり。変だよね」

 苦く笑う私に松岡くんは眉を下げ、申し訳なさそうにした。

 「あのさ。」

 「ん?」

 勢いよく松岡くんが立ち上がる。がちゃん、とテーブルが揺れ周りの人の目が一斉に集まった。

 「好きです!俺と付き合ってください!」

 野球部さながらの声の張りに、耳がビリビリとひりつくようだった。差し出された手が焦げパンのように分厚い。

 誰と比べたのか、ふと思って一瞬で興醒めする。

 松岡くんの手が震えている。

 「…ちょっと、寄り道しない?」

 困惑した松岡くんは小さく頷いた。

 東屋のある大きな公園の中をゆっくり歩く。

 「松岡くんは、どうして告白してくれたの?」

 「ごめん。これ、振られる流れだよね」

 「いや、…えっと、うん。ごめん。…まだ会って二回だし、……本当を言うと、恋愛とか、よく分からないの」

 「俺もよく分かんないよ。でも、茅ちゃんの優しいところがいいなって思った」

 「私、優しいかな」

 「優しいよ。俺のつまんない話、よく聞いてくれたり、みんなが飲み終わったコップ片付けてたり、荷物寄せてくれたり、今日も恥かかせちゃったのに、俺の事気にしてくれて」

 「そんなの…」

 そんなの、優しいだけだ。

 優しさと思いやりは、違う。

 こんなことにならなきゃ、私はまた気づけないのか。

 「優しさと、思いやりの違いってなんだと思う?」

 「え?なにそれ、和歌の話?」

 「はは、そうじゃなくて。優しいのは、きっと多分、いいことだけど、受け身。共感とか、合わせるのが上手い人のこと。」

 「…じゃあ、思いやりは?」

 遠ざかる和泉の背中を思い出す。和泉にはいつだって躊躇いはない。和泉はいつも、進むべき方向に真っ直ぐ迷うことなく突き進む。私はそれに、追いつくことは出来ない。

 私はただのお世話をされる、和泉の重荷。

 呈色師として、宇治原の家に仕える者として、和泉の背負うものは大きすぎて、重すぎて、私なんかに入り込める余地なんかない。

 とっくに気づいてた。

 気づいたから、蓋をした。

 和泉の強さが好きだった。だけど段々、苦しくなっていった。隣に並びたいのに、遠ざかっていく背中が悲しくてどうにもできなくて、だから逃げた。

 わがままを言って言い合いをして、子供の振りをしてれば和泉は振り返ってくれる。そばにいてくれる。

 甘えていた。現実から目を逸らして。

 「思いやりはきっと、相手の立場を思うこと」

 「相手の、立場を思う?」

 「その人のためと思ったら、そういう考えもあるねって受け止めるだけじゃなくて、必要があれば怒ったりすること。その人が寒そうにしてたら、寒いねって言うだけじゃなくて、その人の肩に上着をかけてあげること。その人が望むなら、寂しくても、背中を押してあげること。」

 和泉を照らした素っ気ない月が目に浮かぶ。

 連れて行かないで。そばにいて。

 でも言えない。

 言えないならいっそ、ちゃんと送り出せたら良かった。「待ってるからね」って、言わなきゃいけなかった。

 和泉の帰る場所が、和泉が望む場所がどこだったとしても。

 「…多分きっと、そういうの。だから、松岡くんが帰り道反対なのに、私を送ってくれたのとか。ああいうのが思いやりなんだと思う。私のは…ただ嫌われたくなくて合わせた、薄っぺらい優しさ。ごめん、こんな人間で」

 松岡くんは思い詰めたように言葉を迷わせた。頭を奮って、強い目で向き直る。

 「気づいてたんだ」

 「ごめん。なんとなくだけど」

 「それを言うなら、俺のだって思いやりじゃないよ。」

 「え?」

 「送るよなんて言ったけど、本当は俺が茅ちゃんと帰りたかっただけなんだ。それなのに、かっこつけて狡い言い方した。夜なのに、何の連絡もせずに電話かけたり。一方的だった。俺のだって、思いやりじゃない。優しさの押しつけだった。ごめん。」

