もろともに
枯れない花だと思った。
「旺二郎、女性は花だと思って接しなさい」
体の弱い母親はいつもそう言っていた。厳しいだけで愛情の欠片もない父親をなぜ選んだのだろうと思うような、儚げな雰囲気がいつも不安だった。
「旺二郎、また痩せたんじゃない?」
「それはそっちだろ」
「女の人はいいのよ。男の人はダメ、強くなきゃ」
「時代錯誤」
「うふふ」
今にも茎からぽっきり折れてしまいそうな母親と話すのは苦手だ。
女は花に似ている。母親に言い聞かせられたせいかそう感じる。
栄養分のように感情を欲しがり、日光も水分も土も欲しがって、そのくせ自分は安全な場所に根を張って動こうともしない。
見た目が良ければその分尚更。
「恭一さんのところのお嬢さんはどう?元気?」
「目に余るくらいに」
「うふふ。朗らかでなによりね」
「ありゃ花ってより雑草だよ」
「雑草という草花はないのよ。逞しくて素敵じゃない」
母親の消えそうな笑顔に釣られて口角があがったのがわかった。お嬢のことを思うときだけ、自然でいられる。
病室のドアが開いて自分とよく似た冷えた目をした男が現れた。こうして対面で顔を合わせるのは数年ぶりか。タイミングが悪かった。
「挨拶もなしか」
通り過ぎようとした背中越しに自分とよく似た低い声がかかった。嫌いな父親と自分は見た目も中身もよく似ている。
「お元気で」
チンピラから盗まれた愛車を(あの手この手を使って)取り返し、ようやく乗り心地の悪い代車から解放された。お嬢様学校まで向かう途中でタバコを買い、裏の喫煙所で一服してから迎えの車の列に並んだ。
三十分経っても姿を見せないお嬢に苛立つ。電話をかけてみるが繋がらない。
短い舌打ちをして和菓子屋に向かう。
「あれ?こんにちは和泉さん。」
「どうも。お嬢は?」
「さあ、今日はここには来てないですけど…あ、嘘じゃないですよ?」
お嬢の唯一の友達のたまちゃんは慌てて両手を振って見せた。まだ学生ながら家計を支えている落ち着き払ったしっかり者で、よくもまああんなヘタレ娘と友達でいてくれてると常々思う。
「ありがとうございます」
「またサボりですか?」
「みたいですね。後でしばきます」
「あはは。じゃあ喧嘩したあと仲直り出来るように、サービスしときますね」
たまちゃんは箱に和菓子を詰めながら微笑んだ。
喧嘩も何もお嬢が一方的に不貞腐れて、その機嫌取りが必要なだけだ。そう思っているのが伝わったのか、たまちゃんは一息ついて箱に蓋をした。
「だって言い合いできるって、それだけ向き合ってるってことでしょ」
「罵声でも?」
「茅ちゃん、学校の子たちと会話もしないんですよ。」
「よく知ってます。」
「あはは。でもそれって、伝わらないって諦めてるから。それよりずっといいと思います」
いつだか少し前に迎えの時間より早く着いて、お嬢の教室を見上げたことがある。つまらなそうに窓の外を眺めていたお嬢と目が合い、シャっとカーテンを閉められた気分の悪い記憶だ。
でもたしかに、そのときよりも言い合いの間は目は生きている気がする。
「ありがとうございます、頂きます」
「ご贔屓にどうも。まいどあり〜」
友達のいないお嬢の行くところは簡単に絞ることができる。身動きの取れない地縛霊はここら辺で最近は見かけない。と、すると。
帰りにコンビニに寄ったとき隠れて猫のエサを買い込んでいたのを思い出す。寂れた古本屋の裏に車を停め、路地を進んでいくとしゃがみこむお嬢の小さな背中を見つけた。
声をかけようとしたとき、足元のアスファルトに血痕がついているのを見て喉に留めた。
「『菜の花綴り』」
