第3話 黒板の誕生

 夜明け前の空は、まるで血を滲ませたような赤だった。

 神殿の尖塔に炎が映り、遠くの砂丘まで照らしている。

 アークは両手を縛られ、兵たちに囲まれていた。

 その目の前には、かつて授業を行った“白の壁”があった。


 しかし今、その壁の前には薪が積まれている。

 神官たちは沈黙し、長老が声を上げた。


「神々の怒りを鎮めるため、

 禁を破った者と、罪の壁をともに焼く。」


 その言葉に、群衆がざわめく。

 火がともされる。

 熱が頬を撫で、煙が空へ昇る。


 アークは何も言わなかった。

 ただ、燃え上がる白の壁を見つめていた。

 あの壁には、子どもたちの線、丸、数字、笑い声が残っていた。

 風に消えなかった“学び”の痕跡。

 それが、今まさに炎に飲まれようとしていた。


「先生!」


 叫び声が聞こえた。

 群衆の後ろから、小さな影が走ってくる。

 キヤだった。

 兵たちが制止するより早く、彼女は炎の前に立った。


「お願い、やめて!」

「下がれ!」

「先生は悪くない!」


 火の粉が舞い、少女の頬に光る線を描く。

 アークは縛られた手を握り、唇を噛んだ。


「……キヤ、離れるんだ。」

「いやだ! 昨日の授業、まだ終わってない!」


 その言葉に、神官たちの顔が歪む。

 怒りか、恐怖か、それは分からなかった。

 彼らにとって“授業”という言葉は、すでに神への冒涜だった。


 突風が吹いた。

 炎が大きく揺れ、燃え盛る薪の間から白の壁が崩れ落ちる。

 石灰の表面が焦げ、黒く変色していく。

 焼ける音が響き、粉が舞い上がる。


 アークは目を見開いた。

 白が黒へと変わる。

 だがその黒は、死ではなかった。

 むしろ、すべてを受け入れるように深く、静かに光を映していた。


「……黒い……壁。」

 誰かが呟く。

 その言葉が風に乗って広がる。


 黒は光を吸い、残された灰が淡く輝いていた。

 その表面に、ひとすじの白い線が浮かび上がる。

 ――それは、消されたはずの“足す”の記号だった。


「神々の声を、聞け。」

 長老が叫ぶ。

 だが、もう誰にも聞こえなかった。

 火の音も、風の音も、何かに飲み込まれていく。


 アークの頭の中に、別の声が響いた。


『……お前は、学びを生んだ。

 我らの言葉を奪い、壁に刻んだ。

 だが、その行為は――もう止められぬ。』


 その声は、怒りではなかった。

 どこか寂しげで、遠い祈りのようだった。


『壁は焼け、色を変えた。

 それでも、言葉は消えぬ。

 それこそが、“授業”だ。』


 アークの足元で、黒く焦げた石が割れた。

 中から、白い粉がこぼれる。

 彼は思わずそれを掴んだ。

 掌の上で、粉は淡い光を放つ。


 チョーク。

 それは、白と黒を結ぶ唯一の橋だった。


 彼はその粉で、崩れ落ちた壁に向かって線を描いた。

 黒い面に、白い光が走る。

 ひと文字。


 《学びは、神を越える》


 その瞬間、炎が鎮まり、風が止まった。

 夜明けが訪れ、初めて静寂が世界を満たした。


 人々は言葉を失ったまま、黒い壁を見つめていた。

 そこには恐れも憎しみもなく、ただ“知りたい”という本能だけがあった。


 キヤが震える声で言った。

「……先生、これが黒板?」

 アークは頷いた。

「そうだ。白を焼いてできた“学びの壁”だ。」


 少女がその黒に指で触れ、白い粉を線にした。

 それは拙い文字だった。


 《ありがとう》


 その言葉を見た瞬間、アークは微笑んだ。


 神官たちは炎の前に跪き、誰一人、次の言葉を発せなかった。

 神々の声も、風も、ただ沈黙していた。

 だが、その沈黙こそが最初の“授業の終わりの鐘”だった。


 世界はその日を境に変わった。

 人は祈るだけの存在ではなく、学ぶ存在になった。


 後に、この出来事は“黒板の夜明け”と呼ばれる。

 誰も神々の姿を見た者はいない。

 けれど、この地に立つ焦げた壁は今も、

 静かにチョークの音を響かせている。

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