 松岡くんは角度をつけて頭を下げた。

 本当に、私にはもったいないほどに、優しい人だ。

 「本当、俺ら謝ってばっかだな」

 「本当だね、はは」

 「でもありがとう。思いやりかー。なるほど。なんか深いな。考えすぎてちょっと頭痛くなってきたかも」

 「あはは、なにそれ」

 「今度はまた、たまみも入れて遊ぼうよ」

 「うん。そうしよ。」

 松岡くんとは今度は駅で別れた。

 深呼吸して前を見据える。

 元の道を走って戻った。

 迎えに行かなきゃ。会いに行かなきゃ。和泉のところに。

 息切れをしながらさっきの東屋の公園に戻ると、嫌な気配を感じた。荒い息を飲み込みながら足を踏み入れる。日が落ち始めて薄暗い影が昇る。

 池のほとりに出ると、白い服の髪の長い霊が立ち尽くしていた。良かった。まだ呪霊じゃない。

 『私が見えるの』

 どくっと心臓が脈打った。落ち着け。落ち着け。

 「うん。ここでどうしたの」

 『月が、浮かぶのよ』

 「…月?」

 まだ理性はある。青白い肌を差すように夕日が照りつけた。夜になる前に祓わないと。

 『ここで、いつも好きな人を待ってたの。何時間も、何時間も。池に浮かぶ月を眺めて』

 「…その人とは、どうなったの?」

 『…奥さんのいる人だったの。私は遊びだって嘲笑われて、私、何を思ったのか、彼を』

 背筋に冷や汗が流れる。

 『……彼を殺したのは、私だったんだわ。ずっと待ってたはずの彼を、殺したのは私』

 距離を一歩一歩詰めながら、彼女の話に耳を傾ける。大丈夫だ。いつも通り、やれば出来る。和泉がいなくたって私は、私の力でやれる。

 「有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし」

 白い髪の長い女性が振り返る。

 「っていう、和歌。知ってる?」

 『…どんな意味?』

 「明け方の月が素っ気なく見えた。あのつれない別れから、私にとっては夜明け前の暁ほど辛いものはありません。って意味。私も、月を見てるとなんだか不安になった。でも本当は、夜明けを迎えることに臆病になってただけなのかも」

 瞳に光が宿る。思念が弱まった。

 「貴方にもきっと、夜明けが来るよ。また、別の新しい夜明けが。」

 『…許されるのかしら』

 「きっと。ゆっくり時間が流れれば、いつか。」

 『…ありがとう』

 「────『菜の花綴り』」

 女性は抵抗することなく菜の花の光に包まれ、光の粒となって空に昇っていった。

 日はとっくに沈み、星空が浮かんでいた。

 「…やば!行かなきゃ!」

 急いでいたことを思い出し、また走り出す。体が軽い。私も、少しずつ前に進んでるはず。和泉がいてくれれば、そう思える。

 隣に並べなくても、私の澪標として、前に立ち続けてくれてる限り。

 このときは気がつかなかった。走り出したときに鞄から落ちた学生証を拾った男の子の、白い彩気に。

 「あら…!茅様、お久しぶりでございます」

 「お久しぶりです、はあ、あの、和泉…あの、旺二郎さんは」

 「お嬢?」

 肩で息をする私に驚く和泉のお母さんの隣から和泉が目を見張った。いつものスーツ姿ではない、紺の着物をゆるやかに着ていた。

 「何してるんですかこんなとこまで」

 「っ、あの、あのさ、和泉」

 「落ち着いてください。母さん、水」

 「いい、大丈夫。すぐ帰るから」

 月のせいじゃない。和泉はどこにも行かない。和泉から離れようと突き放したのは私の方だ。

 和泉がどこにいたって関係ない。

 「待ってるから」

 和泉は固まったように屈んだまま、私の目を見つめる。

 「だから、ゆっくり家で休んで。…って仕事詰め込んでるか。えっと、その、家のことはいいから、自分の家の事支えてあげて。家は、大丈夫。宮田もいるし、私も、やれば出来ること色々たくさんあるから。」

 言いたいことがまとまらない。ダサいなあ。ダサいよな。昨日から、っていうか私、変な嘘ついてからずっとダサい。和泉を突き飛ばして怒鳴ったりまでして、こんなんじゃ揶揄される子供にも失礼だ。