猫の死骸が菜の花色に染め上げられ、浄化された。大きな力をこんな小さな生き物に分け与える。その繊細さになんとも言えない気持ちになった。
本当に、こんな繊細な人にとんでもなく危険な力を授けた親父さんが憎らしく思える。
「探しましたよ」
飛び上がる肩に気付かないふりをして頭の上にたまちゃんのところで買った和菓子の箱を乗せた。
「急に声掛けないでよ」
「すみません」
「…一人で浄化できたよ」
「おめでとうございます」
「…ありがとう」
ブレザーの袖が濡れていた。どこまで感情豊かなんだろう。
後部座席に乗り込んでからも静かに窓の外を眺め、散りゆく桜を目で追っていた。目の縁が赤くなっているのが分かるけど、下手に声をかけると刺激する気がして何も言わなかった。
「これ何?」
「たまちゃんのとこのです」
「分かってる、中身」
「落雁です」
「なんのために?」
ガサガサと箱を開け一つ口に運びながら訝しげにフロントミラーで睨んだ。とりあえず受けとったならそこまで機嫌は悪くないはず。
宇治原の家に仕えたあの日から長い月日が経ったはずなのに、今でも昨日の事のように思い出せる。
お嬢はまだ十歳で、柱の影から不安そうに俺を覗き込んでいた。あの日から、背が伸びて顔つきが大人びた。
周囲の人間に恐れられるほどの力を手にし、好奇の目に晒されるお嬢を守ると決めた日から七年。
修行をサボる日があっても必ずそのツケ分の修行に向き合うからお嬢の根性は見上げるものがある。(だったら初めからサボらなきゃいいのに)
文句を言っても立ち止まったとしても、自分と向き合うことからは逃げない。
泣いて喚いて、誰かが何とかしてくれると期待しているのが透けて見える人間とは違う。自分の役割を理解し葛藤し、それに打ち勝つ力がある。
その強さを、ずっと見ていたいと思った。この人のそばで人生を全うしたいと思った。
お嬢が強くなっていく姿を、大人になる姿を、極彩会を引き継ぐ姿を、一番近くで支え守っていく。それが俺の生きる理由になった。
毎日、なんのために生きているのか分からなかった。
「仕事だぞ旺二郎」
「今日は友達にサッカーしようって誘われたんだ」
「サッカーより大事なことがお前にはあるだろ」
父親の冷えきった声が俺をここまで冷めた人間にしたんじゃないかと思うときもある。だけど離れて暮らしてからもそれは変わらなかったから、単純に父親に似ていただけなのか、元から俺の性格そのものが冷めているものなんだろうと思う。
「旺二郎くんといてもつまんない」
「ひどいよ旺二郎くん!勇気出してミカちゃんが告白したのに断るなんて!」
物心つく前から仕事に命を捧げろ、組合のために生まれた人間だと教え込まれた。
青色が専門分野の呈色師が集まる
中坊に上がった頃には一人で任務をこなしていた。死にかけるような案件もざらにあった。
「またこんなにぼろぼろになって…お父さんもどうしてこうなのかしら」
母親の心配そうに手当をする姿を見る度に、じゃあ助けてくれと喉元まで出かかった。泣いて助けを求めなかったのはもっと小さい頃にそうして母親を静かに泣かせてしまったからだ。
俺がやらなきゃ母さんが悲しむ。父さんが幻滅する。兄ちゃんが怪我をする。青彩会の跡取りを、俺が危険に晒すことになる。
だったら俺が強くなって、淡々と仕事をこなせるようになればいい。
普通の友達が羨ましかった。疲れて帰って安心して休める家があって、おかえりと言ってくれる家族がいて、毎日何か些細なことでも大きなことのように悩み、笑って解決し、身近な人間と感情の共有がなんの躊躇いもなくできる。他人の感情なんか見えたりしない。
自分の仕事がやりたいことなのかやりたくないことなのかの判断がつかなかった。生まれる前から決まっていたことを自分の意思で変えられるわけも変えていい理由も持ち合わせていなかった。
