神の裁きとチョークの誕生

第4話 神殿の審判

 砂漠の朝は、夜よりも静かだった。

 風は止み、空は薄く青を帯びる。

 その中心――白大理石の神殿が、まるで空そのものを支えるかのようにそびえていた。


 アークは、そこに連行されていた。

 足首に縄。手は後ろで結ばれ、周囲を黒衣の神官たちが囲んでいる。

 石畳の上を歩くたびに、足音が洞窟のように反響した。

 天井は高く、壁には古代の象形文字が刻まれている。

 だが、そこには一つとして“意味”が残されていない。

 神官が代々、形だけを模倣し、意味を封じた。

 この時代、書くとは“真似ること”であって“伝えること”ではなかったのだ。


 その中心に玉座があった。

 若き王が座し、両脇を二人の神官長が固めていた。

 王の瞳は琥珀色に光り、静かにアークを見下ろしている。

 そして、その傍らには一人の少女――王女セリアの姿があった。

 年の頃は十六。

 純白の衣に包まれた細い指が、緊張のせいか微かに震えていた。


「罪人、アーク」

 神官長の声が響く。

「お前は神殿の禁を破り、神の声を壁に刻んだ。

 “学び”を語り、“教え”を与えた。

 それは、神の役目を奪う大罪である。」


 アークは跪いたまま、ゆっくり顔を上げた。

 視線は王をではなく、壁に向けられていた。

 そこにも、古びた“模様”が刻まれている。

 誰かの祈りの痕跡。

 けれど、何を祈ったのか、今となっては誰も分からない。


「……神々は、人の祈りを聞くと言う。

 けれど、その祈りが何を意味するか、知っている者はいない。

 俺はただ、それを伝えられる形にしたかっただけです。」


「形にするとは、言葉にすることだろう?」

「はい。風は消える。だが壁は、残る。」

「その残るものが“傲慢”なのだ!」


 神官長の怒声が響く。

 アークの頬に飛沫が散った。

 だが彼は微動だにしない。

 目だけが真っすぐに、王の傍らの少女を見ていた。


 王女セリアが口を開いた。

 声は細く、しかし透き通っていた。


「神官長、ひとつお伺いしてもよろしいですか。」

「姫君、これは――」

「彼が罪人かどうかを決めるためには、“罪の形”を知る必要があるでしょう。」


 王は頷いた。

 神官長は一瞬逡巡したが、やがて静かに下がった。


「アーク」

 セリアはまっすぐに言った。

「あなたが“授業”と呼んだ行為を、ここで見せてください。」


 神官たちがざわめいた。

 王も眉を上げる。

「王女、それは……」

「見ることが、神々への冒涜ですか?」

 セリアの瞳は強かった。

 その光を前に、誰も言葉を返せなかった。


 アークは立ち上がった。

 縄が擦れる音が響く。

 彼は周囲を見渡した。

 机も紙もない。

 ただ、床に積もった砂塵があった。


 アークは足でその砂を均し、指で円を描いた。

 白い粉が舞う。

 彼の声は静かだった。


「……ここに太陽があります。

 この円の中に、もう一つ小さな円を描きます。

 これは“月”です。」


 神官たちは息を呑んだ。

 アークは指先で円を重ねる。


「太陽が沈むとき、月が現れる。

 消えたわけではない。順番を変えて、同じ空にある。

 それを“教える”ことが、俺のしたことです。」


 セリアは立ち上がり、王を振り返った。

「……父上、これを見てください。

 これは罪ではなく、ただの“記憶”です。」


 だが、神官長が怒号を上げた。

「やめよ! 神の光と影を一つの面に描くとは、天地を乱す行為だ!」

 杖が振り下ろされ、砂の上の図が掻き消された。

 粉が宙に舞い、光を反射する。


 アークは、消えた砂の面をじっと見つめた。

 やがて、ゆっくりと指を動かす。

 何もない床の上に、再び線を描いた。


「……消されても、描けばいい。

 学びは、消えない。」


 王女の唇が震えた。

 その言葉が神殿全体を貫いたように、空気が変わった。


 その瞬間、天井の隙間から一筋の光が射した。

 神殿の壁を照らし、アークの指先を白く染める。

 その指先から、砂が静かに浮き上がった。


「……光が、粉になってる……!」

 誰かが叫ぶ。


 光の粉が空中で形を成す。

 それは、ひとつの円、そして文字だった。


 《+》――足す。


 王は息を呑み、立ち上がった。

 神官長は震えながら叫んだ。

「やめろ! 神々の印を写すな!」


 しかし、アークは微笑んだ。

「これは神々の印ではない。

 人が生きるために作った、“考える形”です。」


 沈黙が訪れた。

 光が消え、砂が落ち、粉が地に還る。

 アークはその場に跪き、両手を広げた。


「王よ。

 もしこの行為が罪なら、俺は喜んで焼かれよう。

 けれど、もしこの形が希望なら――

 どうか、この“粉”を残してください。」


 王は黙っていた。

 長い沈黙ののち、重い声で告げた。


「……アーク。お前の行為は、神々を脅かした。

 だが私は、お前の言葉の中に、人の未来を見た。」


 神官たちがどよめく。

 王はそれを制し、続けた。


「お前を処刑はせぬ。

 だが、白の洞窟は封じる。

 お前はこの地を離れよ。」


 アークは深く頭を下げた。

 縄が外される。

 そして、王女セリアがそっと近づき、手のひらを差し出した。

 その手には、砂の中で拾った光の粉が一粒だけ乗っていた。


「これ……あなたが描いた“足す”の形。

 もう、風に消えない。」


 アークはそれを見つめ、微笑んだ。

「消えないものなんて、ないさ。

 でも、誰かが覚えていれば――それでいい。」


 彼はその粉を、そっと空に放った。

 粉は舞い、光に溶けて消えた。

 その光を見上げながら、セリアは呟いた。


「……授業は、まだ終わっていませんね。」


 こうして、“最初の教師”は神殿を追われた。

 だがこの日、神殿の床に落ちた光の粉は、

 やがて地の奥深くで結晶となり、

 後に“チョーク”と呼ばれる鉱石の源となる。


 それを知る者は、まだいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る