黒板の夜明け

第7話 黒の壁

 夜が明けた。

 砂漠の空は、まだ煙の名残を抱いていた。

 焦げた風が吹き抜け、焼け跡には無数の黒い石片が転がっている。

 白だった神殿の壁は、もうどこにもなかった。

 代わりに残されたのは、闇を吸い込んだような黒。


 アークはその中に立っていた。

 焼け跡の砂を踏むたび、足跡が浅く沈む。

 風に舞う灰の粒が、太陽の光を受けて銀色に光った。


 セリアが、そっと隣に立った。

 彼女の衣も煤で黒く染まっていたが、目は澄んでいた。


「……静かですね。」

「炎が消えたあとの世界は、いつも静かです。

 でも、その静けさが“始まり”なんです。」


 アークは足元に転がる石を拾い上げた。

 掌に収まるほどの大きさ。

 焼けた跡がまだ残り、ところどころ白い粉が張り付いている。

 彼はそれをじっと見つめた。


「白を焼くと、黒になる。

 けれど、黒は死ではない。

 ……光を抱く色だ。」


 近くの壁の断片。

 そこには、一面に煤が残っていた。

 アークはゆっくりと近づき、掌を当てた。

 冷たい。

 けれど、その奥からかすかな震えが伝わってくる。


「……生きている。」

「壁が?」

「いや――記憶が。」


 彼は腰の袋からチョークを取り出した。

 星の粉を固めた、それは小さな白い欠片。

 焼け残った黒の壁に向けて、ゆっくりと手を伸ばす。


 指先が黒に触れた瞬間、

 風が止んだ。


 最初の一文字。

 《学》。


 チョークの先が黒の表面を滑る。

 ザリ……という乾いた音が響き、

 その軌跡が淡く光を帯びた。

 次の瞬間、周囲の空気が震えた。


 セリアが息を呑む。

 黒い壁の上に描かれた白い線が、

 まるで呼吸をするように脈打っている。


「……光ってる……!」

「黒が、言葉を受け取ったんです。」


 アークはさらに一文字、続けた。

 《び》。

 そして最後に、《は》。


 《学びは》――。


 その瞬間、黒板の奥から微かな音がした。

 まるで心臓の鼓動のように。

 ドクン、と地面が震えた。

 風が一気に吹き抜け、砂が舞い上がる。


 アークの髪が揺れ、チョークの粉が空中で散った。

 粉が光を帯び、夜明けの空に溶けていく。


 セリアは叫んだ。

「アーク! 壁が……!」


 黒板が、光を返していた。

 白く描かれた線が徐々に形を変え、

 そこに無数の文字が浮かび上がっていく。


 《教えることは、恐れを消す。》

 《恐れを消せば、世界は見える。》


 それは、アークの記憶。

 炎の夜に言えなかった言葉たち。

 黒板が彼の心を“読み取って”いた。


「まるで……話してるみたい。」

 セリアの声が震える。

 アークは頷いた。

「黒板は、聞いているんです。

 俺たちの言葉を。」


 そのとき、周囲にいた人々が集まってきた。

 昨日まで神官の命に従っていた者たち、

 信仰を失いかけた村人たち、

 皆、黒い壁を見つめて立ち尽くした。


「……書いてもいいですか?」

 小さな少年が震える声で尋ねた。

 アークは微笑んで頷いた。

「もちろん。」


 少年は拾った小石を手に、黒板の隅に文字を刻んだ。

 《いのる》。

 たったそれだけ。

 しかしその文字が浮かぶと、壁全体が再び光を放った。


「祈りが、消えない……」

 セリアが呟いた。

「ええ。祈りは消えるものじゃない。

 ただ、形を変えるんです。」


 アークは再びチョークを握りしめた。

 黒板に向かって、ゆっくりと書く。


 《学びは、祈りの形を変える》。


 黒板が応えるように振動した。

 粉が宙に舞い、光の粒が人々の髪や衣に降り注ぐ。

 その光は、まるで神殿の炎とは正反対の――

 優しく、包み込むような輝きだった。


 アークは黒板に背を向け、群衆に向かって言った。


「これが、新しい祈りの形です。

 言葉を唱える代わりに、書く。

 神々の声を待つ代わりに、考える。

 それが、人の“学び”です。」


 人々の目に、涙が浮かんだ。

 誰も拍手をしなかった。

 ただ、風の中で静かに手を胸に当てた。


 太陽が昇る。

 黒板の表面が光を浴び、まるで生命のように輝いていた。

 セリアがその光景を見ながら言った。


「この黒い壁……きっと、神々の最後の贈り物ですね。」

「かもしれません。

 でも、贈り物にするか、呪いにするかは――

 これから学ぶ人次第です。」


 アークは黒板を見上げた。

 黒が深く、静かに光を抱いている。

 その姿は、夜空のようだった。


「……これから、授業を始めよう。」

 その言葉に、風がそっと答えたように吹いた。

 黒板の上で粉が踊り、

 新しい時代の最初の音――チョークの走る音が響いた。


 カリ……カリ……。


 その音は、砂漠を越え、

 遠い未来へと届いていった。

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最初の教師 ―黒板以前の世界― はらいず @HRIZ_Daimajin

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