ただ任務をこなしていく度、まだいきたくないと泣き叫ぶ霊を祓う度、自分の負の感情に気づかない人間の感情を消していく度、自分の中で何かが削れていく感覚があった。
お嬢と出会ったのはそんなときだった。
俺は最年少で役職を与えられ、組合の頂点に立つ極彩会の顔合わせに呼ばれた。それぞれのシマの主義主張をぶつけ合うくだらない集まりだと心の中で馬鹿にしていた。
父親に連れられてどデカい宇治原家の敷居を跨いだときは欠伸を噛み殺して長い廊下を歩き、庭の池の鯉のほうが自分より自由そうだと眺めていた。
「ここで待ってろ」
父親はほかの組合の会長数人と極彩会の会長が待っている奥の和室に入って行き、それぞれの幹部は用意された部屋でお互いを睨み合うように主人を待っていた。
阿呆らしく思えた俺は暇つぶしに屋敷を歩き回っているうちに元の部屋が分からなくなった。どうせ時間はかかるだろうし顔合わせが終わる前に戻ればドヤされはしないだろうと探索することにした。
たどり着いたのは中庭で、一本静かにそびえ立った桜に目を奪われた。
もろともに あはれと思へ 山桜 花より外に 知る人もなし
修験道の行者が歌ったとされる和歌が頭に浮かんだ。
厳しい修行を積んで霊力を得、悪霊を退散させたり憑き物を祈祷で払って病気を治したりと、不眠不休で食事も取らずに厳しい修行を行ったといわれている。その最中にふと目の前に現れた山桜。
それは、一体どれほど心を慰めるものだっただろうか。
少なくとも俺には、天からの賜り物のように思えた。
その桜の前で床に寝転がって昼寝をしていたのが、まだ幼かったお嬢だ。足をひっかけてしまい声を上げそうになったが、すやすや深い寝息を立てていて胸をなで下ろした。
イカつい親父さんから生まれたとは到底思えない人形のような造りの顔が子供のくせにと鼻についた。年の割に小柄だとも。
春の風に吹かれて散る桜の花びらが顔にかかり、極彩会会長の娘は目を覚ました。寝ぼけなまこで俺の顔を見上げて瞬かせ、へらりと笑って見せた。
「いけめん」
極彩会会長の娘はそう呟いてまた重たそうに瞼を閉じ、眠った。
何だこのガキ。
自分より年上の人間としか接してこなかった俺にお嬢のその姿と表情はあまりにもあどけなく無防備で、酷く不安になった。
自分の冷たさが、なんの躊躇いもない任務への遂行意識が純粋無垢な子供と向き合ったときに酷く危なっかしく思えた。
今まで疑問に思ったことなどなかったのに、こんな子供の間抜けた笑顔たった一つで。
ませてるんだかガキくさいんだか、よく分からない。
だけどお嬢の寝息が妙にクリアに耳に響いて、冷えた心臓のリズムを正しく整わせるような気がしてやけに気持ちが落ち着いたのを今でも覚えている。
お嬢の寝息を聞きながら桜に見入っている間にいつの間にか壁にもたれかかり眠りに落ちた。
目を覚ますと日は落ちて肌寒く、自分の体に小さな白いカーディガンが掛けられていた。それは昼寝をしていたお嬢が着ていたものだった。
「よう。よく眠れたか。青彩会んとこのせがれだろ?」
しゃがれた声に一気に頭が冴えて体を起こすと、渋みのきいた和服の男がけたけたと笑っていた。
これが、呈色師のトップに君臨する極彩会会長、宇治原恭一。
ここまで重圧な揺らぎのない彩気を見たのは初めてだった。人の上に立つ人間の度量やや風格の違いを肌で感じた。
「しけたツラしてるな。えげつない量の仕事やらされてんだろ」
「…会長は」
「酒かっくらってるよ。酔い覚ましにちょっと桜見に来てみたら、娘が死んだんじゃねえかって血相変えて泣きついてきたから寝かしつけてきたとこだ」
