最初の教師 ―黒板以前の世界―

はらいず

禁じられた線

第1話 白い壁

この物語は、『黒板の魔導師』本編 第31〜45話――

 “黒板の起源編”で語られた伝承のひとつ、

 **「最初の教師アーク」**にまつわる記録である。


 彼は今から数千年前、まだ“学び”という言葉すら存在しなかった時代に、

 初めて“授業”という概念をこの世界に生み出した人物だった。


 その足跡は、神々により封じられ、やがて“白き壁の記録”と呼ばれる神話となる。

 後の時代――黒板の魔導師・佐久間直哉が使う「黒板」は、

 この男が残した“罪の遺物”から生まれたと言われている。


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 太陽が地を焼く時代だった。

 砂漠の風は乾ききっていて、誰もが空を仰ぐことを恐れていた。

 この地では、言葉は風に返すものとされている。

 神官たちは語った――「文字を刻むな。言葉を残すな。それは神の領域だ」と。


 俺、アークは石工の家に生まれた。

 父の仕事は、神殿の柱を削り、祈りの模様を彫ること。

 幼い頃から、俺も同じように**「形だけを刻み、意味は刻むな」**と教えられてきた。

 誰も“学ぶ”という言葉を知らなかった。

 神々の言葉を受け取るだけ――それが、この文明のすべてだった。


 ある日の夕暮れ。

 俺は神殿の裏にある、白い洞窟に迷い込んだ。

 石灰でできた壁は、まるで月の肌のように白く、冷たく光っていた。

 その表面を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 この白の上に、何かを書いてみたい――そんな衝動に、初めて逆らえなかった。


 指先に石灰の粉をつけ、壁に触れる。

 ザリ、と乾いた音。

 白の上に、わずかに濃い白の線が残った。


 ――線が残った。


 ただそれだけのことなのに、俺は息を呑んだ。

 言葉を刻むことが禁じられているこの世界で、「形」が「記憶」として残る。

 それは、祈りではなく、伝えるという行為そのものだった。


「……なにしてるの?」


 背後から、か細い声。

 振り向くと、小麦色の頬をした少女――キヤが立っていた。

 村の子どもで、よく神官に追い払われていた好奇心の塊。


「線を描いたんだ。」

「なんのために?」

「……数えるため、かな。」

「数える?」

 俺は洞窟の外を指差した。

「山羊が三頭、通っただろう。だから三本。」


 少女は目を丸くして、同じように指で線を描いた。

 そして言った。

「じゃあ、鳥は四羽。だから、四。」


 その瞬間、洞窟の空気が変わった。

 誰も教えたことのない「数」が、声ではなく形で残った。

 白い壁が静かに光を返す。

 俺は気づいた――これは“記録”ではない。

 これは、授業だ。


 翌朝、洞窟に行くと、キヤがまた来ていた。

 しかも、他の子どもたちを三人も連れて。

 俺は慌てて口に指を当てる。

「声を出すな。神官に見つかるぞ。」

「でも、昨日の線、もっと描きたいの。」


 白い壁の前に並び、粉を分け合う。

 俺は簡単な印を見せて言った。

「昨日の三と今日の二を合わせてみよう。」

「合わせる?」

「うん。“足す”って言うんだ。」


 サリと呼ばれた少年が震える手で線を描く。

 壁の上に、“五”が生まれた。

 他の子どもたちが囁く。

「足す……足す……」


 その声は小さく、けれど確かだった。

 言葉が風に消えず、壁に残った。

 祈りではなく、思考が形を持った瞬間だった。


 三日目の朝。

 洞窟に影が差した。

 黒い衣。金糸の刺繍。神官たちが立っていた。


「何をしている。」

 冷たい声が響く。子どもたちが一斉に凍りつく。

 俺は震える声で答えた。

「……壁の傷を整えていました。崩れそうだったので。」


 神官の目が白い壁に移る。

 線。丸。数字。印。

 そして――子どもたちの指跡。


「これは祈りではない。」

「祈りです。」

「ならば声で唱えよ。なぜ壁に残す?」

「風は消える。壁は覚える。」


 沈黙。

 洞窟の空気がぴんと張り詰めた。

 神官は小さく舌打ちし、護衛に命じる。

「線を消せ。」


 白い壁を拭う音が、子どもたちの心を切り裂くように響く。

 線が、丸が、少しずつ薄れていく。

 キヤの頬に涙が伝う。


 俺は思わず、腰の袋から粉を掴み取った。

 白い粉が舞い上がる。

 俺は壁に向かって、指で力強く書いた。


 「+」――足す。


 護衛の手が俺の肩を掴んだ瞬間、

 壁が一瞬だけ、微かに光った。


 神官の目が揺れる。

 俺は振り返り、子どもたちを見た。


「昨日より今日を足してみよう。

 足すことは、増やすことだ。

 減らすことじゃない。」


 キヤが涙を拭き、黒い枝を拾い上げる。

 焚き火の跡で煤けた枝。

 彼女は白い壁に、その枝で線を描いた。


「白が消えるなら、黒で書く。」


 壁に走った黒の線は、白よりも強く輝いて見えた。

 その瞬間、俺は悟った。

 この壁は、もう神々のものではない。

 これは、俺たちの黒板だ。


 夜、洞窟の外に出ると、風が柔らかかった。

 星々はまるで、壁の上に描かれた印のように瞬いている。


 俺は空に向かって呟いた。

「明日も授業をしよう。」


 誰かに許しを得るためではない。

 ただ、子どもたちのために。

 そして、自分自身のために。


 白の壁に生まれた黒い線。

 それが、やがて“黒板”と呼ばれるものの最初の姿になるとは、

 このとき、誰も知らなかった。

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