 「お嬢」

 「宇治原の家も和泉の家だけど、ここも、和泉の家でしょ。あの、名字だと分かりづらいけど、ご実家でしょ?だから、っ」

 「お嬢。来てくれてありがとうございます」

 和泉の腕が背に回り言葉につかえると、次の瞬間には和泉の胸に顔が埋まっていた。白百合の匂いが立ちこめる。いつもの和泉とは、違う匂い。

 「…え、和泉」

 「俺の家は、あの家です。俺は、宇治原に身を捧げた人間です。帰る場所は、そこしか有り得ません」

 瞬きを忘れ硬直する。胸に手を押し当てても、和泉の力強い腕が離そうとしない。

 一体、何、これは。

 「コラバカ息子。いつまで茅様にしがみついてるつもり、通報するよ」

 「いって」

 和泉の頭をお母さんがスリッパで叩くと景気のいい音がした。和泉の腕の力が抜け、ゆるゆると開放される。

 一体何が起きたのか、頭が追いつかなかった。

 「戻りなさい旺二郎。宇治原のお宅に」

 「え、でも」

 「そのつもり。悪いけど、兄貴のこと頼む」

 「いいのよ。いい薬だわ。それに、うちの組合員もたるんでるわ。慌ただしく仕事してもらうわよ。貴方も貴方よ、そんなに忙しかったのなら断ってくれればいいのに」

 「母さんの頼み方で断れる人なんかいないよ。親父だってそうだろ」

 「あの人は私にぞっこんだもの。昔も、今も。誰かさんみたいにね」

 艶やかな瞳が投げかけられ、言葉に詰まった。遺影で微笑むほのぼのとした雰囲気の母とは違う、知性の漂う色香に撫でられたようだった。

 「茅様。うちの息子をよろしくお願いします。無愛想な表情の乏しい口下手で無骨で不器用な息子にございますが…」

 「長くねえか」

 「こちらこそ、責任もってお預かり致します」

 「ペットじゃねえんだぞ」

 和泉は私を先に乗せ、お母さんと一言二言話してから運転席に乗り込み車を走らせた。

 「ごめん、私のせいで帰ることになっちゃって」

 「違います。大した怪我じゃなかったんで早い復帰を見込んで溜まった仕事を組合員に割り振ったら俺の出る幕じゃなかったんです」

 「…そう?」

 「ええ。明日帰ろうと思ってたんですけど、お嬢が迎えに来てくれたので。ありがとうございます。嬉しかったです」

 ミラー越しに和泉を見ると目が笑っているのが分かった。本当に喜んでる。

 迷惑じゃなかった。良かった。

 「窓、開けていい?」

 「少しなら。手出さないでくださいよ」

 「分かってるって。もう子供じゃないよ」

 夜風を浴びながら瞼を閉じる。今日は新月だ。夜に眩しくないのはいつぶりだろう。

 「先日はすみませんでした」

 「え?」

 「変にからかって、子供扱いして。子離れできてないのは、俺の方でした。すみません」

 親離れ。子離れ。胸の奥で繰り返した。

 「変だね」

 「何がです?」

 「本当の親子じゃないのに、そんなふうに言うの」

 「…俺は」

 「寂しかったの」

 和泉の言葉を遮った。和泉は続きを待っている。

 「和泉のこと。親とは思ってないけど、寂しかった。怒ってごめん」

 これが今言える精一杯の言葉だった。本当の気持ちを伝えるには、まだ私は。

 まだまだ追いつけないうちは、口にしないと決めた。

 嘘はつかない。でも、全部は言わない。

 月が姿を現したり雲隠れしたり、消え入るように。

 「俺もです」

 「…和泉も?」

 「はい。貴方が、他の誰かを頼るのを寂しく思いました」

 和泉の言葉に返すものがなかった。返せるほどのものを、持ち合わせていない自分が憎らしい。胸の奥が痛んだ。

 「あまり突き放さないでください」

 「え?」

 軽いハンドル捌き。車は揺れない。安定した一定の速度で夜闇を走り抜けていく。

 「貴方の背中を見送るのは、好きじゃない」

 夜風がそよぐ。心地のいい春の風。声をかき消さないほどの、柔らかな風。

 いつも背中を見送るのは私の方だと思っていた。自分の背後のことなど考えたこともなかった。後を追うばかりだと思い込んでいたのだ。

 だけど、私の背に和泉がいる日もあるのだと思ったら、少し安心した。

 「思いやりって難しいね」

 「何の話です?」

 「彼氏。いなかったみたい」

 「はい?」

 「私にはいらないみたい」

 「嘘ですか?そうだろうと思いましたけど」

 「はい嘘。信じ込んでたくせに」

 「信じてません。口車に乗ってあげただけです」

 「嘘嘘嘘。寂しがってたの分かってるからね」

 背もたれから顔を覗かせるとうざったそうに手で払われそれを避ける。

 「お嬢こそ泣きべそかいてましたよね。たかだか二日家を空けただけなのに帰ってくるの待ちきれなくて迎えに上がられるなんて」

 「はあ?社畜の重荷を少しでも軽くしてあげようって計らいでしょうが!」

 「はいはいお心遣いどうも感謝感激雨あられでございます」

 「言っとくけど私、彼氏はいないけど告白はされたんだからね」

 「あーあーそうですか」

 「そうだよ。カラオケ行ったし、帰り道も送ってもらったし、電話もしたしカフェと公園デートだってしたんだから」

 「そんなの全部俺としてるじゃないですか」

 「…な、何言ってんの?和泉とはデートじゃないよ」

 「じゃあその相手と俺と、どっちの方が楽しかったですか?」

 言葉に出来なかった。答えは決まっていたからだ。

 松岡くんは優しかった。いい人だった。それでも、比べる自分がいた。

 どうしたって替えのきかない、愛しい日々。

 「俺はあなたの歌う上の句の後に下の句を歌えます。お嬢の電話にワンコールで出ます。好きなお茶屋もたまちゃんのところの和菓子も知ってます。貴方は歩くのが好きなくせにすぐ疲れるから、ゆっくりできる東屋のある公園でオチのない話を延々と聞いてられます。あなたの望む場所になら、この車でどこへだって連れて行けます。」

 駐車場に車を停めると私の目を見て目を細めた。長い指先が頬を掠める。まるで春の夜風のように。和泉は口の端を持ち上げた。

 和泉の浮び上がる白い鎖骨は月みたいだ。

 「免許も持ってないガキと肩を並べる気はありませんよ」

 「お、大人げない」

 「それでもいいです。俺は俺の全部で、あなたを楽しませる自信があるので」

 そう言って運転席から降り、後部座席のドアを開けて手を差し出した。その手を握ると、普段の低い体温がそこにあった。

 夜明けは来る。もう、恐れはない。

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うつろい千年記 替え玉 @kaedama_07

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