「すみません」
「いやあいいんだ」
胡座をかいて持っていた日本酒を盃に注ぎ、桜に傾けてぐいっと飲み干した。酔い覚ましに来たんじゃないのか。
「身内と仕事ってのはやりづらいよな」
「他人とやるよりは気が楽です」
「いやあ、ダメだ。肩の力が抜けなくてしょうがねえよ。家は帰る場所だ。仕事場であっちゃならない」
そんなこと言われても、物心つく前から父親とは仕事場でしか関わりを持ってこなかったから分かるわけない。何が言いたいのか分からないながら、不憫に思われているのが分かって癇に障った。
「気悪くしたら悪いな。ウチの娘もそのうち一緒に仕事するようになると思うと気が重くてな」
「あのお嬢さんが」
「子供だからって甘く見ちゃいけない。俺らなんかよりずっと危なっかしい力を持ってる。そのせいでまともに学校通わせてやれてないんだ。言葉は少し遅れてるが、まあ中身は普通だ。力以外のことは」
そんな風には見えなかった。そのくらい、普通の子供に見えた。そのときは。
「またな。それもらっとくわ」
「あ、はい。ありがとうございました」
極彩会の会長は小さな白いカーディガンを畳みながら渡り廊下を静かな足音で去っていった。
父親の冷徹で背筋の伸びるような風格とは違う、力は抜けているけどっしりと腰を据えた重みのある背中だった。
お嬢と再会したのはそれからすぐの事だった。
そのとき一時的にコンビを組んでいた小暮さんという、青彩会の中では珍しくおしゃべりでフレンドリーなタイプのオッサンが親父さんに呼び出されて連れてこられた。
言うまでもなく俺の苦手なタイプだった。
「おうおう、上官のとこ行くんだからそんなシケた顔してんじゃねえよ」
「元々こういう顔です」
「んなこたねえよ、あ、お前それスーツか?中坊なんか制服でいいだろうが」
「すぐ汚すんで、母が」
「ったく、制服ボロボロにさすまでガキを働かすなっつんだよな」
小暮さんの手は大きくて、肩に置かれた手はずしりと重みがあった。
長く続く廊下で足を進めているとほのかに抹茶の香りが鼻を掠めた。春の陽気にぼうっとしながら、この家はなんだか時間が止まっているように感じた。
「だれ?」
猫の首輪の鈴のような声にはっとして振り返る。小暮さんも驚いた顔をして、極彩会会長の娘を凝視した。
「茅お嬢さん。ご無沙汰してます」
「あ、花札のおじちゃんだ」
小暮さんは孫を見るような優しい目で、ほんの少し力加減を間違えればひねり潰してしまいそうな大きな手で頭を撫でた。
極彩会会長の娘はその間もじっと俺の顔を眺める。
「…あの、この間。上着、ありがとうございました」
気まずくなって頭を下げると、会長の娘は目をキラキラさせて小さく小暮さんの背中に回ってしまった。
「なんだお前、接点あったのか」
「この間少し寝こけて上着を借りました」
「おっまえ!茅お嬢さんになんつーことさせてんだ、普通お前が貸す側だろうがよ」
「いいの」
小暮さんのしゃがれた怒声を、鈴の音が止めた。
小暮さんと目を合わせ、ちらりと背後を見る。
「いけめんは、いいの」
会長の娘は軽く目を逸らし、薄く頬を桃色に染めて言った。
それからお嬢は交流の度に、少し離れたところから猫のように体半分を壁際から出して俺の様子を伺うようになった。
俺はいつもいたたまれなくて見て見ぬふりを貫いて、小暮さんはそれを面白がっていつも肘でつついてきた。
梅雨の時期になり、宴会で軽く酒を飲まされた俺は気がつくとまたあの中庭の桜の木の前にいた。
火照った頭と顔に逞しく静かに鎮座する桜の木は酔い覚ましにちょうど良かった。
カタン、と音がしてまたかとため息をつきそうになる。
「なんでいつも俺のとこ来るんですか」
びくっと肩を震わせ、会長の娘はおそるおそる顔を覗かせた。そんなに怖がるくらいなら近寄らなければいいのに。年下の相手は苦手だ。特にこういう、温室育ちのいいとこのお嬢さんは。
会長の娘は怖がりながらも少し離れて座り込んだ。
年齢より幼く見えるのも相まって、何度見てもあのイカつい会長の娘だとは思えない。
「俺の顔、そんな好き?」
酔った勢いで果てしなく気色の悪い質問をしたと自己嫌悪に陥ったが、会長の娘は真に受けてこくこくと頷いてまた瞳をキラキラさせた。
「その顔やめろ」
顔の前に手のひらを広げると目を見張って驚いてぶんぶん首を振った。その純粋なリアクションがおかしくて、喉を鳴らして笑っている自分に気がついた。
最後に笑ったの、いつだっけ。
「きれいないろ」
独り言のように呟いた会長の娘に返事はせず、桜の木を見据えたまま耳をすませた。
「あなたのいろ、とってもきれいな青」
鈴の音のような声だった。
闇夜に光る桜の花びらと、鈴のような声。その声が、俺を綺麗だと言った。
今までの記憶が流れ込む。
厳しい修行の日々。毎日過酷になっていく仕事。離れていった友人。母親の悲しげな顔。兄の何不自由ない、苦労を知らぬ顔。父の冷たい横顔と遠い背中。
仕事で褒められる度、何かを失っていく。泣き叫ぶ霊に情も湧かない。これは仕事だ。目の前のことを淡々とこなすだけの日々。何かが擦り切れていく。でもそれがなんなのか分からない。
─────何が綺麗だ。
「なかないで」
俯いた自分に鈴の音が近づく。
「泣いてねーよ」
「でもいま、かなしい青のいろになった」
「…青にそんな種類あんの」
「うん。あなたのは、真っ青な、きれいなうみの青。となりにいると、すっごくあんしんする」
顔を上げると、会長の娘は一つ空けていた距離を詰めて無邪気に笑った。
嗚咽を上げる俺の背中を小さな手が何度も摩り、「だいじょーぶ、だいじょーぶ」と鼻歌を歌うように言い続けた。
不思議だ。人に心を許すっていうのは、案外心地がいいものらしい。
「誰にも言うなよ。泣いたこと」
ぱっとこちらに顔を向けて軽く頷いた。本当に分かってんのかよ。
「そのかわり、頭なでて」
苦い顔をする俺に詰め寄る会長の娘。泣いたことはおろか、「俺の顔そんなに好き?」なんて身の毛のよだつことを十歳の子供に聞いたなんてことがバレたら人としてヤバい。大いにマズい。父親に張り倒されるだけではない。あの極道のような極彩会の会長に火炙りにされるだろう。
それに、会長の娘の目に映る孤独を見抜いてしまった。それは酷く、よく知っているものだった。
自分の指先が震えているのが分かった。
今まで人に優しくしようと思ったことがあっただろうか。
傷つけないよう、慎重に柔らかい髪を撫でた。
そして不思議なことに、会長の娘の頭を撫でているのは自分のはずなのに、やけに安心した。
しばらく撫で続け我に返り、手を引っ込めると会長の娘はまた座り直して桜の木を見据えた。
「こわくないの?」
「なにが?」
「わたしのこと」
「なんで、俺の方がこわいだろ」
「こわくないよ、ぶあいそなだけで」
「結構言うよな」
会長の娘はまたへらりと笑った。
「私茅。あなたの名前は?」
「和泉旺二郎」
「いずみかあ」
「呼び捨てかよ」
まだ幼かった彼女の本当の力を知ったのは、その後すぐのことだった。
「旺二郎急げ、緊急招集だ」
「どんな案件ですか」
「極彩会会長の娘の捕縛」
「捕縛?」
物騒な言葉に驚いて、目の色を変えて急ぐ小暮さんに聞き返した。あんな子供にどうして準二級レベルの自分が招集をかけられたのか理解できなかった。桜の木の前で力の抜けた顔で笑う会長の娘の顔が浮かんだ。
「力の暴走だ。接点のあるお前が必要だったんだろ」
俺につきまとう会長の娘の姿を小暮さんも何度も見ていた。だからって、なんで俺が。
仕事のときの冷徹な自分を見られることになる。そう思ったら、胸の奥がざわついた。
到着したのは古びた境内で、拝殿の裏に会長の娘はいた。
目を疑うような光景に言葉が出てこなかった。
階段の上で蹲って泣きじゃくる会長の娘から、蛸の赤黒い触手のようなものが何本も飛び出し蠢いて、同い年くらいの女児数名を宙で握りしめている。
女児は泣き叫んでパニック状態だ。
「小暮さん、これ」
「気をつけろよ。自分じゃ制御出来ないんだ。下手したら殺されるぞ」
「何言ってんですか」
「見てりゃわかる。お前は帳おろせ」
小暮さんは俺の胸板を押して自分が前に出た。
小暮さんの言われたとおり、帳と呼ばれる結界を張った。
「茅お嬢さん!小暮が到着しました!もう大丈夫ですからね!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「大丈夫ですからね、今すぐ助けます」
小暮さんは会長の娘を宥めながらゆっくり近づく。
俺は少しずつ蛸の足のようなものを凍らせながら女児一人一人を抱き抱えて端に寄せた。
「『
小暮さんが二、三度指先を擦ると大きな天竺葵が背中に咲き乱れ、その匂いが立ち込める。天竺葵はリラックス効果のある香りを放つ花だ。
「ちがう…ちがうの、私近寄っちゃダメっていったのに」
「茅お嬢さん、泣かないで。もう大丈夫です」
泣き止まない会長の娘に疑念を抱き、足元の凍らせた蛸の足のようなものを凝視した。その瞬間、鋭い棘に変化し素早く動き出した。
「小暮さん!」
小暮さんは振り返る。
会長の娘を庇う形で、咄嗟に詠唱破棄で防御した。
『クワセロ…タマシイ、クワセロ』
蛸足の正体は会長の娘の力の暴走じゃない。会長の娘を人質に取った呪霊。
「くそ…しくじったな」
小暮さんが呻きながら脇腹を押えた。そのまま会長の娘を庇うように倒れる。棘を避けきることが出来ず、血が流れ出ていた。
「小暮さん!クソ!」
現場で頭が真っ白になったことなんて今まで無かった。ここまで焦りを覚えたことも。
自分が具象化する氷が次々無惨に粉々にされていく。
『ホシイ…ツヨイ、タマシイ…ヨコセ……!』
背後から伸びた蛸足に足を取られ、太腿に棘が刺さった。
声にならない呻きが喉の奥で潰れた。小暮さんの分厚い体の隙間から会長の娘と目が合う。
「もうやめて!」
会長の娘が叫ぶと、呪霊の体に太い蔦が現れ絡むと、勢いよく締め付けた。
『ガアアア!』
耳をつんざくような悲鳴を上げ、会長の娘が泣き出した途端光を発する梔子の花弁が具象化され、牢のように呪霊にまとわりつく。
色の葉を詠唱破棄して、二色同時に具象化するなんて。本当に十歳のあの子供の力なのか。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。」
桜の木の前で聞いた、鼻歌のような、言い聞かせるような言葉を思い出す。
「大丈夫。俺の顔、見てろ」
血が沸騰しそうなほど熱い。
今まで自分がなんの感情も持たずに仕事をこなせていた理由がやっとわかった。守るものがなかったからだ。
極彩会の会長や小暮さんが、何故子供扱いするのか。一緒に仕事をしたがらないのか。よく分かった。
守るべき存在だと思ってくれてるからだ。
俺も、あの子を守らなきゃ。
ああ、守るものがあるってこんなに怖いんだな。
手足が震える。太腿に突き刺さった棘を握りしめる。体に思い切り力を込め、全力で引き抜いた。
のたうち回るような痛みに息を荒らげながら、その棘を折り足を引き摺って捕らわれた呪霊に近づく。
「『
凍らせた棘を呪霊の本体に振りかざした。突き刺さった確かな感触を確かめ、秘色色に浄化されていったのを見て安堵すると体の力が抜け倒れ込んだ。
「しなないで」
小暮さんののしかかった体から這い出た会長の娘が目に涙を浮かべ体を揺する。もう手当する力も残っていなかった。
「しなないで、いずみ」
「…はは、呼び捨てかよ」
緊張感のない会長の娘の呼び捨てに、笑いが込み上げた。仕事を終えてこんなに傷だらけになったのも、こんなに清々しい気持ちになったのも初めてのことだった。
「こちら白石会三級
「俺はいいから、先に、小暮さんを」
「旺二郎さん、喋らないでください!」
「頼む、頼むから」
「小暮のおじさん、もうなおったよ」
「……え?」
救護班の白石が困惑し、小暮さんの体を仰向けにすると突き刺された脇腹の傷がすでに塞がっていた。上体を持ち上げて小暮さんを揺すると、薄く目を開いた。
「あ、…旺二郎、お前、よくやったな」
「小暮さん、大丈夫なのかよ?怪我は?」
「ああ、…俺も、よく分からないんだ。気を失ったあと、傷の部分がすうっと空気に触れたと思ったら、血が止まってて…」
白石は目を見張り、小暮さんの傷口に張り付いていた蓬の葉を剥がした。
「まさか…茅お嬢様、貴方が……?」
「うん。お父さんが教えてくれたの。けがしちゃったときは、よもぎがいいんだって」
「あ」
気がつけば自分の刺された傷口にも蓬の葉が貼られ、いつの間にか止血されていた。
「たすけてくれてありがとう、小暮のおじちゃん、いずみ。」
会長の娘は無邪気に笑ったあと、魂を抜かれたように倒れ込んだ。小暮さんが抱き抱えると、気を失ったように見えたが眠っていただけでほっとした。
「旺二郎さん、失礼しますね」
「いってえ!」
「力を振り絞って使ったのでしょうね。こんな幼い子が…信じられませんね」
「手当だけじゃねーよ」
「え?」
小暮さんは深刻な表情で、腕のなかで気持ち良さそうに寝息を立てる会長の娘を憂いた。
「この子がいなきゃ、俺たちゃ死んでた。ありゃ一級レベルの呪霊だぞ。ここの管轄はどうなってんだ、ったく」
「たしか…黒紅会の」
「クソが!人のシマ荒らして自分とこの放り出して迷惑かけやがって、ぶちのめしてやる!」
「その感じならもう平気ですね。あー……疲れた」
宇治原の屋敷に出向くと、大きな足音がドタドタと近づき、真っ青な顔をした極彩会会長が小暮さんの腕の中で眠る娘を見て目を見開き大きな息を吐いた。
「…無事で何よりだ。娘を助けてくれてありがとう、感謝する」
「感謝されるようなことは何もありゃーせん。それに…感謝しなきゃいけないのは俺たちの方だ。」
小暮さんから一連の出来事を聞いている間しきりに娘の頭を極彩会会長は撫で続けていた。
目を伏せながら、柔らかい髪を何度も梳いた。
「どうやら境内で遊んでいた子供たちは呪霊の声に誘われたみたいでした。その気配を感知した茅お嬢様が向かったところを、捕らえられた模様で」
極彩会長は深いため息をつき、眉間を揉んだ。
「よくやってくれた。本当にありがとう」
「そんな、頭を上げてください会長。俺なんか途中すっ転んで寝ちまって。旺二郎に助けられました」
「よく頑張ったな、旺二郎。」
そのとき、宇治原会長の纏う宇治色が疲れ切った体を包み込んだ。
「いえ。ありがとうございます。…力不足でした」
「そんなことはない。準二級のお前が一級の呪霊を祓ったんだ。飛び級昇級の案件だぞこんなの」
ああ。そうか。
会長の宇治色も、娘の茅お嬢の翡翠も、優しく人を包み込む色をしているんだ。来るものを拒まない、深く受け止めてくれる色。
感謝で下げた頭が重い。宇治原の人の、優しさや温かみが、俺にはそれほどまでに重く嬉しかった。
「なあ、旺二郎。一つ提案なんだが」
「はい、なんなりと」
「はは、そんな畏まるな。お前がもし良ければ、極彩会に来ないか」
小暮さんが驚いて目を瞬く。俺は面食らったまま、言葉を失った。
「うちの茅は随分懐いているようだし、今回の話を聞いて、お前が傍にいれば、力の調整になるんじゃないかと思ってな。住まいはここで良ければ使っていない部屋がたくさんあるし、良ければ会長と相談して、」
「ここに置いてください」
気がつけば頭を下げていた。
顔を近づけた畳の匂いを感じる。緑に包まれたこの家に、仕えたいと心から思った。
俺のいるべき場所はここだ。
「俺を、極彩会に入れてください」
額が赤くなるほどに押し付けた。
守りたいものができた。恐れを知った。守るべきものがないときよりも、迷いが出る。心が揺らぐ。
だけど確かに、俺はあのとき強くなれた。
守るべきものがあれば、俺は今よりもっと強くなれる。今よりもっと、会長と、お嬢を守れるようになる。
「お世話になりました」
「迷惑かけるんじゃないぞ」
「大出世じゃん。俺が会長になったら、口利き頼むわ」
父親は最後まで真正面から俺を見ることはなかった。青彩会を引き継ぐのは兄なのだから、その下がどうなろうと関係ない。さして興味もなさそうに、宇治原会長に挨拶を済ませて俺を送り出した。
馬鹿ぼんの兄は今となっては顔も思い出せない。
「旺二郎!旺二郎!何か、困ったことがあったらすぐに連絡するのよ」
「大丈夫。母さんも、体弱いんだから無理すんなよ」
「私の事なんかいいのよ。…この家で、私の目を見て話してくれるのは貴方だけよ、旺二郎」
目に涙を浮かべる母はやっぱり不安定に風に煽られる花のようで、感謝はしつつも不安が打ち勝っていた。回されていた腕の細さが心配だった。おしろいの匂いも苦手だった。
この家に一人置いていくことに胸が痛んだけれど、もうここは俺の居場所ではなくなっていた。母もそれを理解して送り出した。
「お世話になります。和泉旺二郎です。本日より、貴方をこの身に代えてもお守り致します。」
極彩会のほとんどの組合員がお嬢に気を許して貰えないと嘆く中、お嬢はロマンチックな演出が好きだとのアドバイスを受けた結果、片膝をつくなんて言う過剰演出をしてしまい顔から火が出そうだった。
だけど思春期ピチピチ十五歳の俺には、それが精一杯だった。そしてそれは見事、お姫様を夢見るお嬢のハートに運良く刺さった。
引っ込み思案なのは変わらなかったけど、前よりも色々なことに興味示すようになり言葉が追いつきすこしずつ明るくなって学校に行けるようになり、翡翠の色そのままの、優しく凛とした芯の強い人に育った。
「和泉、和泉」
なんだか長い夢を見ていたような気がする。思い出せないけれど、懐かしい気分だ。
顔を覗き込むお嬢が出会った日の十歳の顔つきと、今の十七歳の顔つきで朧気に交差する。
「こんなとこで寝たら風邪ひくよ」
「…じゃあ上着貸してください」
「はあ?何言ってんの」
「行かないでください」
腕を掴むと、困惑した表情のお嬢の頭に桜の花びらが掛かる。後頭部に手を回し、顔を引き上げる。
あと数センチで、手に入るのに。お嬢の瞳が揺れる。小さな浅い吐息。華奢な肩が戸惑っている。
抵抗、しろや。
「花びら。頭についてますよ。アホっぽいです」
「紛らわしいわ馬鹿!一生寝てろ!」
枯らさせやしない。
俺だけの、唯一の枯れない花だ。
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